『天啓予報」第17章 潜入捜査

第十七章 潜入捜査

 冷蔵車に偽装した車の中で、槐詩かいしは座って不安げに周囲を見回していた。 周囲に座っている数人はどこかで見たことがあるような気がした。
 やっと槐詩は思い出し、向いに座っている人間を指さした。
「あの、この間俺の首に針を刺したのはあなたじゃないですか?」
 向かいの人間は瞬きして槐詩を見たが、相手をしたくなかったらしく、犬が何か吠えたぐらいの様子で取り合わなかった。
 死刑囚が移送されるような冷たい空気が、槐詩を不安にさせた。
「すみません、トイレに行きたいのですが……」
 向かいの兵士は隅にある桶を指さした。
「大の方です!」
 向かいの兵士はやはり桶を指さした。
 揺れる車内、槐詩は表情をひきつらせ、なるべく後方に詰めて、桶から遠ざかろうとした。
 そして、槐詩はハッと気づいた。「ダメだ!あいつらは俺の顔を知っている!どうやって偵察しろっていうんだ?飛んで火に入る夏の虫じゃないか!」 隣で物憂げに座っていた柳東黎りゅうとうれいは二枚のパックのようなものを取り出し、一枚を槐詩に投げて寄越した。「分子プラスチック製仮面」 チャララーン! 槐詩の脳内に効果音が響いた。『槐詩は伝説の道具・人面皮X1を手に入れた』 槐詩は興味深くそれをまじまじと見た。そして好奇心が頭をもたげた。自分はともかく、なぜ柳東黎まで来たのか?「減刑のためだ」
 柳東黎は脚を組んで煙草を吸った。「この任務が終わったら、俺は自由だ。空を飛ぶ鳥のように、海を泳ぐ魚のように、どこへでも行ける」
 静寂の中、槐詩は柳東黎を憐憫の目で見た。「……知ってるか、映画の中でそういうセリフを言う奴は、最後の任務で死ぬんだぞ?」「……」「あんたはいろいろ楽しい思いもして死んでも構わないかもしれないが、俺はまだやり残したことが沢山あるんだ。俺が童貞だということはこの際言わないでくれ」「安心しろ」 柳東黎は槐詩の肩を叩き、煙草を指で挟んだまま身振り手振りして話した。「任務は簡単だ。潜入して、情報を取って、どさくさに紛れて逃げて、後はお任せ。こいつらが犯人と証拠を押さえる。危険を感じたら警報を出せば、百人からの武装した猛者が助けに来る。なにも怖がることなんてない!」
「……」
 槐詩は周囲の屈強な男たちを見回し、やっと少し安心した。「人質救出の経験は?交渉人はいないみたいだけど?」
「はは、安心しろ」
 柳東黎は笑った。「特事所の昇華者鎮圧部隊は交渉しない。人質も犯人と一緒に片づける。骨壺は選んだか?仙鶴のデザインのやつがお勧めだ。気品があって……」
 槐詩は白目を剥いた。
 希望はなかった。
 午後四時半、車は老塘鎮の肉屋の前に着いた。配達人に偽装した二人は中から出ると、二塊りの豚肉を担いで店に入った。 荷物を届け終わると、運転手は飯を食べに行くと言う口実で車をその場に停めた。しばらくしてから、食堂からの合図が見えた。二人に自由行動をするようにというジェスチャーだった。「これからどうすればいいんだ?」 槐詩は周囲を見回し、呆然とした。柳東黎が槐詩の肩をポンポンと叩いた。
「ここで待ってなさい。ちょっと蜜柑を買ってくる」
 教科書に載っている有名な小説『背影』の中の父親のセリフを言うと、柳東黎は髪を掻き上げ、歩いていった。そして一人の老婦人を捕まえてお喋りを始めた。
 ホストの才能とコミュニケーション能力は目を見張るものがあった。あっという間に『姉さん』『弟』と呼び合うようになり、老婦人は笑い、柳東黎を連れてどこかに行ってしまった。 その場に残された槐詩は頭に疑問符を浮かべ、立ち尽くした。
 こんな風に置き去りにされるとはどういうことだ? 槐詩は鳥の羽ばたきの音を聞き、顔を上げた。烏鴉が飛んできて塀の上にとまった。 槐詩がよろこんで話しかけようとすると、烏鴉の声が脳内で響いた。
「黙って!盗聴器がある」
 なんだって?
 槐詩は目を見開いてキョロキョロした。
「バカね、坊や、カメラにも映ってるのよ」
 烏鴉は溜息をついた。「あなたのせいじゃない。あなたの身分はもともと疑わしい。あの艾晴とかいう小娘の直感が鋭すぎる……ああ、そうと知っていれば天文会に協力させるんじゃなかった。私も逃亡犯だし……」
 どういうことだ?!
