涼み風。あるいは銭湯の安メシとか。
私は銭湯の安メシが好きだ。
満足度の高い外食とは、銭湯の安メシみたいな物を言う。
私は日々の疲れが溜まってくると季節問わず銭湯へ赴き、まったり風呂に浸かった後に銭湯メシを食うことにしている。かの孤独メシ漫画に思いを馳せながら言うのであれば、”そうそう、こういうのでいいんだよ”とチープな銭湯メシを堪能するぐらいの贅沢をするのだ。
これは梅雨がもうじき明けるかという頃の話。
銭湯へと向かう道中、すでに気持ちはチープなラーメンにある。
「(今日は空いていると良いな)」
そう思いながら歩く足取りは、自然と早歩きになっている。
やがて銭湯へ着き、木札の鍵が付いた下駄箱へ靴を入れ、受付で入浴料を払い、青い暖簾を潜り抜け、脱衣所で裸になる。
さて、いよいよだ。
給水器で軽く喉を湿らせてから銭湯タオルを持って風呂場に入った私は、まずシャワーで手桶にお湯を入れて身体を流す。
そして、早速向かうのは樽風呂である。風呂場に五つの樽が並んでおり、それぞれの樽は大人一人分にジャストフィットするようなサイズだ。
「(よし、定位置の樽風呂が空いてるぞ)」
すりきれにお湯が注がれた一番奥の樽にさぶと右足から入れば、あとは全自動。ふぃ~と気が抜ける声を小さく出しながら身体を沈めて腰を掛ける。
「(ふい~……落ち着く……)」
冬場であればこのまま静かに黙浴を楽しむのだが、蝉の鳴き声が夏の到来を感じさせる時期ともなると身体がすぐ熱くなる。しかし、これもまた良いのだ。今日のように風呂上がりに醤油ラーメンを食べようと心に決めている時は特に良い。
樽風呂がまるで”てぼ”に見えて来る。今の私はグツグツと茹でられた後、湯切りをされて提供されるラーメンのようである。
30分ほど樽風呂を楽しんだ後、洗い場へ行って頭と身体を洗い始める。
それにしても、あの樽風呂。思えば味噌樽のようにも見えるな……。
い、いかん、いかんぞ。今日は”醤油ラーメンの口”で来ているのだ。味噌ラーメンを注文する気など毛頭ないぞ。
「(……でも、次回は味噌ラーメンにするか)」
私は行きつけの銭湯のメシ処でゴハンを食べる際、いつも思うことがあるのだが、この気持ちは誰かの共感を得られるだろうか。
このメシ処のメニューは、そう多くはない。
そば、うどん、ラーメン、カレー、カツ丼等々。駅前によくある立ち食いそば屋のようなラインナップだ。ただし、それに合わせてソフトクリームも販売しているのは”銭湯感”を感じられる部分だろう。
そして、これらのメニュー。
うどんを取ってもカレーを取っても、どれもすこぶるチープな味がする。まるで教科書に載っているような、模範解答の”安いメシ”が出てくるのだ。
ここの安メシの王様が、私が愛してやまない”醤油ラーメン”である。
この銭湯を出て、風呂上がりに少し歩けば人気ラーメン店がある。
しかし、「行列ができるこだわり」だけが風呂上がりのメシを選ぶ際の決め手にならないのが銭湯という空間の妙味。私はあの安い味が恋しいのだ。
人は銭湯に来る時「日常の自分から離れたくて来ている」という側面が少なからずある。それならば童心に帰れるこの安メシ処で、外連味のない醤油ラーメンを注文する価値は十分にあると言えよう。
なぜならこのラーメンからは、学生時代の地元の商店街、気さくなおじちゃんが作ってくれた部活帰りの味がするからだ。
目の前の一杯から、あの時代の味がする。
そんなことに思いを馳せながら頭と身体を洗い終え、給水器で水分補給をしてから再び樽風呂に戻る。まるで替え玉だ。
「(ふい~……、落ち着く……)」
樽風呂に入ると、つい思ってしまう「落ち着く」とは何なのだろう。
そうか、私は慌ただしい毎日にいたのか。そんな事に樽風呂で気づく。
やがて、てぼの中身が”やわ麺”に近づくと、私は目を瞑って考え始める。
「(……よし。あと、30回呼吸したらあがろう)」
昔は外気浴を切り上げるタイミングを小学生のように「あと30秒経ったら」と、時間で区切っていた。
しかし、今は違う。
大人な銭湯は、呼吸で締め括るのだ。
あの時代の醤油ラーメンの匂いを楽しむように、目を閉じて、ひとつ、またひとつと、丁寧に呼吸をする。
これは瞑想にも近い。湯と肌の境界線を意識しながら、丁寧に吸う、息を吐く。不意に、ぐうと腹の音。
腹が減った……。
そうして銭湯を満喫した後、私は洗い場に戻ってシャワーで身体を流し、脱衣所へ戻る。
給水した後、バスタオルで身体を拭き、袖へ腕を通していく。
さて、風呂場を後にし、いよいよ本日のメインイベント。
メシ処に向かう途中で休憩スペースに立ち寄り、自動販売機で清涼飲料水を買っていると、近くのベンチに同年代ぐらいの女の人がいる事に気づく。
「(あ。このコーヒー牛乳を美味しそうに飲んでいる人、最近よく見かけるな……)」
美味しそうにビン牛乳を楽しむその顔は、まるで醤油ラーメンを堪能する自分を鏡で見ているようでもあった。その女の人とは知り合いでも何でもないのだが、童心に戻っているような表情を見ると何故か自分も嬉しくなる。
清涼飲料水で少し喉を湿らせた後、メシ処でおばちゃんに注文したラーメンを座敷席に持っていき、コショウをふりかけて、ズルズルと麺を啜る私。
安いナルトにメンマ、安いチャーシューに焼き海苔。このおもちゃみたいなチャーシューが特にたまらない。なんて安い味がするんだ。
おもちゃみたいなレンゲで味わう安いスープも最高だ。ひと口飲むごとにチャルメラの音色が確かに聞こえてくる。
「(そうそう、こういうのでいいんだよ。明日から、また歩いていける)」
さてさて、そろそろお気づきだろうか。
日常から離れたい時。童心に帰りたい時。
銭湯の安メシは、あなたを待っている。
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