『天啓予報』第56章 いわゆる運命

第五十六章 いわゆる運命

 槐詩かいしはまず呆然とし、それから震えた。
「なんだって?」
 槐詩は驚いて飛び上がり、顔を近づけて水盆の中の景象をじっと見た。郊区のどこかの廃工場のようであることがわかった。
 信じられなかった。
「王海がここにいる?」
「そうよ。これは事象分支じしょうぶんしのインクを通じて追跡する水印法」
 槐詩は目を見開いた。
「どうして早く言わないんだ!」
「聞かれなかったから」
 烏鴉うやはまったく悪びれずに槐詩を見た。
「この裏切者!」
 槐詩は怒ってテーブルを叩いた。
「俺の家で食べて、俺の家に住んで、俺の家の電気を盗んで、俺の家のネットを使いながら、俺がお前に聞かなかったからと言って、あいつが俺を殺そうとしているのを知っているくせに、どうして俺を騙してたんだ?」
「あら?」
 烏鴉は面白そうに槐詩を見た。
「もし早く言ってたら、どうしたの?」
「通報して捕まえさせるに決まってる!」
「天文会?特事所?それとも両方?」烏鴉は奇妙な笑い方をした。「だけど、なんて説明するの?奴らがそこに隠れていることを?」
 槐詩は口を開きかけ、烏鴉に遮られた。
「待って待って、あいつの隠れ家を通報する方法だけを言ってるんじゃないの」
 烏鴉は言葉を切ると、水中の影をちらりと見た。
「どう言い訳するの?昔あなたの家のものだった会社が帰浄の民の巣窟になっていることを?」
「……どういうことだ?」
 槐詩は目を見開き、愕然と水盆を見た。
「この場所が……うちのものだった?」
「すっかり忘れているのね」
 烏鴉は憐れむように槐詩を見た。
「どうして私のような部外者があなたよりよく知っているのかしら?ちょっと財産の調査をすればすぐわかることよ」
 烏鴉は言った。
「いま王海が隠れているのは、かつてかい氏の所有だった海運貨物倉庫のひとつ」
 無数の古い紙が地下室から飛んできて、落ち、槐詩の目の前に集まると、きちんと揃って重なった。
「あなたが困惑するのも理解できる。だけどあなたの家にあった古い書類から導き出した結論なの」
 槐詩は黙ってそれらの紙を一枚一枚めくっていった。
 それらは確かに彼の家の倉庫にあったもので間違いなかった。埃だらけで、黴が生えていて、誰の目も引かない隅に捨てられ、忘れ去られられていた。
 烏鴉の話に間違いはなかった。そこはかつて槐家の事業の、中継倉庫のひとつだった。
「だけど、俺は何も覚えてない」
 槐詩は呆然と椅子に座り込み、思い出そうとしたが、子供のころの記憶はあちこちが欠けていて、ぼんやりとし過ぎていた。
 高熱を出した後、多くのものが色褪せてしまっていた……
 しかし別に不思議なことではなかった。
 槐詩が物心ついたとき、家の事業は急速に衰退を始めていた。曽祖父が一代で築いた驚くべき富のうち、いま残っているのは石髄館だけだった。
 槐家の事業は大きかったので、偶然こんなことが起こったとしても不思議ではない。
 単なる不運に過ぎない。
 これまでの自分と同じで。
 しかし、なぜ怒りを覚えるのだうか?
「ちくしょう……」
 槐詩は罵ったが、何に憤っているのか自分でもわからなかった。
 静寂の中、烏鴉は刀の柄を踏んで立っていた。
 憐れむように槐詩を見ていた。チカチカする電灯の光は彼女の影を壁に落としていた。揺らめく影は踊っているかのようだった。
「それじゃレッスン・ツーよ、槐詩」
 烏鴉の声はいつもの冗談と軽口ばかりの時と違って、厳粛で、氷と鉄がぶつかるように響いた。
「――運命が主となろうとする時、その対象には二種類ある」
「運命?」
「そう、運命」
 黒いカラスは言った。
「ある者は運命を選び、またある者は困難を見て屈服し、歩みを止める。彼らは運命に選ばれるのを待つ。後者も別にダメなわけではないわ」
