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結婚願望と不在の子

(町之トリオ)

「結婚する理由(結婚相手がその人である理由)ってなんですか?」
みたいなことを同僚の6歳下の女性に散歩中に問いかけられて、いや結婚したことないから知らんけど、ないね?と思った。絶対的な理由はない。絶対的な理由だと信じようとしてしまうだけ。

「どんな人と結婚すればいいんですか?」
と続けていうから、仮に子どもが欲しいならその子が「生まれてきてよかった」って思うような、そんな子と自分と一緒にいてくれるような相手がいいのかな?みたいな話をした。子どもは血が繋がってなくてもいいかもしんないしもういっそホモサピエンスでなくていいかもしんない。ふたりの間で生きている何か。
なんでそう思うのか、みたいなことを書いとこうかな。

* *

親。
結婚することと親になることはむろん同義ではないが、僕は家族のなかにじぶんの子どもがほしいって願望があるので結婚は親になることと分かち難い(一般論ではない)。
新明解国語辞典第七版だと、親とは「その人を生んだ(と変わらぬ情愛を持って養い育ててくれた)一組の」人たち。おれ同級生も子持ちが多くなってきたけど自分が親になる姿は想像できない。親になるとは。

小学校の頃、お受験のために週3日くらい塾に通った。高い料金を払ってもらってるのに授業ぜんぜんまともに受けてなかった。夜9時過ぎに地元の駅に帰ってくると必ず母が待っていた。兄弟と一緒に母の元に駆け寄って、すぐ近くでソフトクリームを買ってもらった。ぜんぜん勉強せずに帰ってきたのに。
帰り道でいえば大学の頃もろくすっぽ学問的なことせずにサークルの仲間と遊びまくって終電を逃し、母に車で迎えに来てもらってた。電車行けるところまで行き、駅を降りた時、またそこに母がいた。
母はいつも待っていてくれた。何をしてどのくらいの時間を待ってたのか、みたいなことを僕は考えたことがない。

父は九州出身で絵に描いたような九州男児。だけど根は、と言うか茎ぐらいまで、いやまあ葉っぱも結構の部分が、優しい。高卒で大手の行員になった父。若い頃は真っ赤な血尿が出るくらい働いたらしい。定年まで銀行で勤め上げたが、おれが就活の時に金融機関を受けていたら「金融には行くな」と言う。「子どもには金融業に行ってほしくない」。いわく言いがたい理由があったらしい。でもじゃあなんで定年までそこにいたの? 行員時代、父は毎晩のように酔っ払って帰ってきて家でも晩酌していた。酒ばっかり。仕事がつらいのかと思った。子どもだった僕は「お父さんはなんで働いてるの?」と何かの拍子に聞いた。「そりゃお前、家族がいるからだろ」と父は言った。

そういうものなのかなと思いつつでも、親というのはどうしてこんなにも自分の人生の時間を僕たちに捧げてくれるのか?みたいなことも考えてしまう。親と子の関係の不思議。親になるとは?

例えば僕が今ここに生きていること自体は無根拠です。ただ僕の無根拠はうちの娘にとっては必然です。なぜなら、うちの娘は、僕が妻と結婚して子供を作っていなければ存在しないからです。これ以上の必然性はない。この非対称性が大事だと思います。僕にとっては妻と結婚することはまったく必然ではないし、子どもをつくることも必然ではないし、東京に住んでいることも必然ではない。けれどもそれがうちの娘にとっては全部必然に変わる。偶然と必然はインターフェイスでしか出てこないのです。
(中略)
結局、何かを誕生させるということは暴力ですよね。暴力と必然は密接に結びついていて、暴力の問題や根拠の問題は誰かにとっての偶然が別の人にとっての必然であるという交叉(キアムス)において考えられなければいけない。
この交叉を忘却し、一方の立場からすべてを考えようとすると、あらゆる偶然を無根拠に引き受けるオポチュニストになる。誰とセックスしてもいいし何をやってもいい、ドストエフスキー風に言えば「神はいないのだから全部OK」、という話になる。
(東浩紀(聞き手=宮崎裕助)「デッドレターとしての哲学」,『現代思想 総特集デリダ』)

何かを誕生させた時に僕たちは親になる。様々な責任が伴うから能動態/受動態の区別で捉えられがちだけれども、「親になる」は本来その対立の外側、中動態の領域におそらくある。意志とは無関係に何かを誕生させてしまうことがあるし、意志があっても誕生させられないことがある。親は、結果的に親になるだけだ。
しかし子にとっては違う。誕生は(常識的な科学的知見の範疇では)絶対的に受動であり、子は一方的に生まれてこさせられる。

東浩紀の指摘を繰り返せば、親の偶然性がただ一つでも欠けていたらそこに存在していないという意味で、子の誕生をめぐる親たちの偶然性はすべて子にとって必然である。これは逆にいえば、子が「この親のもとで生きられてよかった」と肯定した時に、親たちの取り結んだつながりの無根拠さは肯定される、ということでもある(いろんな意見がありそうなので雑に防御しとくけど、これはあくまで親としての話であり、そうでない肯定のされ方もあるだろうし、結婚は必ずしも親として肯定される必要はない。何が言いたいかというとこれは僕の自分語りだということです。普遍的なことは知らん。でもみんながどう考えるかは知りたい)。

これはすべて結果論であり、僕は結婚を肯定してほしいから子どもがほしいのではない。ただ家族をつくりたいし結婚もしたい。無根拠なその結婚に、何かの根拠を信じようとしてしまう。だから結婚に根拠を認めうる不在の他者、子どものことを思う。

そういうわけで、結婚したくて子どもがほしい人の「どんな人と結婚すればいいですか」への答は、子どものことを考えてみればいいのかな?だった。わからんけど。ちなみにその同僚にその後告白されて付き合うことになった。あはは。


年末に向けて仕事忙しくなっちゃって更新遅れてすまん。でもやっぱ楽しいな交換日記。忘年会したいね。くだくだ語りたい。

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