 槐詩は目を見開いた。
「逃亡犯よ」
 烏鴉は困ったように槐詩を見た。「ああ、私は天文会に指名手配されてるの。リストのそこそこ上位の……言ってなかった?」
 なんてこった!
 いまや、自分はスパイ、お前は逃亡犯、そして迷信を信じるきちがいの奴ら、みんなまとめて捨てられるんだ。
 その時が来たら俺は監獄に入れられ、お前は銃殺、あいつらは裁判にかけられ、みんな明るい未来が待っている。
「慌てないで、彼女はまだあなたをクロと確信しているわけじゃない。泳がせて馬脚を現すのを待っているの。お姉さんの言うことを聞いていれば危険はないわ」
 槐詩は白目を剥き、自分を陥れた周囲の人間たちに対する期待を徹底的に捨てた。
 頼む、俺を放っておいてくれ。
 槐詩は溜息をつき、この腹黒いカラスの相手はしないことに決め、街をぶらぶらと歩き始めた。目に映るのは、普通で平凡な風景ばかりだった。
 すべてが衰退の気配を帯びていた。
 街には老人ばかりで、若者は殆ど見かけなかった。きっと都会に働きに行ってしまったのだろう。
 それも仕方がない。最近新海は不景気で、大都市と呼ばれたのは七、八十年も前のことだ。衰退して、まだ地図上にあるのが奇跡のようだ。
 希望を持った若者は、燕京、金陵、羊州に仕事に行く。最新の内閣は沿海地域の経済発展に力を入れているが、内陸の環境のよさとは比べ物にならない。
 槐詩はすっかり任務のことは忘れて、手をポケットに突っ込んでぶらぶらした。
 午後の太陽は大地を斜めに照らし、体はぽかぽかと温かくなってきた。
 槐詩はぼんやりし、小さな街全体が水に映った影のようにゆらゆらしているような気がした。無数の黒い影が空に向かって浮かび上がった。すぐに奇 妙な幻覚は消え、元に戻った。
 突然冷や汗が噴き出し悪寒がした。
 この場所は、やはり問題があるのではないか?
  ※
  ※
「ターゲットが行動を開始しました」
 監視員の報告に、街の外に停車している巨大なトラックに設けられた臨時指令本部の、全ての人間が緊張し、イヤホンをつけてモニターを見た。
 スクリーンには街の中の各地の監視カメラに接続され、いちばん大きな画面に、暇そうにぶらついている槐詩の姿が映っている。
 長い沈黙の中、全ての人間が槐詩が東にぶらぶら西にふらふらと歩くのを見た。まるで暇を持て余したデクノボウのようである。
 どう見ても潜入捜中の様子ではなかった。
 水を得た魚のように、すでに老婦人たちの輪の中に入った柳東黎と比べて、槐詩はまったく塩漬けの魚〔塩漬けの魚は役立たずの意味〕のように暇にしていて、逆にスパイにありがちな不審なところも何もなかった。
 全ての人間が静まり返った頃、前方からまた報告があった。
「ターゲットは……」
 言い終わらぬうちに、言葉は途切れた。
 モニターの中、槐詩は街角の売店に入っていき、自分の小遣いで一箱の煙草、ライター、そして贅沢にも一本五元のアイスキャンディーを買った。
 槐詩は太陽の下、階段の上に座ってアイスキャンディーを食べていた。
 塩分濃度九百%の塩漬けの魚が息をしている……
 こいつは、救いようがないのか?
 艾晴がいせいはいつも冷静な表情をたまらずひきつらせ、心の中で検討を始めた。「あんな無気力人間が何かを隠してるんじゃないかって一瞬でも疑った私がバカだったわ」
 当時あんなに活発だった子供が、数年見ない間にどうしてこんなふうになってしまったのか?
 歳月という鑿は残酷に人を変える。まさに人知でははかれない神の行為であった。
 槐詩が有限の時間を無限の水中に投げ込んだ様子を見て、指揮本部の人間たちは何を言っていいかわからず、ある者は艾晴を見て、何か指示を出しますかと尋ねようとしたが、艾晴は沈黙したまま何も言わなかった。
 まあいい。彼一人いてもいなくても大した違いはない。
 計画はすべて準備万端で、小さな街の人間関係を調べ上げるのにいくらも時間はかからないだろう。過去の監視カメラの映像も取り寄せ済みで、手掛かりの有無も調査中である。
 深度測定器は既に到着し、実装中だ。時間を無駄にはできない。
 指令本部が忙しくしていると、槐詩に取り付けている盗聴器が呼び声を拾った。
 そこの若いの、そう、あんた。ちょっとちょっと。
 画面の中、槐詩はリヤカーを引いている老人たちに声をかけられていた。「そう、あんた。どこの子だね?ちょっと手伝ってくれ!」
 槐詩はぽかんとして、アイスキャンディーの棒を落とした。そして自分が 潜入捜査中であることを思い出し、いやいやながら老人を手伝ってリヤカーを押した。
 すぐに庭付きの建物につくと、また老人に指図されて古びた銅鑼や太鼓や衣装などをリヤカーから降ろし、分類して並べた。
 庭では集会か何かをしているらしく、一群の色の浅黒い老人たちが座って声高に何か話している。ある者はテーブルを囲んでトランプをし、隅に置かれた鍋が火にかけられている。幾つかのテーブルには食事が並べられ、てんでバラバラにやって来ては食事をし、食べ終わると去って行った。
 飯が食えそうだぞ?
