瞑想日記⑭【役行者(えんのぎょうじゃ)からの教え】
先日は、2泊3日かけて、修験道の聖地である世界遺産・大峯山に登るため、奈良県天川村洞川に行ってきました。
なぜ、大峯山に登ろうかと思ったかというと、
今月30日には、飛騨高山にてZEROマインドワークショップがあり、
来月は、京都にて大屋敷和貴さんとのゼロになるリトリートが11月26日27日28日と予定されているため、
参加される方との深い時間を過ごせるように、
自分自身の準備と成長もかねて向かうことにしました。
ちなみに、修験道について簡単に説明すると、
修験道とは古来からの日本人の持つ自然崇拝と、仏教・神道・道教が融合したもので、
山で修行をすることで神秘的な力を得、自他を救済しようとする探究・祈りの道の事です。
修験道の開祖である役行者が修行の末に《金剛蔵王大権現(ざおうだいごんげん)》を感得した場所が大峯山で、
そこから1300年以上、大峯山は修験道の根本道場(修行場)として今に続いています。
修験道の場所は日本全国にあるのですが、この大峯山が他とは大きく異なる点があります。
それは、1300年以上にわたり、現在でも女人禁制が守られている聖地であるということです。
時代の変化と共に、そのことには様々な意見がありますが、昔に関しては、富士山も高野山も比叡山も女人禁制の修行場・聖地でした。
逆に言えば、沖縄などの母系社会では、御嶽という祈りの場は女性のみで男子禁制であった聖地もありました。
何故女人禁制になったのかは、いろいろな要素が合わさっているのでここでは取り上げませんが、それでも戦後以降は、国際化に合わせて女人禁制の戒律は過去のものとなってきました。
ただ、この大峯山は現在でも女人禁制を守り続けている特殊な聖地です。
今回は、現段階ではまだ入るのが難しい、女性の方にも、その人間と自然との1300年にわたる心の営みを、少しだけ感じていただけたら嬉しいです。
ちなみに、私自身は、そこまで女人禁制であることに気を留めて向かった訳ではありませんでした。
どちらかというと、13年前に一度、大峯山には登ってはいないのですが、この洞川には来ていて、
その時の簡単には近づいてはいけないような雰囲気の残ったこの場所に、ずっとどこかのタイミングできちんと行ってみたいと思い続けていました。
しかし、13年越しに大峯山の入り口にある「女人入山禁制の結界門」の前までたどり着いた時、
女人禁制にさほど興味を示してはいなかった自分でも、その結界門の存在の強力さにとても驚愕しました。
「女人入山禁止の結界門」は、役行者が命を失うほどの修行場である大峯山に、
心配していた母親がここから先には後を追ってこないように、母親の命を危険にさらさないために建てたと言われています。
門は見るからに役行者の結界が張り巡らせてある感じで、
それが1300年守られているのですから、
観光地と化した現在の世界とは全く異なる世界への入り口のようでした。
そしていざ門をくぐると、
その一歩が地図上ではとても遠くまで行ったかのように感じるほど場の”質感”が異なり、
結界の先は今までに感じたことのないタイプの静けさに満ちていました。
私は10月に行ったので、大峯山の開山時期である5月から9月にはズレていたため、登山客もほぼいなかったのもありますが、
ただ単に音がしないという静けさではなく、
1300年間、男性しか足を踏み入れていないというような、
受け継がれてきた時間が濃縮されて今という空間になっているような独特の静けさでした。
けど、男性だけだからといって一概に荒々しいものかと言われるとそうでもなく、
どちらかというと男性の中にある母性に包まれているような感覚をはっきりと感じていました。
修行場なのですが、厳しさよりも父性的な愛の聖地のようです。
私が過去登ったどの山とも違い、このネットによる情報時代に未だにフィルターがかかっている特別な山でした。
「豊かな自然、生命に溢れた山なのになんでこんなに静かなんだろう」と大峯山の静けさに心を奪われながら杉林を登っていきます。
途中いくつか茶屋がありますが、シーズンではないので閉まっていました。
ご縁のある聖地に行くとよく蛇と出会うのですが、
大峯山でも二匹の蛇と出会い、
また、私を必要以上に怖がっているように逃げていった鹿の群れにも遭遇しながら、一歩一歩登っていきます。
だんだんと岩が現れてきて、空がひらけた山の上の方まで着くと、
巨大な岩山が見え始めてきて、ここから修験道の修行場になってきました。
そして大峯山の頂上近くにあるのが大峯山最大の修行岩場「西の覗」です。
修行として来られた方は、先達(修験道の熟練者)にサポートしていただきながら、この絶壁に逆さになって身を乗り出します。
岩場には鎖が付いている場所があって、おそらくここから身を乗り出して逆さになって真下を見るという形のようです。
そんな絶壁の岩場で、身の安全を最優先にしながらもこの鎖のついた岩場に立ってみました。
すると、立つだけでもとんでもない恐怖心に自分の心が支配され出しました。
今までも絶壁や山の上からの高低差のある場所には行った事はあるのですが、
そことは自分の足のすくみ方が違います。
この恐怖心はただ高い場所というわけではなく、
この崖の下へと私を引き込む強力な力が働いているような恐怖でした。
今まで行った場所も確かに足がすくむほどに恐怖心が出てくるのですが、
私にとっては、大峯山の「西の覗」は、
例えるなら催眠術にかかったかのような変性意識になり、
「自分が飛び降りていく映像」が頭から離れなくなりました。
きちんと岩場に立っているのが”現実”なので、
飛び降りていく錯覚を何とかして打ち消そうとしますが、
打ち消すことができず、
