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瞑想日記⑥【オウム真理教のドキュメンタリー映画「A」「A2」とスピリチュアル】

このnoteを読んでくださりありがとうございます。

少し反射的に嫌な気持ちを感じる人もいるかもしれないですが、オウム真理教の事件後を追ったドキュメンタリー映画である「A」「A2」を見ました。

1998年と2001年の作品ですが、簡単に説明すると、この映画は、一連の事件後の教団信者の方々を追ったドキュメンタリーで、
その信者の方々は、事件とはかなり関係性に距離があり、言わば残された人たちです。


私もインドやチベットに行ったり、
またスピリチュアルと言われるような分野で、
9年近く「伝える」という活動もさせていただいていたので、
伝える内容はもちろん違いますが、
自分も含め、スピリチュアルに興味を持って集まってこられる方と、
このドキュメンタリーに出てくる、
事件を全く知らなかった信者の方々には、
心の傾向にどこか少し重なる部分もあるように観ていて感じました。
(全てではなく、一部です)

一連の事件に関しては、当然罰せられるべきことですし、ご遺族の方からしたら、この映画も受け入れることはできないかと思います。

ただ、内容自体はあまり書くつもりはないのですが、
瞑想や探究を通して、
社会的にも、精神的にも、バランスを持って幸せを求める際に、
大切になってくることが、
この映画から学べたので、
それを書いておきたいなと思います。
(今回は長文になりなす。)




3つの信念







映画にでてくる信者さんを見ていて、まず率直に感じるのが、皆さん「とても優しい人」、という印象です。

これは、スピリチュアルに興味を持ってこられる方に多いと思いますが、「優しくて温厚で真面目な印象の人」が多いです。

それは、心にそれぞれ何かを抱えていらっしゃり、社会だけではバランスが取れない精神の共通したタイプでもあるのかなと思います。


映画に出てくる信者の方も似ている印象で、興味を待って来る方は、
「優しくて温厚な人」ばかりで、
世間のオウム真理教のイメージとは全く違う、
一般的に良い空気感の人ばかりであることに驚かさせます。

(私たちがどれだけメディアにイメージを作られているのかわかります)



しかし、では、なぜそんな人たちが、教団から抜けずに信者として映画で描かれているのか?

そこには、誰にでも起こる可能性のある、3つの信じる力(信念)が影響しているように思いました。




グルイズム



まず一つは、グルイズムと呼ばれていたものです。

これは、グル(師や先生)が私たちを導いてくれるので、グルに帰依する(絶対的に信じる)というものです。

これは、インドやチベットの伝統でもあり、他の宗教でも多いことだと思います。
(インドに行くと本当にグルと出会えることに人生を変える力があります)


この伝統は全く嘘とは言い切れず、
グル(師や先生)から学べることは本当に沢山あり、
学んだことを実践して体得していくには、
グル(師や先生)を信じること、
またグル(師や先生)との強い関係により成長が深まると思います。

特に、自分がとらえきれない一歩先に足を伸ばすには、
先に経験している人の教えに導いてもらうことで前に進むことができます。
(見える世界でわかりやすく言うと、スポーツの選手とコーチの関係や、経営者とメンターの関係にも近いかもしれません)


自分の経験からも、師や先生との関係により本当に成長できました。


しかし、このグルイズムが、自分の成長の伸びしろではなく、
もはや信仰心だけが大切になってくると、少し意味合いが変わってくると思います。

仏陀の残した言葉として、私が聞いた中で心に残っているのは、
「私(仏陀)は私しか悟りに導くことはできない。だから、あなたを悟りに導くことができるのはあなただけだ。」という言葉です。
(ゴエンカ氏の講和)

これは、現代人に置き換えると、悟りとは幸福状態であるので、
「自分の幸福は自分でしか見つけることはできない」ということになると思います。


しかし、グル(師や先生)が探究の先人ではなく、信仰になってしまうと、
自分にとっての幸福を自分で見つける探究からは自然と外れていきます。

映画の中で、象徴的だったのは、
グル(教祖)が探究の先人ではなく信仰対象になっていて、
「最終的に自分自身を幸福にできるのは自分だけ」という、観察と理解は欠けていたように見えた所です。

