詭善
造語を作った詭善
意味は簡単に二つよいとされているが犠牲が必要となるもの、簡単にその定義が崩れるであろう善行を指す
テクノロジーを通してあらゆるものが見えるようになってきた昨今、善の定義が曖昧になりつつあると実感する。
そもそも善とはその国や地域によるところの大きいものであったが、現在の善は地球規模で平均化が進んでいる。
もとより西洋的な価値観の押し付けによる文化的な迫害が進んでいるといわれてもいるが(要出典)
そもそも世界とはパッチワークのようなもので、平均化などされるべきではないがこのことについて今は論ずるべきではないだろう(話題がそれる)。
社会情勢、もとい現実を顧みない犠牲を必要とする善行が推し進められていることに異を唱えたい。
無論、この記事を書くにあたって自分の首を絞めることになるのは想像に難くない。
されど私はこの世に即していない理想論が是とされている現実に疑問符が浮かべる。
弱者の盾、それは時に強大な矛となる。
価値観の転換期だから、という声もあるだろうが、それにしてもひどくいびつな世の中である。
SNSでは声高に障碍者としての自分をアピールする声も聴く(要出典)、それも自己診断の。
情報過多の世の中で自分の個性を模索し安易にかけた検索でヒットしたそれっぽい言葉で着飾っている人々
実際に障害があるのは事実だが配慮がないことを悪と決めつけるもの
そういった現実を前に世の人々は障碍者を腫れものとして扱うその先、いわば腫瘍として切り捨てる選択をするのではないか
そんな杞憂ともとれる考えが頭の中でとぐろを巻く。
健常者の人々の余裕に守られているという事実にそろそろ気づいたらどうだろうか。
脆い善そのままの意味だ。
腫物はやがて膿を出し切除される、そしてその膿はもう見過ごすには大きくなりすぎている。
見えないことをいいことに成りすます人々
腫物は身の程をわきまえることを知るべきであろう。
そして母体は腫物の生まれ方を知るべきであろう。
腫物を切除しても元を絶たなければまた繰り返す。
できては切り取ってを繰り返しては、そのうち母体が持たなくなる。
対処療法ではどうにもならない段階にもう来ている。
テクノロジーの発達で腫物が多く見つかったのか、それとも根本的に増えているのかそれは私にはわからない。
ただ、そのうち限界が見える。
現実に無頓着な政府ですら警鐘を鳴らす今、対処療法に積極的になっても事態の収拾ははかれないだろう。
今一度、善の定義について見直すべきだ。
誰かが割を食う善行など善行ではないのだから。
対処療法とは穴の開いたバケツに水を足すようなもので、母体に大きな負担をもたらすものだ。
増殖する腫物の原因を特定し対処しなければ、そのために自己理解を進める事を推奨する。
母体とは経済活動をする我々全人間であり、腫物とはその無理のしわ寄せであると私は考える。
先天的なものに為せる術は倫理的な危険を内包しているが、後天的なものは我々の自己理解で減るはずなのだから。
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