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「概ね」を使わないでみる

前の記事をツイッターに載せたところ、たくさんの人が読んでくれた。感想をツイートしてくれた人もいる。少し恥ずかしかったけど、公開してよかった。
皆さん、ありがとうございます。









今回はある言葉について考えたい。
「概ね」と聞くとどんなイメージだろうか。
たとえば「概ね良い」と言われたら?ほとんど問題ないという意味に聞こえるかもしれない。


私の大学の指導教員は、修士論文などの添削依頼をメールで送ると、ほぼ必ず「概ね良いと思います」と返してきた。
もはや学生の間でお決まりのこととして語り継がれているのだが、これは「たくさん直してほしい」という意味である。
概ね良い、という言葉の後に続くのは、「日本語の表現を見直してほしい」とか、「構成を変えた方が良い」など、大きな変更を伴う指摘なのだ。

いや、どこが「概ね良い」のか!




ところで、この「概ね」、私もかつてよく使っていたことを思い出した。
私は、個別指導塾の講師を6年間続けてきた。
毎回の授業で、生徒の持参するノートに授業内容やアドバイスを記述して返すことになっている。このとき、「概ね」は大変便利なのだ。

例えば、こうやって使う。

本日は、円周角の定理について学習しました。新出事項の多い範囲となりましたが、活用方法を概ね理解し、問題を解くことができました。宿題で演習を重ね、定着させていきましょう。

……………何回この構文で文章を書いたことやら。笑
塾のノートでは、授業で何をしたか、生徒はどの程度達成したか、今後どうすべきか、を示すことが必要になる。生徒の達成度に言及すべきなのだが、学習した内容のどの部分を理解し、どの部分は不十分だったかなどを具体的に書くスペースはない。そこで、「概ね」を使うことになる。

しかし、こんな風にも使えてしまう。

本日は、因数分解の単元を扱いました。因数分解の公式を概ね理解し、問題演習に取り組めました。演習を重ね、確実に解けるようにしていきましょう。

……………よく考えてみてほしい。
公式は「概ね理解」では意味がない。正確に覚えてこそ使えるものだ。
このとき、私の言う「概ね」は、「出来ている部分もあるのでそれを肯定したい」という意味である。


特に意識したわけではないが、いつの日からかこのような「概ね」は使わなくなった。
十分な達成度ではないのに「概ね理解した」と書いてしまうのは、講師としての逃げだと思うようになったからかもしれない。




指導教員の使う「概ね」と、かつて私が多用した「概ね」は、大変似ている。
どちらも「先生→生徒」という構図であること。また、「ここまでに達成したことを肯定したい」という意思が(おそらく)あること。これらが共通していると思う。

よく考えると、「概ね良い」という言葉は同級生には使わなそうである。
「多分良いと思う」くらいではないだろうか。
「概ね良い」と表現するには、良いかどうかを決める地位が必要だろう。するとやはり、評価をする者の使う言葉になると思う。

また、「概ね」はポジティブな表現だろう。
「概ね良い」とは言えるが、「概ね悪い」とは言わない。「概ね悪い」ではなく、「あまり良くない」と表現するはずだ。

これらを結びつけると、「概ね良い」という言葉は、何はともあれ現状を肯定的に評価する、クッションのようなものなのだろうと考えられる。
伝えたい内容がネガティブなものであっても、はじめは肯定から入る。これは円滑なコミュニケーションをする上で当然のことだ。「概ね」はここに一役買っているのだろう。

ただ、私は、なるべく「概ね」を他者に対して多用しないようにしたいなと思う。
肯定は「概ね」というような曖昧なものではなく、具体的な部分を挙げて言っていきたい。
それに、本当に「概ね」良いのかどうかは、他者である私ではなく、主体が決めてほしいと思う。

「概ね」ではなく、「こんなところが」良かったと言えるくらい、他者の良いところに注目出来たら良いのかな、と思ってみたりした。

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