『天啓予報』第18章 Closed—5

第十八章 Closed—5

 一時間後、教会の中は満席だった。
 それぞれの街から来た老人老婦人たちはお互いに「信友」と呼び合い、話題は外に出稼ぎに行っている子供たちや昨日買った卵のことについて和気藹々とお喋りをしていた。
 会場では無料でひまわりの種と果物が配られ、人々は係員に渡された台湾カステラ三切れとミネラルウォーターのペットボトルを持っていた。
ざわめきの中、舞台の幕はまだ閉じていた。
 楽屋では熱心に準備が行われ、福音班は演目を何にするか話し合っていて、隅では少年が死んだ犬のように蹲っていた。
 槐詩かいしは顔面を蒼白にして、今にも吐きそうに体をガクガクと震わせていた。
 骨を刺すような悪寒と見えない重圧が絶え間なく槐詩の脊髄を圧迫していた。
 槐詩は初めて押しつぶされそうに重い死亡予感を感じていた……どのような死がこれほどの恐ろしい予感をもたらすのか、槐詩は敢えて考えしないようにしていた。
「おえっ!」
 槐詩は桶に屈み込み、さっき食べたばかりの麺と紅焼肉をすべて吐き出した。涙と鼻水も出てきた。
 槐詩は自分の奇妙な技能を恨んだ。
 自分が死ぬであろうことについては、意外なことに恐さを感じなかったが、ただこの食あたりにそっくりな酷い吐き気と悪寒はたまらなかった。
悪いものでも食べたような吐き気が何度も襲ってくる。
 胃腸がだめだ。
 槐詩は涙を拭き、琵琶を弾き終わった老人を引っ張って尋ねた。
「すみません、もし楽屋で死んだら、労災になりますか……」
 別の老人が遠くから一足飛びにやってきた。
「あんた人を騙しちゃいけないよ、食事の前はあんなにピンピンしてたのに……私はずいぶん世間を見てきたが、こんなことは初めてだ!リヤカーを引いている時にあんたに出くわしたんだ。その時はまさかあんたが無理矢理ついてきて、ここで床に寝っ転がるなんて思いもしなかった」
「そうだそうだ!」
 傍にいたチャルメラの老人が同調した。
「俺が証人だ。はっきり見た。あんたは突然手を出してきて……」
 槐詩は心が折れそうになった。
 なんて腐り切った老人たちだ。難癖の付け方が堂に入っている!
「そこまで。準備できたか!」
 班長がやってきて声をかけ、槐詩を指さして叫んだ。
「弾けるか?弾けなかったら金はやらないぞ!最近の若者は、良心ってものが全くない!」
「弾けます弾けます」
槐 詩は涙目で胡弓を持ち上げた。
「譜面は?どこに?」
「なにが譜面だ。時間がない、俺たちの劇はやめて、福音二人調の伴奏をしろ。リズムに合わせて賑やかに弾けばいい」
 老人は手を振りながらぶつくさと言った。
「四十元なんて言って損した。二十元にしとけばよかった」
 槐詩は絶句した。
 老人たちと一緒に台の前に座った時、幕の前の方から話す声が聞こえてきた。
「つづいては、信友の皆さん、老塘鎮文芸会が皆様に福音ヤンコをお届けします!」
 客席から熱烈な拍手が沸き起こった。
 槐詩は愕然とした。
 あの王海とかいう奴は一体何をやっているんだ?布教をするためにお笑いの真似事をしているのか?
 槐詩が考えていると、楽屋に祝賀用の華やかな衣装を着た一群の老婦人たちが入ってきた。誰かを囲んで、賑やかに踊りのポーズや技について喋っている。
「お姉さま方、忘れないで、ここのリズムはドンタタ、じゃなくてドンタータ」
 グループを率いて歩いて来た人物は、髪を掻き上げ、振り返って微笑み、そして驚きに固まり――
 槐詩を見た。
 槐詩も彼を見た。
 目を見開きぽかんと口を開けた。
 ――クソ、なんでお前が!
