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見聞実話怪談3『山のモノノケ』


僕がお世話になっている、吉田さん(仮名)という男性がいる。
年齢は70歳を越えて、気の優しいおじいちゃんといった風貌だ。

若い頃の吉田さんは山男で、日本中の名だたる山に登っていた。
そんな吉田さんは、当時、山仲間と一緒にアルプスのアイガー北壁に挑む計画を立て資金を貯めていたという。

憧れのアイガー北壁登頂を、1年後に控えたある晩秋。

吉田さんはふと思い立って、関東と北陸にまたがる、とある有名な山に登ることにした。

冬山登山をするわけではないが、山頂はそろそろ雪が降るという季節。
万が一を考え、吉田さんは冬山登山を意識した万端の装備で、その山に挑んだ。
過去に何度もその山に挑んだことのある吉田さんは、難なく山頂まで登り、意気揚々と下山を開始したのだが…
山の天気は急変する。
吉田さんが下山していると、山頂はみるみる鉛色の雲に覆われていったのだそうだ。

『これはまずい…雪が降る…下手すると吹雪だ』

そう思った吉田さんは、雪雲に追われるように、急いで下山していく。
辺りの風は強くなり、チラチラと雪も舞い始めた。
振り返って空を見上げると、雪雲と青空の境目がはっきり分かれている。
言うなれば、光と闇が空に同居しているような景色だった。
雪山に慣れていた吉田さんにも、その光景はひどく神秘的に見えたそうだ。
背後は吹雪。
だが、眼前は晴れていて視界はまだクリア。
なんとも不思議な天候に遭遇した吉田さん、とにかく急いで山を降りよう先を競(せ)った。
だが…
その山には慣れていたはずなのに、雪雲に追われて急いでいたせいか、なんと、吉田さんは、下山ルートを間違えてしまったそうだ。

『うわ…まずい、道を間違えた!
どこだろう?ここ…!?』

吉田さんは慌ててあたりを見回す。しかり、完全にそこがどこかわからなくなっている。
完全にルートを見失った。

背後には吹雪が迫っている。
本来なら、元来た道を戻るのだが、
吹雪が迫っていることも考えると、吉田さんの決断は、このまま下山することだった。

吉田さんは雪雲に追われて、雪が舞う中を急いで山を下った。
岩だらけの景色はやがて森林地帯へ変わっていく。
まだ辺りに雪は降っているが、ひどい吹雪に巻き込まれることもなく、森林地帯へ抜ける事ができた。
それでも下山 ルートを見失ったことには変わりないから、気が抜けないといえばそうなのだが、少しほっとしたせいか、腹が減っていることに気づいたそうだ。

吉田さんは、木々の隙間の広い場所を見つけ、そこで焚き火を始めることにした。
持ってきた米と水筒の水をはんごうに入れ、飯を炊き始めると、辺りには香ばしい匂いが立ち込めた。

その時吉田さんは、この辺りは熊が出るから、熊に遭遇することだけは避けたいなと…思っていたそうだ。

飯が炊けて、缶詰を開けて食べようとした時だった…不意に、吉田さんの背後で枝を踏む音がした。
のっしのっしと、かなり重量のある足音がはっきりと聞こえ、その足音は、あろうことか吉田さんの背後からゆっくり近づいてきたという。

『熊だ…!あぁ、俺は死んだ…』

吉田さんはそんなことを思い、身を強張らせて覚悟を決めた。

『父さん、母さん、きみこ…ほんとにごめん、俺、帰れないわ…』

心の中で、両親と婚約者にひたすら謝っていると、その足音は吉田さんのそばでピタりと止まった。

『その飯、少し分けてくれないか?』

それは明らかに、人間の言葉だったそうだ。
男性とも女性ともつかない、不思議な声。

『よかった!人間だ!俺と同じで、下山ルートを見失ったのかな?』
吉田さんはそんなことを思いつつ、はんごうと缶詰を手に持ったまま、笑顔で振り返ったそうだ。

『どうぞどうぞ!一緒に食いましょう!』

そう言った吉田さんは、再び全身を強張らせた。
そこにいたのは、人間ではなかった、そうだ。
見たこともない生き物だった。

しいて言うなら、羊を熊ぐらいのでかさにして、毛をストレートにしたような生き物…だそうだ。
長い毛を持つ、熊のような大きさの生き物。
しかも、その生き物は、左右に縦に二つづつ並んだ、四つ目があったそうだ。

吉田さんは黙って、その生き物の前にはんごうと缶詰を置いた。
そして、その場で立ち上がると、あまりの恐怖に我を忘れて、猛ダッシュで山を駆け下りたそうだ。

頭の中には、あれはなんだ?!あれはなんだったんだ?!アルビノの鹿?!いや、ヤギ?!羊?!目が四つ?!ありえん、ありえんだろ!!

