『天啓予報』第34章 重明

第三十四章 重明ちょうめい

 翌日、槐詩かいし柳東黎りゅうとうれいに会いに病院へ行った。
 柳東黎の顔色はまだ青白かったが、生活に差し障りはないそうで、今日がちょうど退院の日だという。
 昇華者しょうかしゃが常人より強靭な肉体を持つとはいえ、これはちょっと異常なレベルではないか?
 自分の背中の銃創もまだ治りきらないのに、二発撃たれ、肺葉も潰れた奴がどうしてこんなにピンピンしているんだ?
「いったいどんな薬を飲んだんだ?一週間前には集中治療室にいたのに」
「集中治療室だって?」
 柳東黎は困惑の眼で槐詩を見た。
艾晴がいせいから聞いてなかったのか?」
 そう言うと、彼は指で右目の瞼をちょっと押し広げて槐詩に見せ――その瞬間、柳の瞳は分裂して二つになった。
 重瞳ちょうどう
 あの日槐詩が教会で一瞬だけ見た不思議なもの。
「みんな知ってることだし、お前に話しても問題ない。俺の聖痕せいこんは『重明ちょうめい』、東夏とうか系譜の中じゃ比較的珍しい聖痕だ」
 柳東黎は言った。
「視力が少しよくなる以外は特に体質の改善はない。だがこの聖痕と融合すると、体の記録が作られるんだ――データのバックアップみたいなもんだ。もし重症になっても即死でない限りは応急処置がされ、それからゆっくりともとの姿を回復できる」
 槐詩は聞くと、しばらくぽかんとしていたが、やがて溜息をついた。
「それじゃ、集中治療室に入ったっていうのは、嘘なのか?」
 柳東黎は驚き、すぐに憐みの目で槐詩を見た。
「艾晴がお前にどう説明したかは知らないが、お前もあの女には散々騙されたようだな。まあ、幸い、今回は障害が残らなくてよかったよ。でなきゃ多額の借金をして銀血薬剤を買わなきゃならなかった」
 言うと、柳東黎はついでに尋ねた。
「そうだ、俺の車は?誰かが運んでくれるんじゃないのか?」
「……ああ」
 槐詩の視線が泳いだ。
「俺は免許もないし運転もできないから。天文会の人間に引き取って保管してもらった。そっちに届けてくれるはずだ」
「そうか」
 柳東黎は頷いた。まるで疑っていないようだった。槐詩だけが内心ビクビクしていた。あの赤のシボレーが戻って来た時スクラップに変わっていたら、柳東黎は休養明けに自分を木に吊るして殺すだろうと。
 その後はこれといった話もなく、退院した。
 タクシーを待っている時、柳東黎は煙草を吸いながら、ふいに言った。
「そうだ紅手袋べにてぶくろの件、ありがとう」
「え?」
 槐詩はぽかんとし、それから柳東黎がとっくに知っていたことに気づいた。
「あ……ごめん、あの時……」
 だが柳東黎は槐詩の肩をぽんぽんと叩き、槐詩に最後まで言わせなかった。
「だから、車のことは気にするな。保険に入ってる」
 槐詩は感動した。だが槐詩は自分が感動に浸っていている間に、柳東黎がこっそりと背を向けて涙を拭っていることに気づかなかった。
「いいさ、もうそのことは言うな」
 柳東黎は手を振り、車を停めると、槐詩に乗るように言った。
「今日は俺の退院の日だ。悪いと思うなら飯を奢ってくれ」
 二人は普通の食堂に入ると、適当に二皿の料理を注文した。食事の間に、 槐詩は柳東黎に心づくしのお見舞いのつもりから退院祝いになった品をプレゼントした。
 柳東黎は複雑な気持で『覇王バーワン』育毛セットの箱を見つつ、言おうとした言葉を呑み込んだ。
 やっぱり、紅手袋に殺されればよかったのに。
 食事が済み、二人で雑談をしている時に、槐詩は尋ねた。
「あんたはもう自由の身なんだろ。これからどうするんだ?」
「まだよく考えてないが、来月の飛行機で、何日か遊びに行こうと思ってる。服役期間中は新海市から出られなかったし、いつでも居場所を監察官に報告しないといけなかったからな」
 昔の話が出て、柳東黎は思い出すのもつらいという顔をした。
「お前は俺のために危険を冒して敵討ちをしてくれた。その結果、天文会で働くことになったわけだが、艾晴という女はいい上司じゃないぞ。大きな後ろ盾にはなってくれるし、経費を着服することもない。その上お前の能力を最大限引き出してくれるだろう。死なない程度に……とにかく、気を付けろ、機会を見つけて身を引くことだ。弾避けとして使い捨てにされる前に」
 槐詩は笑った。
「確かに艾晴はとっつきにくいところはあるけど、大げさじゃないか?」
「お前と彼女の間に何があったかは知らないが、彼女の元上司、つまり前の駐新海監察官を知っているか?」
 柳東黎は冷笑した。
「その時彼女は、いまのお前と同じ機密秘書の立場だった。それから何か月もしない間に、元上司はアフリカ送りになり、彼女が監察官見習いになった……流石はいん家の人間、弱みを握られたら最後だ」
「陰家?」
 槐詩はハッとした。頭の中に何かが閃いたような気がした。
「いや、この話はやめよう」
 柳東黎は首を振り、話題を変えた。
「さっき飯を食ってる時に、近くに昇華者用の店がないかと言ってたな?勘定を済ませたら行ってみよう」
 言うと、柳東黎は茶碗を持って一気に飲み干し、立ち上がって出口に向かった。
 口を滑らせたことを後悔し、これ以上何も言いたくないように。