 槐詩はどうやって柳東黎りゅうとうれいと連絡を取ろうかと考えていたが、ここで思いがけず会い、ホスト柳東黎が踊りのリーダーを務めスパイの槐詩が胡弓を弾く福音二人調の演目が始まった。
 文芸の花が咲く。
 二人は複雑に視線を合わせ、槐詩は声を出さずに口パクをした。
(俺の蜜柑は?)
(まだ買ってない)
(飯は食べたか?)
(まだだ……)
(俺は食べた)
 槐詩は腹を叩いた。
(山盛りの麺と紅焼肉だ。羨ましいか?)
 ガーン!
 柳東黎が槐詩を罵ろうとした時、幕が開いたので、柳東黎は仕方なく笑顔を作って、老人たちと一緒に土着のディスコダンスを始めた。
 柳東黎の目の前で、あの最初に世間話をしていた老婦人がハンカチを捩って歌い出した。
「神の家に入りなさい。主はあなたの側にいる。恵みは母の乳より甘い。ハレルヤ天国へ行こう……」
 槐詩は可笑しさにたまらず噴き出した。
 ピコン、と音がした。
 槐詩のポケットが震え、ショートメールが届いていた。槐詩は隙を見てスマホを取り出した。艾晴からだった。
 メールの内容は次のようなものだった。
「――撤退、即刻!Closed-5』
 次の瞬間、これまでとはスケールの違う死亡予感が波のように襲ってきて、危うく槐詩は溺れそうになった。
  ※
  ※
 十分前。臨時指揮本部の中、艾晴がいせいの表情は沈鬱だった。
「霊魂輻射記録テープ記録完了、正常」
「深度指数〇・一七、正常」
「辺境浸食度〇・〇三%、正常」
「正常」
「正常」
「正常」
 すべての観測値は正常である。
 だがなぜかはわからないが、艾晴の顔色はますます悪くなり、ついに真っ青になった。
「どうした?」
 伝所長が尋ねた。
「おかしい」
 艾晴は細い指で車椅子のひじ掛けを握りしめ、視線を落としている。
「絶対に何かがおかしい!」
 その場にいる全員が驚いた。
 艾晴は手を伸ばし、車椅子のポケットから携帯通信機を取り出すと、すぐに裏側のカバーを外し、背面の赤いプラグを引き抜いた。
 静寂の中、伝所長は思わず立ち上がった。
「気が違ったか?!」
 最高警報は、監察官が自分の能力の範囲を超えると確信した場合、またはB級以上の辺境危害時にのみ発動することができる。
一度発動すると、信号は連合国天文会の権利管轄機構――統括局の特殊情況対策室に直送される。
 やや大げさに言うならば、天子への上奏と言ってもよい。
 もしいたずらに発動したことがわかれば、その末路は推して知るべしである。だが目下この場の人間にとって最も重要なことは、一度天文会に報告すれば、今まで王海の悪事を新海の中だけで処理するためにしていた交渉や根回しは全部おじゃんになってしまうということだ。
 この女はいったい何を考えているのか。
 本当に気が狂ったのか!
 辺境の遺物の抑止に過ぎない些事を、どうして統括局に報告する必要がある?