その結果、
事件を起こした教祖が、
実際どんな人かという客観的な視点よりも、
信仰心によってイメージされた素晴らしいグルを心の中で現実化して、
そこに自分の人生を預けることに、
信者の方は至上の幸福を感じているようでした。


それもわかるところがあるので、拒否するわけではありませんが、
グルに対する信念が偏りすぎていると思ったのは、
信者の方が、
「一連のオウム事件も、グルが私たちの修行を促進させるため、弟子たちを思って、この状況を作ってくれた」
と言っていたのは、
信仰に偏りすぎることの弊害のように感じました。



神秘体験







二つ目は、快感(神秘体験)が信念体系になっているということです。

これは、誰しもがそうなると思うのですが、自分が感じたことというのは、自分にとってはどうしたって真実です。

例えば、誰かを好きになったのであれば、
それはその人にとっては真実ですし、
それを誰かに否定されても、嘘にはならないです。

しかし、好きになったことが信念体系に結び付くと、それは好きという感覚作用を超えてストーカーになる恐れもあります。


映画では、信者の方は神秘体験をすべて、グル(教祖)によるものと信じていました。

グル(教祖)による、快感や神秘体験の経験は、
信者にとっては真実なので、
信者の方にとっては信者でいることが幸福の道のようでした。


そもそも、神秘体験や快感は、刺激が強いので自分の幸福を手放しに重ねてしまいやすいものです。

神秘体験は精神に強い刺激を残すので、自分の力で神秘体験が起きた!と結論づけてしまうのも、逸脱した信念を持つ原因になってしまいます。

ましてや、それが誰かの力だと理解したら、受けた人には相手に対する強力な信念体系が生まれます。


神秘体験や快感は、上手くいけば、既存の概念を壊す役目があると思うのですが(シャーマンの儀式のように)、
それ以上の意味が付くと中毒性は計り知れないものです。

私も経験していますが、
どんな感覚であろうとやはり感覚なので、
人間の仕組みによる世界であることには変わらず、
変性意識であれば、
不思議ではあるのですが、誰でも起こっては消える、
生理現象の一部でもあります。


つまり、快感や神秘体験は、自分や誰かがすごいのではなくて、人間の仕組みがすごいのです。


この神秘体験や快感を、脳科学や人間の仕組みという客観的な見解ではなく、
誰かの力自分の力という主観の見解だけで信念体系を持ってしまうと、
特別という巨大な権威を持ち、
信念はより強くなっていったと思います。




ハルマゲドン






そして、最後の3つ目は、未来に対する予言です。

これは、映画だけではなく、
元教団幹部の上祐史浩さんのインタヴューで感じたのですが、
教祖が逮捕されて、信者の方の恐怖の一つに、ハルマゲドンがありました。

ハルマゲドンとは、
アブラハムの宗教における、世界の終末における最終的な決戦の地を表す言葉で、
教団の中では、教祖による世紀末に世界戦争が起きるという予言に当たります。

そこで、日本を救うために教団があった訳です。

数々の事件も、このハルマゲドンを乗り越えるべく、教団が日本のトップになるためのものという見方もあるようです。


今でも、202X年に大変化があるとかはありますよね。

私も記憶に新しくて影響力があったのは、2012年のアセンションと言われていたタイミングです。



スピリチュアル的な、どちらかというと直感的な未来予測(啓示)によくあるのは、
未来に対して、一人一人がどう生きていくかを自分で考えさせるよりも、
言った人が理想とする生き方が教義のようになってしまうことかもしれません。

このハルマゲドンに対しても、
教祖はその啓示と教義が降りてきたのかもしれませんが、
啓示が降りたわけでもない信者の方々が、
それを信仰すること(信仰させられること)で、
結果的に客観性の欠如と、
ハルマゲドンの秩序に合わせてしか目の前の世界を見れなくなる事につながっていったのではと感じました。


