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Jクラブのパワハラ問題をきっかけに「成長」ってなんなんだろう?って考えた話

パワハラ下でもひとが成長するって変じゃない?


どうも、ゼロファジです。

ここ数年、Jリーグクラブの指導者がパワハラ認定を受ける事例が相次いでいます。湘南を率いていた曺貴裁元監督や、東京Vの永井元監督。そして直近では鳥栖の金明輝元監督のパワハラ行為に関する報告書が大きな話題を呼びました。

TwitterのTLなんかではその内容のひどさに非難の声が上がっていましたが、パワハラ認定を受けるような行為はあってはならないし、到底受け入れることはできません。

しかし、一方でパワハラのような手段を用いる指導者であっても結果が出てしまうことがあります。現に湘南を率いた曺貴裁元監督は数少ないJ1昇格経験を複数回持つレジェンドクラスの監督ですし、金明輝元監督にしても指導していた鳥栖ユースはいまやラスボスといわれるほどの強豪になっています。またトップチームで披露したサッカーにも一定の評価を得ていました。

「そんなやり方は絶対におかしい。そんなやつが残した結果なんてゴミ扱いでいいよ」と切り捨てたくなる気持ちもわかります。しかし、間違ったやり方なのにチームや選手が大きく成長したりするケースがある。現実に。

これってなんか変じゃないですか?間違ってるやり方なら間違ってる成果がでるもんじゃないの?普通に考えるならそうだけど、どうもおかしい・・・

この疑問を解決するために、ひとの「成長」とからめて整理できないかな?ということで記事にまとめてみました。ちょい長めになりますがお付き合いいただければ幸いです。

ひとの成長ってなんなんだろう?


そもそも、ひとが成長するってことはどういうことなんだろう?
結論から言うと、成長とは「努力して自分の限界を超えること」だと考えています。

努力をした結果、以前できなかったことができるようになる。つまり自分の中のそれまでの限界ラインを越えて一回り大きな自分になる。それこそが大なり小なり成長なのだろうと。特に、後の生き方を支えてくれるような強烈な成長体験はほんとうにギリギリの限界を突破してこそ得られるものなんじゃないでしょうか。

となると、次は、どうやったら成長できるのか?どうやったら自分の限界を越える努力ができるのか?という話になります。

これには2つやり方があると思っていて、
1.自力で自分を追い込んで努力する
2.指導者や環境など外部からの影響で自分を追い込んで努力する

努力するのは自分で変わりはないんですが、自分で自分を追い詰めるか?他人に追い詰めてもらうか?この2つがあります。この両者の差は非常に大きく、1は超絶難易度でおそらく努力の天才と呼ばれるような人のみが通れる道なんじゃないのか?なんて思ってます。

自分で自分を追い込んで努力するのは超ムズい

勝つは己に克つより大なるはなし

プラトン

という言葉があります。

”自分の気持ちに自分で打ち勝つことほど難しいことはない”という意味ですが、やっぱり自分で自分を追い込むのはめちゃくちゃ難しい。なんていってもプラトンの古代から延々と続く真理ですもん。人間なんぼ努力するぞ!と意気込んでも、どっかで「この辺でいいか」と手加減したり、「もう十分やったじゃないか」と妥協したりするものじゃないですか。自分で自分の退路を断って、限界ギリギリまでえげつなく追い込むことはほんとに難しい。

ちょっと余談になりますが、クリアソン新宿の井筒選手の記事の中の「なぜ、本気を出すことができないのか?」において、選手が自分で自分の本気を出すことの難しさが述べられています。おそらく一脈通じる話だと思うのでぜひ読んでみてください。

自分で自分を追い込むことは難しい。なぜなら自分に克つのが難しいから。ならばどうやって限界を超える努力を可能にするのか?そこで出番になるのが、”2.指導者や環境など外部からの影響で自分を追い込んで努力する”という道です。

なぜパワハラや昔のしごきみたいなものがひとを成長させるのか?


パワハラや前時代の軍隊的なしごきやスパルタなど、強いストレスのかかる環境を生き延びた(サバイブ)したやつらは強い。それだけの成長体験を持っている。これほんとその通りだと思うんですよ。自分の周りにも野球の強豪校の鬼のしごきに3年間耐えたやつとかいますけど、やっぱ辛抱強いというかちょっとやそっとじゃ揺るがないなにかみたいなものを感じることがあります。

実はこういう思いを強くした動画がありまして、

1979年に日本で開催されたワールドユースのための代表選手合宿を経験した水沼さんが当時を振り返った動画なんですが、おそらくここまでキツイ練習を体験した人はいないんじゃないか?というスパルタぶりで非常に有名な合宿だったそうです。

詳しくはぜひ動画を見ていただきたいんですが、中でも大事だなと思ったポイントが”この合宿をくぐりぬけた人たちはその後もタフにサッカーと向き合い続けてる人がたくさん残っている”ということでした。

つまり、この合宿を経て獲得した成長体験がその後の人生を支える柱のようなものになったのかもしれないってことです。


なぜ、パワハラや昔のしごきみたいなものがひとを成長させるのか?それは、努力する側の退路を容赦なく断ち切ってやるしかない状態に追い込まれるからだと思います。それも尋常じゃないレベルで。

人間が成長するためには努力が必要です。なかにはやりたくないこと、嫌なこともたくさんあります。人間ですからごまかしたり逃げたりしながらなんとかやっていきたいところですが、その退路もかなり狭い。もしかしたら、ない。そうして障害をクリアしていくからこそひとは壁を越えて行くわけですが、おそらくパワハラや昔のしごきなんかで要求される壁はその高さもめちゃくちゃ高い。

したがって、歯を食いしばってそれに耐えて残ったひとたちは自然と高い壁をクリアしたまさにサバイバーになるわけで。必然的に自分の限界を超えるような努力を要求され、それに応えようともがいた結果、想像以上の成長体験を獲得することができた。こういうことなんだろうと思うんですね。

生存者バイアスという言葉があります。

中にはふるいにかけられて残らなかった人たちも当然いるはずです。しかし、途中で降りたひとたちは表舞台には出てこないので、結果的に成果をあげた人たちの証言しか残らないために都合よく聞こえるだけじゃないの?というツッコミもあって然るべきだと思います。


誤解のないようにここではっきり言っておきたいのですが、パワハラや前時代的なスパルタを礼賛しているわけではありません。

手法として良くないものはやめる方向で進められるべきです。しかし、それとはまた別に、最も大事なことは、努力者にとって指導者や環境がどういう壁になるのか?ということだと考えています。

努力者が限界を越えるほど追い込むことができ、甘えや妥協を許さない厳しさがあり、乗り越えたとき財産となる成長体験をどうやって獲得してもらうか?

それが間違った形で運用されているのが、パワハラや昔のしごきなんじゃないか?と思うのです。

パワハラをいかになくしていくか?についてはわかりません。しかし、先の水沼貴史さんの動画の中で当時の死ぬほどキツい合宿を経験した人にインタビューしてみると、みんなうれしそうに語ってくれるそうです。

もしかしたら、将来振り返ったときに努力者がどう思うのか?そこが大きなカギなのかもしれませんね。

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