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涼み風。あるいは銭湯のシャワーとか。

私は銭湯が好きだ。

 自宅に風呂はあるが、いかんせん湯船が狭い。
 私は日々の疲れが溜まってくると季節問わず銭湯へおもむき、足と羽を伸ばすことにしている。かの丸善的な文豪をして言うのならば、湯治とうじの為に一等いい銭湯に入るぐらいの贅沢をするのだ。

 雪解けの頃、銭湯へと向かう道中。すでに気持ちは広い湯船にある。

「(今日はいていると良いな)」

 そう思いながら歩く足取りは、自然と早歩きになっている。

 やがて銭湯へ着き、鍵付きの下駄箱へ靴を入れ、受付で入浴料を払い、脱衣所で裸になる。さて、いよいよだ。

 風呂場に入った私はまず、シャワーで身体を流す。
 そして、早速向かうのは露天風呂だ。ざぶと湯船に足を入れ、隅の方で腰を下ろす。

「(ふい~……、生き返る……)」

 冬場であればこのままじっと黙浴を続けるのだが、春先ともなると身体がすぐ熱くなる。私は少し浸かってはへりに腰を掛けて涼み、涼んでは浸かるを繰り返す。
 まるで火の通り具合を確認される鍋の豆腐のようである。

 四半刻ほど露天を楽しんだ後は、洗い場へ行って頭と身体を洗い始める。

 私は行きつけの銭湯で洗い場を使う際、いつも備え付けのシャワーについて思うことがあるのだが、この気持ちは誰かの共感を得られるだろうか。

 洗い場にはいくつか席があり、それぞれの席にシャワーが備わっている。
 どの席も同じシャワーが付いているように見えるが、よくよく見てみると少しだけ差異があるのだ。

 「ボタンを押して一定時間だけ水が出るタイプのシャワー」がある席と「ハンドルを捻っている間は水が出ているタイプのシャワー」がある席。

 使い勝手がいいのは、間違いなく後者の席だろう。前者のタイプだと頭を流している間、ボタンを連打する事になりがちである。
 しかし、「使い勝手」だけが席を選ぶ際の決め手にならないのが銭湯という空間の妙味。

 人は銭湯に来る時「日常の喧騒を忘れたくて訪れている」という側面が少なからずある。それならば、前者のシャワーを選ぶ価値はあると言えよう。
 なぜなら前者の方が、より「銭湯に来ている感」を味わえるのだから。

 そんなことを考えながら席を選び、頭と身体を洗い、再び湯船に戻る。
 今度は内湯に入る番だ。

「(ふい~……、生き返る……)」

 湯船に浸かると、つい思ってしまう「生き返る」とはなんなのだ。
 そうか、私は日常に殺されていたに違いない。そんな事に湯船で気づく。

 やがて、また豆腐のように茹だってくると、私は風呂からあがるタイミングを考え始める。

「(……よし。あと、30回呼吸したらあがろう)」

 昔は風呂からあがるタイミングを小学生のように「あと30秒浸かったら」と、時間で区切っていた。

 しかし、今は違う。

 大人な銭湯は、呼吸で締め括るのだ。
 湯船に浸かり、目を閉じて、ひとつ、またひとつと、丁寧に呼吸をする。
 これは瞑想にも近い。湯と肌の境界線を意識しながら、丁寧に吸う、息を吐く。

 そうして銭湯を満喫したのち、私は洗い場に戻ってシャワーで身体を流し、脱衣所へ戻る。
 給水したのち、バスタオルで身体を拭き、袖へ腕を通していく。

 さて、風呂からあがった、帰り道。

 春や夏場の銭湯の帰り道は、秋や冬場とは違った楽しみがある。
 寒い時期の銭湯は「銭湯自体」がメインイベントであるが、暑い時期の銭湯はある意味で「帰り道」がメインイベントなのだ。

 清涼飲料水を飲みながら、夜風を感じ歩く春の帰り道。さあと吹き抜ける風が、銭湯上がりの身体を心地よく撫でてくれる。

「(……よし。明日から、また歩いていこう)」

 さてさて、そろそろお気づきだろうか。

 何かに疲れた時。何かに行き詰まった時。
 銭湯は、あなたを待っている。

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