 槐詩にとって意外だったのは、新海には七、八人の昇華者しかいないのに専門の店があるということだった。
 しかも遠くなく、歩いて行けるという。
「そこはただの営業拠点で、ない品は金陵きんりょうから取り寄せるしかないんだ。もし急ぎでなければネットで注文した方がいい。でないとぼられるぞ……」
 槐柳東黎の表情が次第に恨みがましくなっていくのを見て、槐詩は彼がぼられたことがわかった。
「まったく腹が立つ。同じ昇華者と言っても、待遇が違う……あっちは天文会B級保護人材だ。毎月何もしなくても給料が出る。こっちはホストとして服役していたのに。チェッ……」
「そんなにすごい奴なのか?」
「いや、なんていうか、そいつの霊魂はとても珍しいんだ。天文会もその希少性を認めているし、その能力はどんな情況でも役に立つ。だから天文会は奴と契約を結んだんだ。
 天文会は奴に身柄の安全と平和な生活を保証し、危険な時には優先的に救助する。その替り、天文会が奴を必要とする時にはいつでも招集に応じるという契約だ。
 家畜と一緒だが、奴は不満はないらしい」
 柳東黎はちょっと言葉を切り、真面目な表情になった。
「覚えておけ、そこに着いたら、自分に関すること喋らせるな。生活をめちゃくちゃにされたくなかったらな」
 槐詩は警戒した。
「危険な奴なのか?」
「いや、危険ではない。正確に言えば、奴はお笑い系だ。だが時には冗談がいちばん厄介なんだ」
「……」
「それから、昇華者になったら、無闇に自分の能力を人に話したり、人の能力を聞いたりするんじゃない。俺の能力のように、人に弱点を知られることが命取りになるかもしれないからな」
 柳東黎は注意深く念を押すと、また尋ねた。
「天文会に加入したってことは、霊魂測定は受けたのか?」
「まだだ」槐詩は首を振った。「来月金陵に行く。その時は艾晴は俺を支部に連れていって自分で測定するって言ってた」
「なら調子を合わせておけ。バカみたいに何でも喋るんじゃないぞ」
 柳東黎は嘆いた。
「当時の俺は正直者でバカを見た。できるだけ弱く評価された方がいい。わかったか?」
「だいたいは?」
 槐詩はわかったようなわからないような顔をした。
 柳東黎は満足そうに頷くと、目の前のドアを指さした。
 意外なことに、旧市街のさびれた通り沿いにある昇華者のための店は、探偵事務所の体裁を取っていた。
 壊れかけた看板がかかっているが、訪れる依頼者があるのかどうか。
中に入ると、いつから片付けてないのか、黴の匂いがした。机の奥に座っている人物は槐詩たちに背を向け、イヤホンを付けてゲームに興じていた。
「ははは、いいぞいいぞ!」
 柳東黎は椅子をひと蹴りした。
「客だぞ。ゲームしてる場合か」
「ちょっと待て、俺の力で逆転しないと!」
「八人もレッドカードをもらっておいて、何が逆転だ!」
 柳東黎はゲーム機のソケットを脚で蹴って抜くと、槐詩を指さした。
「客を紹介しに来たんだ。俺の弟分だ、良心的にしてやってくれ」
 ゲームをしていた人物は振り返った。無精ひげだらけの中年男で、年の割には覇気のない様子をしていた。男は槐詩を見てしばらくぽかんとしていたが、やがて言った。
「こんなに若いのにホストになったのか?」
 柳東黎はサッと顔色を変え、ペシッと男の後頭部を叩いた。
「無闇に喋るんじゃないと言っただろう。本当になったらどうする?」
「OKOK、何が欲しい?」
 その人物は怒りもせず、仕方なさそうに立ち上がると二人に向かって手招きした。
「品物は奥だ。ついてきな」
「こいつのことは探偵と呼べばいい。昇華者同士が交流する時はなるべく本名は明かすな。自分のコードネームを考えておけ」
 柳東黎は一言釘を刺すと、ソファに腰を下ろした。
「俺はここで待ってる。値段に納得できなかったら呼べ」
 柳東黎が気を利かせて席を外してくれたので、槐詩はホッとして頷いた。
部屋の奥にはもう一つ部屋があり、沢山の棚と、一台のパソコン、そして大きな金庫が置いてあった。見たところ田舎の雑貨屋という感じである。
「初めまして。新海に新しい昇華者がいたとは知らなかった」
 探偵は手を差し出して言った。
「何て呼んだらいい?」
 槐詩は柳東黎の言いつけを守って本名を明かさず、握手しながらよそいきの笑顔を浮かべ、自己紹介した。
淮海路わいかいろのピギーで」
「……」
 探偵は表情をひきつらせた。そんな斬新なコードネームを聞いたのは初めてだったので。
「わかった。ここは昨日宅配の営業所なんだ。普通のものは何でもある。もし特殊なものが欲しかったら、俺が取り寄せてやる」
「いえ、実は買い物に来たんじゃないんです」
 槐詩は手を振り、顔を近づけると、ジャケットのファスナーを下ろし、注意深く周囲を見て他に人がいないのを確認すると、ひそひそ声で尋ねた。
「お兄さん、粉要らない?」

訳注:
覇王バーワン』……中国で有名な、実在する育毛剤です。

訳者コメント:
柳東黎は昇華者の先輩として親切ですね……あと、艾晴はメインヒロインなのにめちゃめちゃ槐詩に嘘をつきますね……(だがそこがいい)

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