Ensaio sobre a lucidez (8)

Na verdade, não eram quatro pingos míseros, eram baldes, eram cântaros, eram nilos, iguazús e iangtsés, mas a fé, abençoada seja ela para todo o sempre, além de arrendar montanhas do caminho daqueles que do seu poder se beneficiam, é capaz de atrever-se às águas mais torrenciais e sair delas enxuta.

試訳
実際、雨はぽつぽつなんてものではなく、バケツをひっくり返したような土砂降りであり、ナイル川やイグアス川や長江のようになっていたのだが、信仰とは、その力の恩恵にあずかっている人たちの行く手を阻む山々をどかすだけではなく、絶えず加護を授けてくれるようなものであり、この洪水に立ち向かわせ、そこから濡れずに現れることを可能にするのだ。

quatro pingos は「4つの雨粒」というよりかは「わずかな雨」という感じだと思うが。mas a fé 「信仰であった」abençoada seja ela para todo o sempre ela は「信仰」を指す。para todo o sempre で「ずっと、いつまでも」だから「その信仰は常に祝福される」seja と接続法が使われてる理由がいまいちつかめない。接続法の「現実で起きていることではなく、話者の心の中で思っていることを表す形式」であることを加味すると「その信仰は常に祝福されるべきだが」のような日本語が妥当か。この seja で思い出すのは、verdade seja dita 「実を言うと」という慣用表現で、受身とsejaを使うところが似ていると思うのだが、ここからなにか意味合いを引き出せないだろうか。além de arrendar montanhas do caminho 「道の山々をどける」 daqueles que do seu poder se beneficiam:aqueles que... 「~する人」、beneficiar-se de ...「~の利益(恩恵)を受ける」seu は「信仰の」という解釈でいいだろうか。「その力の恩恵に与っている人たちの(道)」atrever-se 「立ち向かう」torrenciais は「氾濫する、殺到する」sair delas enxuta. delas は「水(雨)から」を指すので、「雨から逃れて雨のないところに出る」ということか。sair は「出る、逃れる」の他にも「なる」という状態の変化を意味するので、sair enxuta だけだと「乾いた」とか「雨が上がった」のように訳せそう。

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