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フリー雀荘デビューの思い出【コラム】

序章

そのお店の名前は、「19番ホール」と言った。

今思うとシャレた名前を付けたな、と感じる。

ゴルフでの1ラウンドでのプレーは、1番ホールから18番ホールまである。
「19番ホール」とは、ゴルフの後の延長戦に麻雀でもどうですか…という意味が込められている。

高校生だった当時の私は、そんな店名には興味を示さず、その下に書かれていた1文に強烈に惹かれていた。

「お一人様でも打てます」

強く記憶に残っているので、今でも鮮やかに思い出せる。
これは、私のフリー雀荘デビューを描いた完全ノンフィクションの物語である。


甘美な大人の遊び・麻雀

私は中学生の頃から麻雀を打っていた。

狭い我が家(住宅)に母親や同級生、近所のおじさんが集まる。
1000点でうまい棒1~2本程度の安いレートだが、みんなでワイワイと楽しく打っていた。

高校に進学し、勉強や部活(バレー部)で挫折を経験すると、より麻雀に傾倒するようになった。

楽しい。とにかく楽しい。
あのときの気持ちは形容しようがない。
カチャカチャという牌の音、点棒やサイコロといった小道具1つ1つが、麻雀の持つどこか危険で、大人びていて、それでいて甘美な雰囲気を作り上げているように感じた。
私は、他のことが何も見えないくらいに麻雀にハマっていった。

授業中にどうやったらカッコよく牌を切れるかを消しゴムで練習したり、何切るを作ってはクラスメートに回していった。

成績をノートに付け、月間での勝率や連対率を競い合ったりした。
台風で学校が休みになると「台風記念GⅡ」などと言って、みんな集めて朝まで打った。
GⅡといっても特に普段の麻雀と変わらなかったが。

近隣から苦情が来たり、先生に怒られたりしながらも、とにかく暇をみつけては人を集めて打っていた。

競い合ったり…と言ったが、ハッキリ言って毎月私の独壇場だった。
チートイが大好きな母親や、遊びの気持ちが抜けない同級生では、相手にならなかった。

成績ノートは自分の強さを確認するために付けていたようなものだ。
もっと強い相手と打ちたい…。ストリートファイターを思わせるような言葉が私の胸を駆け巡った。

町の雀荘

「19番ホール お一人様でも打てます」

その看板をみつけたときには胸が高鳴った。
駅そばに有る、小さな雑居ビルの2階。
そこだけ温度が2・3度低いような、暗い雰囲気。

高校生だからこれまでの行動範囲は知れている。
行ったことのない場所への抵抗感は大きく、雑居ビル自体が黒いオーラに包まれているように見えて、近づくこともできなかった。

しかし体が危険を感じれば感じるほど、そこに入ってみたい、あらたな世界を覗いてみたい、という気持ちは増していった。
19番ホールの前を通るたび、違う人と打ってみたい希求は高まっていったのだ。

お金がない

しかし、当時の私はお金が全くなかったのだ。
麻雀勝ちまくりといっても、1回のトップで1000ペリカもいかないようなレートだ。
いくら勝っても食べざかりの高校生だから、駄菓子屋やコンビニですぐ使い切ってしまう。

そこで私は一念発起して新聞配達を始めた。
休刊日以外の休みはなく、厳しかった部活と同時にこなしていた。

朝まで麻雀打って、
「あ、俺配達いかなきゃ」
と言って抜けることもよくあった。

元気が溢れていたなーと思う。

新聞屋の親父とも麻雀を打ったし、週末には馬券を買ってきてくれたりしてくれた。

今思うととんでもない新聞屋だが、私は好きだった。
下の名前で呼んでくれたその親父は、私に対して、ただのバイトの1人でなく、高校生でもなく、1人の立派な男として接してくれているような感じがした。
母子家庭で育った私は、本当の親父のように感じていたのかもしれない。

1ヶ月がたった。
1回目の給料は3万ちょっとだったと思う。
1日1000円だ。

家は貧乏だったが、学校ではセレブ気取り。
昼休みには購買でパンをたくさん買った。

調子に乗っていると、19番ホールに行く算段を立てる前に、お金は尽きてしまった。

なにせ配達が終わったら毎日吉野家で牛丼の特盛(当時600円くらい)を食べていたのだ。それが楽しみで配達を頑張れたところもある。

1日1000円もらって吉野家で600円の特盛…玉子と味噌汁を付けたら、日当の大半が無くなってしまってる。

そうこうしているうちに2回目の給料日がきた。
今度はその日の夕方のうちに19番ホールに向かった。

もらったばかりの給料袋を握りしめて。

決戦19番ホール

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