 槐詩の目が輝いた。
 ここまでリヤカーを押してきた元が取れそうだ。
 潜入と言っても一生潜入しているわけにもいかない。やはり安心してご飯を食べるのがいちばんだ。贅沢は言わない、数切れの肉と白いご飯にありつければいい。
 槐詩がうろうろして食事が出されるタイミングを待っていると、七、八人の老人が思い思いに太鼓や琵琶やチャルメラを演奏しているのが目に入った。二人調を演奏している。
 見知らぬ人間が自分の演奏を聴いているのに気づくと、真ん中でチャルメラを拭いていた老人は張り切り出し、音を長く伸ばして吹いた後に、得意げに槐詩に向かって手に持った楽器を振ってみせた。『どうだ、すごいだろう?羨ましいだろう?』と……
 槐詩は内心まったく感動していなかったが、拍手をし、愛想笑いまでした。
 今日の飯を持ってきていない者でなかったら、老人に英国王立音楽検定八級の批評をしてやるのだが……
 だが予想もしなかったことに老人は力を漲らせ、槐詩に向かって吹いて吹いて、チャルメラの中の唾が数メートルも飛んで、どんな悪魔の技術の低音攻撃かという音で、槐詩は奥歯が震えて抜けるかと思った。
 吹き終わると、老人は槐詩に向かって挑発するように顎をしゃくった。「小僧、ちょっと吹いてみるか?」
「ええ。ではひとつご笑覧に入れましょう」
 槐詩は唇を歪めた。これ以上下手に出るのは我慢ならなかった。
 槐詩はぼろい楽器の中から胡弓を選んで手に取ると、足を組んで座った。  潜入捜査中であることなど構わず、『賽馬』『二泉映月』『バッハ無伴奏チェロ協奏曲』に『月の上』『威風堂々』のメドレーを弾いた。 
 楽器の性能上、あちこちの音はひどかったが、槐詩はパガニーニの変態に習い、一弦で一曲を引いた。メドレーを引き終わって目を開けると、なんと、目の前に黒山の人だかりができていた。
 トランプをしていた者、お喋りをしていた者、煙草を吸っていた者、楽器を弾いていた者……老人たちはいつの間にか集まって、槐詩を指さし、厳粛かつ真剣な表情をしていた。
 やらかした。
 槐詩は緊張した。
 正体がばれたか?
 老人たちは何か話し合っており、真ん中の老人は、顔に困惑を浮かべて槐詩をじろじろと見ていた。
「あんたどこから来た?見ない顔だね?」
「あ……新しく来た、バイトです!」
 槐詩は思わず立ち上がって逃げ出そうとした。
「もう行かないと……」
「待て」
 老人は槐詩の肩を掴み、うれしそうに笑った。まるで便所で紙がなくて困っていた人が、次の人が紙を持ってきたのを見たように。
「李三のバカが来られないんだ。今日福音班は胡弓が足りない、今晩俺たちと教会に行って弾いてくれたら、四十元出す。晩飯もつける。どうだ?」
 教会?
 文芸集会?
 ちょっと待て、そんなに簡単に内部に入り込めるのか?
 槐詩はあんぐりと口を開けた。
 本当は断りたかったが、監視カメラで見られていることを思い出すと、悲しさと悔しさに歯噛みをするしかなかった。
「わかりました!」
 槐詩はちょっと間を置いて、条件を出した。
「でも先に食べさせてください!」
 頭の後ろの悪寒がますます強くなった。槐詩は死が地を這いながら自分に迫ってきているように感じた。
 しかし、それが自分というマイナスエネルギー製造機とどういう関係があるのか?
 腹いっぱい食べてから考えればいいさ!

訳注:
「ここで待ってなさい。ちょっと蜜柑を買ってくる」……日本で言えば、「メロスは激怒した」や「ゴン、お前だったのか」のようなセリフだと思われます。

訳者コメント:
いきなり柳東黎が槐詩を置き去りにしてびっくりしました……
それと、艾晴でも顔を引きつらせることがあるんだなあと(笑)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?