 槐詩はしばらく黙っていたが、口を開いた。
「前者はきっと幸福だよな?」
「さあ?」
 烏鴉は静かに言った。
「全力を傾けても結果が変わるとは限らない。だけど少なくとも心安らかに死ねる。そうでしょ?」
「……」
 槐詩は黙り込んだ。
「あなたは自分を恨む必要はない。だってあなたにはいままで選択の機会はなかったのだから。でも今は違う」
 烏鴉は言った。
「もしあなたが過去の一切を気にかけず、すべてを闇の中に沈めてしまうなら、保証するわ、あなたには明るい未来が待っている。だけどもし本当にかつてのあなたを知りたいなら、いいえ、あなたの家に起こったことを知りたいなら、すべてに立ち向かわなくてはならないわ」
 長い静寂の後、槐詩は思わず笑った。
「知ったところで、何が変わる?」
 何も変わらない。何も戻ってこない。
 この運命の書のように。
 結果が出て、記録されたことは、永遠に変わらない。
 烏鴉は槐詩の目を見て、一字一句はっきりと言った。
「だけど少なくとも、あなたがなぜ失ったかがわかるでしょう?」
 すべてが死んだような静けさの中、槐詩は目を閉じ、疲れたように溜息をついた。
 長い、長い時間が経ってから、彼は目を開けた。立ち上がり、椅子から上着を取ると、羽織った。天文会の配備の銃を点検すると、腰のシークレットホルスターに挿した。
 最後に、テーブルの上の祭祀刀さいしとうを手に取り、ベルトのバックルに挟んだ。
「ちょっと使わせてくれ」
 槐詩はジャケットのファスナーを上げた。
「すぐに戻ってくる」
「うん」
 烏鴉は羽根を振った。
「無事で」
ドアを出ようとして、槐詩は足を止め、テーブルの上の封筒を見た。
「それは?」
「それね」
 烏鴉はちらりと見た。
「昼に人が来て、ポストに入れていったの。あなた宛てだと思う」
 槐詩が封筒を取り上げて振ってみると、中には鉄片が入っているようで、少し重かった。
 開封すると、中から鍵が出てきて槐詩の掌に落ちた。
 黄銅色の鍵は、やや古びていて、高級な防犯用や金庫に使う鍵には見えず、どこにでもある安い南京錠用の鍵だった。
 その重さはよく知っていて、槐詩はぎざぎざの形まで殆ど記憶していた。
 練習室の鍵だ。
伝依でんい?」
 彼女が届けたのだろうか?生徒会の権限を利用して学生の家の住所を調べたとしたら、彼女らしい。
 どういう意味だ?
 槐詩はその鍵をしげしげと眺めていたが、急に笑いだした。
「またサボったのか、あいつ……」
 槐詩は考えて、それをポケットのキーホルダーに付けた。
 いままでになかったその瞬間、槐詩は確信した。この突然の休暇は終わるだろうと。
 槐詩の生活は再び始まる。再び戻ってきた自分の家で、再びチェロを練習し、暇つぶしをし、未来の幸福な時間を想像するのだ。
 練習室のゲームオタク同好会が懐かしかった。
「ありがとう」
 槐詩は伝依にメッセージを送った。すぐにスタンプが返ってきた。槐詩がホストクラブの前で躊躇っている写真で、画像にはキラキラした二文字が乗っていた。
 ――がんばれ!
「それじゃ、スタンプを最初に使いだしたのは君か?」
 槐詩は怒っていいのか笑っていいのかわからなかった。
 スマホの画面を閉じると、ドアを押し開いた。
 槐詩は出発した。

訳者コメント:
伝依は明らかに槐詩が好きですね……彼女もメインヒロインの一人ですからね……。起点中文網の読者コメントを読むと、艾晴派、伝依派、烏鴉派とそれぞれのCP推しがいるようです。でも後々他にも槐詩と絡みのある女性キャラが出て来るのです。漫画の方ではリリーも登場しましたし。リリーも可愛い。


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