その場に腰から崩れ落ちるように座りこむことで、自分の身が岩場にあることに意識を戻します。
この崖の下に役行者が感得した金剛蔵王大権現(ざおうだいごんげん)が祀られているという事なのですが、
もう、その金剛蔵王大権現の霊力や過去1300年にわたる修行の磁場なのか、
頭の中や、理性や感情が恐怖でコントロールできなくなってしまいます。
役行者の遺訓の中に「身の苦をもって心乱れざれば、証果(悟りの果)自ずから至る」という言葉が残っています。
私は日ごろ瞑想や氣功を積み重ねていても、
それは死という苦のない安定した状態だからで、
自分がいざ恐怖や不安に苛まれるような身の苦の事態になったら、
いとも簡単に心が乱れることをはっきりと自覚させられました。
この「西の覗」という最大の荒行場とは、
それを自覚させるためにあるようで、
自分の枠が打ち砕かれていくようです。
しかし!このままでは、私も簡単には立ち去ることができず、
またその岩場に立ち、
飛び降りてしまう映像を何とか打破しようと心に対して働きかけることにしました。
「飛び降りる訳ではない。今、ここにしっかり立っているのだからそこに集中すればいいんだ」
とか、
「足や腰の感覚に集中して、出来るだけ他の感覚に意識を持って行かないでおこう」
とか、
「今目の前に見える光景は、光の反射が神経を通って脳に映像化されているのだから、それは感覚に過ぎず、真実ではないはずだ」
とか、
1時間くらいその場で、心の恐怖をどう取り除けるかを内観していました。
しかし、どうあがいても私を奈落の底へ引きずり込もうとする引力にひっぱられ、
それに抵抗しようとする恐怖心によって心の乱れは変わりませんでした。
もう様々な方法を試してみても自分ではこの心の乱れはどうしようもできず、
このままこの場を去ってしまおうかという思いがよぎった時、
ふと一つの考えがやってきました。
それは、
「ここは役行者が開いた神聖な修行場なのだから、
ちっぽけな自分の経験で何かを解決しようとするのではなく、
偉大な役行者に直接問いかけてみるべきなのでは」
というものでした。
もちろん本当に答えが返ってくるかはわかりませんでしたが、
もう自分では成すすべがなかったので、
祈るような気持ちだったと思います。
再び、岩場に立ち、
同じようにこの絶壁から奈落の底へと飛び降りてしまう恐怖心に心を乱されながらも、
役行者に「この心の乱れを収めるのはどうしたらよいのですか!」と意識の中で投げかけてみました。
すると問いかけた時の自分の感覚が遠くなっていくように変化し、
その感覚が向こう側から返ってくるものと混じり合って、だんだんと違う感覚に変化していきました。
「何かをしようとするな!無になれ!!」
自分でもびっくりしたのですが、突然、変化していた感覚が言葉に具現化されて心の中に響きました!!
急に言葉となって返ってきたことに驚きながらも、
「そうか!恐怖心に対して何かしようとするのではなく、ただ”無”になるのか!!」
と気づかせてもらい、その通りにただ”無”になることだけに意識を向けることにしました。
すると、それまで私の心を支配していた飛び降りる映像や恐怖心、引きずられる感覚が心の世界から自然と霧のように見えなくなっていきました。
自分は岩場に立っているし、ものすごい光景が目の前に広がっているのですが、
心は”無”にただ向かっていて、その心は乱れるのではなくとても落ち着いていました。
「これを実践する為に私は今回大峯山に来たのかな」という思いを感じました。
10分くらいはその心の状態で立つことができ、
また、”無”から意識がはなれてしまうと恐怖心が沸き上がって座ってしまいますが、
それでも私の中ではとても大きい学びをいただけました。
「心の幸福は、何かをしたら得られるものではなく、何もしないことで自然と得られる」
日頃の瞑想や行も、安全になって身の苦が少なくなった現代では、本当の心の本性を知る上で足りない部分が多いのかもしれません。
苦行が必要とは全く思いませんが、自分の枠の中だけで何かをわかった気になることは打破していかなければと、改めて自戒しました。
また、いつも学ばせてもらっているkan.さんには、
自分の枠という幻想を破ることをいつも教えていただいているのですが、
この修行場と同じ体験をいつも学ばせていただいているんだなとも思いました。
そう思うと、本当の教えとは森羅万象のエネルギーが詰まっているものであることを、この「西の覗」での自分の心の変化を通して学ぶことができました。
「西の覗」を後にすると、最後は大峯山寺に着きます。
こちらもシーズンオフなのでお寺も宿坊もしまっていましたが、この大峯山寺を抜けた頂上に、岩がありました。
そんなに目立つ岩ではないのですが、湧出岩(ゆうしゅついわ)という名前の書かれた岩で、
触れてみると、ものすごく巨大な世界を内在しているかのように感じてびっくりしました。
どのような岩かもわからなかったのですが、
大峯山を登った中では一番強さを感じた岩だったので、
この岩の前で最後に瞑想をして無事に大峯山を降りることにしました。
後で調べてみると、なんとこの湧出岩(ゆうしゅついわ)こそが、
役行者が千日修行の後、金剛蔵王大権現を感得した場所だそうです。
振り返ってみると、「西の覗」やこの湧出岩(ゆうしゅついわ)等、この大峯山は、金剛蔵王大権現の力そのものなんだなと実感しました。
そんな、大峯山でした。
と終っても良いところなのですが、
なんと!!これだけでは終わらずに、山を降りてから出来事が!!
この続きはまた次に書きたいと思います。。
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