 しかも、何の証拠も前兆もないというのに。
「ああ、もしかしたらやりすぎかもしれないわね。だけど予測できない状況下で、私は賭けてみたい」
 艾晴は手の中の通信機を弄んでいた。決断を下した後、表情は再び穏やかさを取り戻し始めた。
 遂行能力に疑いをかける余地はなかった。
 さっきまでの人を狂わせるほど不安にさせるような予感は錯覚の楊に、急速に消えた。ただ衣服の下に冷たい汗が、彼女が激しい戦いを経てやっと突飛な決定を下したことを示していた。
 通信機の画面をじっと見て、彼女は唇に冷笑を浮かべた。
自分を嘲笑していた。
 あとたった二か月で正式に配属されるというのに、いまさら言いにくいことを恐れている?もしやりすぎであることが証明されたら、監察官の身分を剥奪されることでも軽い処分と言わざるを得ない。
 数秒もしないうちに、通信機の画面が明るくなった。
 ボタンを押す必要もなしに、画面の上に微弱な光が投影され、空中にホログラムが浮かび上った。交換手のような平板なスーツ姿の男性は、表情に何の疑いも焦慮も浮かべず、淡々と目の前の少女を見ていた。
「コードT9631、統括局所属東夏分局駐新海監察官」
 彼は口を開いた。
「深度警報未探知、辺境浸食未探知、高位聖痕活動現象未探知……報告と申請をどうぞ」
「『十二銅表法』の条例に基づき、監察官見習いとして、私は辺境対策条例第九条の援助、及びアジア東夏共和国新海市老塘鎮周囲十キロ区域の物理封鎖を申請します。即刻執行をお願いします」
「申請を確認中――」
 スーツの男の傍にあったプリンターが高速で一束の書類をプリントアウトした。男はサッと目を通すと、傍に会った印章を取り上げて押した。
「申請受理。衛星軌道調整開始、三分後に位置に付く。老塘鎮封鎖執行は通達済み、処理を待機――辺境対策条例第九条記録に登録開始」
 機械のように平板にすべての工程を終えたあと、コード0075のスーツの男は最後に頷いた。
「全ては世界のために」
 通信は切れた。
 すべての人間が呆然としていた。静寂の中、遠くから地を揺るがす轟音が伝わってきた。
 数万里の空の上、漆黒の宇宙の暗がりの中、太空軌道上の大型衛星が気体を噴出し、ゆっくりと精密に角度を調整し、下方の雲、大地、街そして塵埃のような小さなものまで全てを監視カメラで映し出した。
 旧ロンドン、グリニッジ展望台。地下六階の深層では、巨大な差分機関が轟音を立て、ゆっくりと一条の穴だらけの錫箔のテープを吐き出している。
傍の秘書はテープを鋏で注意深く切り離すと、バックアップを取り、くるくると巻いて筒に入れ、真空の逓信管に入れた。
 真空の導管内を通って筒は地下数千メートルまで真っ直ぐに運ばれて行き、大ホールの隅に落ちた。
 彼は煙草を吸いながら歌を歌っていたが、片手で筒の蓋を開け、もう片方の手で巻いてあるテープを開くと、足の裏で地面をトントンと叩き、煙草を放り捨て、ホールの中央に歩いて行った。
 広大な不可思議な大広間を人が行ったり来たりしている。床は凸凹していて、あちこちに水が溜まっている。
 真上から見下ろしたなら、その意味が分るだろう――それは大きな立体世界地図であった。
 煙草を吸っていた人間は仕事仲間の間を通り抜け、番号の位置を探し出すと、ポケットから色とりどりのマーカーペン一式を取り出し、銀色のペンを選び取った。
 そして地図上の一点に丸を描いた。
「コードC987778762号封鎖完了」
 すると、千里の外、山と海を隔てた大陸の上に、蛇のような起伏が盛り上がった。
 黄昏の太陽と月明りに照らされ、老塘鎮ろうとうちんの外の土は沸騰したように盛り上がり、鉄石が擦れ合う轟音の中、灼熱の炎と光が現れ、無数の岩石が溶けて溶岩となった。
 つづいて、溶岩の中から鉄の輝きが現れた。
 増殖。
 樹木の生長のように、鋼鉄は一寸一寸と上方に伸長していき、見えない筆先の動きに従うように外に向かって伸び、急速に冷却した表面は鉄の黒光りを放ち、無数の鱗のような鋭い鉄片がその表面を覆っている。
 十秒後、老塘鎮全体が、数百メートルの鉄の柵の中に封じ込められていた。
 空の色が黄昏からまだらの漆黒に変わっていく。
 現境剥離、開始。
 その瞬間、溜息が響いた。
 繊細な白い手が教会の中から現れ、天地をつかんだ。
 激しい爆発音が遠くから聞こえてきた。

訳者コメント:
「辺境の遺物の抑止に過ぎない些事を、どうして統括局に報告する必要がある?」とありますが、東夏(中国)では、何か事件が起こったことが上層部に知られただけで責任を取らされさせんされてしまうということです。中国の推理小説でも、管轄内で殺人事件が起こったことを隠蔽するために事故死として処理してしまうエピソードがありました。このあたりは日本と中国の文化の違いを感じます。
それと、「、もし楽屋で死んだら、労災になりますか」という槐詩は相変わらずとして、老塘鎮の老人たちが腐りきっていますね……(苦笑)

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