なので、多くの信者の方には、教祖が逮捕されたことで、
ハルマゲドンに対してどう生きていけばよいのか、とても路頭に迷ったと言うことです。

(社会におけるオウムが与えた影響よりも、
ハルマゲドンの事の方がみんな心配だったようですが、
それもそちらの信念であれば、そうなる気もします)


そして、上祐史浩さんは、刑務所で、
予言とされていた1997年になっても、2000年を超えても、
ハルマゲドンが起こらないので、
予言が外れていることを実感し、
教祖を一人の人間として初めて客観的に見ることができるようになったとおっしゃっていました。


このことからも、未来の予言というのは、
人々のマインドを惹きつけやすく(私も占星術に興味があります)、
しかし、そこに、知識ではなく信仰が重なると、
自分の未来が誰かに支配されているような人生になってしまうのかもしれません。
(本人は自分の意志で未来を決めているように、脳によって理解するのですが)











信念を観察して生きていく時代







「A」「A2」というドキュメンタリー映画から感じたのは、
この3つの信念は、誰の内にも芽生えやすいもので、
教団のやり方はハッキリと否定しますが、
優しい心を待った信者の方がなぜ信者になっていくのか、
もしくはなぜ信者を辞めないのかは、
《信念》という自分では客観的に捉えることが難しい抽象領域に理由があるような気がしました。



信念は、
その人の人格だけの話ではなく、
人間の仕組みの話で、
私たちは、全ての世界を平等に見ているような気になりますが、
真実は、自分の信念からでしか世界を見れないという機能なのです。

(聞いたことがあるかもしれませんが、例えば、視界に鼻先はいつも映っているのに、言われなければ見えない) 

これは、もしも脳が、見える世界を隈なく平等に見ると、
脳のエネルギー消耗が激しすぎるため、
脳を守るために、私たちは信念に元づいて世界を見る仕組みになっているようです。

つまり、信念からしか世界を見れないのも、ましてや、信念があるのも、
私たちの命を維持するための生理機能の一部だと言えます。



ただ、信念が人間の仕組みの影響によるものではなく、
自分の意識が自力で選択していると理解することで、自分自身と仕組みとが混同してしまいます。

(これも、脳はエネルギーを使いたくない性質なので、確かめるというエネルギーを使わないために、全て自分がやったと理解していく働きがあるようです)

これは、オウム真理教のみならず、現代社会では数々の情報により社会全体が意図的に信念に働きかけています。
(こうした文章も、その一つですね)


ただ、本当の私たち自身は、人間の仕組みを体験しているものであって、人間の仕組みそのものではないと私は感じています。

だから、人間の仕組みに支配されすぎず、本当の自分自身とのバランスをとることが、これからの生き方には大切になると思っています。

そのためには、人間は信念からしか世界を見ていないことに対して、客観的な自己観察力を磨くことが必要だと映画を観ていて感じました。











自分にとっての幸福は自分で見つける







ちょうど、私は、このオウム事件の90年代に10代を過ごしました。

なので、自分の世界観の中に、90年代の空気は大きく作用しています。

その経験を踏まえて、未来を創っていくには、
この3つの信念が起こることを全否定してしまうのではなく、
それ以上に、そこに偏らないための客観的な自己観察力を身に付けて、
仏陀の言葉のように、「自分にとっての幸福は自分で見つける生き方」に近づく探究が大切になるように感じました。

これは、日本の道を究める伝統に残された言葉である《守(しゅ)・破(は)・離(り)》の教えが、やはりヒントになるのではないでしょうか。


オウムほどの事件は特別だったかもしれませんが、
瞑想やスピリチュアルなことを通して、
自分自身の幸福のバランスを見つけていくためには、
集まる信者の方々の姿に、学ぶべき所が沢山あった、
そんな貴重なドキュメンタリー映画でした。

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