心の中でそう叫びながらひたすら山を駆け下り、日が暮れてあたりが薄暗くなってきた頃、やっと冷静になって立ち止まった吉田さんは、自分が、登山用具一式が入ったままのザックを、さっきの化け物がいた場所に置き忘れてきたことに気がついたそうだ。

『あぁ…やっぱり、俺、死んだ…』

吉田さんが絶望し、その場に立ち尽くしていると、薄暗くなってきた森の中にチラチラと光る灯りを見つけた。
よく見ると、森の中に民家というか、山小屋のような建物がある。
白い煙が立ち昇っているのも見えて、吉田さんは歓喜した。
吉田さんは、急いで山小屋の方に走った。

山小屋のような民家は、どうやら炭焼きをしている家のようで、炭焼き窯が併設されていたそうだ。
その家の玄関先に立ち、吉田さんは、勢いよく扉を叩いた。

『すいません!すいません!道に迷ってしまって!すいません!』

そう声をかけると、ガタガタと中から音がして、建付けの悪い引き戸が開いた。
中から出てきたのは、吉田さんの母親の歳に近い感じの女性だったそうだ。

吉田さんは『先程四つ目の化け物に合った!』とはさすがに言えず、道に迷った挙げ句、熊に遭遇して慌てて逃げたせいでザックを置いてきてしまい途方に暮れた、と、その女性に話たそうだ。

『あらあら、それは大変でしたね、
さあさ、中へどうぞ
そんなに綺麗な場所じゃないけどね』

女性はそういうと、にっこりと笑って中に入れてくれた。
土間と台所があり、板の間を上がった先には、この時代でもだいぶ珍しくなった囲炉裏があったそうだ。
そこには鉄瓶が下がり、赤々と炭が燃え、その向こうには、やはり、吉田さんの父親と同じぐらいの年齢の男性が座っていたそうだ。

『道に迷ったんだって?たまに来るよ、そういう人』

男性はそう言うと、吉田さんを呼び寄せて囲炉裏の端に座るよう促した。
吉田さんはお礼を言うと、すっかり冷え切った体を、囲炉裏で温めたそうだ。

『腹が減ってるだろ?今夜はここに泊まりなさい、飯食ってゆっくり寝て、明日の朝、山を降りたらいい』

男性がそう言うと、吉田さんを家に入れてくれた女性も、『そうしなさいよ、もう暗いから』と男性に同意して笑っていたそうだ。

山小屋の二人は夫婦で、本来、家は山の麓にあるのだが、炭焼きを家業にしているので、生活の大半はこの山小屋で過ごしているのだという。

優しいご夫婦にもてなされ、食事を共にし、吉田さんは、森の中で出会った化け物ののこともすっかり忘れて、ご夫婦と色んな話をし、楽しい時間を過ごしたそうだ。

そこで食べた肉がまた、ほんとに美味くて『これ、山鳥の肉ですか?』と聞いた吉田さんに、男性は笑いながら『美味いだろ?それ、野ネズミの肉なんだ』と答えたそうだ。

野ネズミって、こんなに美味いのか!と驚嘆した吉田さん、腹もいっぱいになり、眠気が出てきて、囲炉裏の端に横になった。

吉田さんが寝落ちる寸前、不意に、山小屋の扉を誰かが叩いたそうだ。
それに気づいて、女性が土間を降りて引き戸を開ける。

女性は、夜の訪問者となにやら話をしていたようだが、それが誰かわからないまま、吉田さんは眠りに落ちてしまったそうだ。

朝、目が覚めると、そこには誰もいなかった。
吉田さんの体には、古い布団がかけてあったそうだ。

『あれ?あのご夫婦はどこだ?外で作業してるのかな?』

そう思って起き上がると、足元のほうに見慣れたザックとピッケルが置いてあった。

『あれ!?これ、昨日置いて来た俺のザックだ!』

吉田さんは驚いてザックを手に取り、慌てて外に飛び出した。
地面にも山小屋にも、炭焼き窯にもうっすら雪が積もっている。
玄関先で、昨夜助けてくれたご夫婦を呼ぶが、誰の返事もない。
辺りはシンと静まりかえり、鳥の鳴く声が聞こえるだけだった。
しばらくあたりを探したが、やはりご夫婦の姿はなく、吉田さんは仕方なく、山を降りようとしたそうだ。

すると、不意に背後から

『そこの道を降りていけば麓に出れるからね
あと一回、助けてくれるって』

と、昨夜助けてくれたご夫婦の奥さんの声がしたそうだ。

吉田さんは、歓喜して後ろを振り返った。

『ほんとにありがとうございました!
助かりました!』

そう言おうとしたが…そこに、奥さんの姿はなかった。
辺りを見回しても、やはり、昨夜、もてなしてくれた女性の姿はない。
女性の姿はないが、振り返った先には、昨夜は気づかなったが、車が1台通れるか通れないかぐらいの道が、草木に覆われるように麓へと伸びていたそうだ。

吉田さんは、釈然としないまま山道を降りていった。
もしかしたら、何か用事があって、あのご夫婦は先に山を降りたのか?
そうも思ったが、雪の上には足跡も、車が通ったあともなく、誰かがこの道を通った気配すらない。
草木も生い茂り、しばらく使われてないようにも見受けられた。
吉田さんが無事に山を降りて、辿りついた先は、畑に囲まれた里山だったそうだ。
吉田さんが里山を抜けた先には、農作業中の中年女性がおり、その女性は吉田さんに気がつくと、慌てて駆け寄ってきた。

『道に迷った人かい?たまにいるのよ、道に迷って山からここに来る人が!』

そう言った御婦人に対して、吉田さんは道に迷った経緯と、昨夜、炭焼き小屋のご夫婦に助けてもらった話をしたそうだ。
すると、その御婦人は目を丸くしてこう言ったんだとか。

『金子さん(仮名)の炭焼き小屋かい?あそこはもう10年近く前に旦那さんが亡くなって、奥さんも亡くなってるよ』

吉田さんはその言葉に驚愕したそうだ。
色々釈然としないまま東京の自宅に戻った吉田さん。
そんな吉田さんは、憧れだったアイガー北壁登頂を目前にして、婚約者の妊娠が発覚。
吉田さんは躊躇せずにアイガー北壁登頂を諦め、婚約者であるきみこさんと結婚。
アイガー北壁登頂に挑戦した山仲間は、なんと登頂中の事故で全員亡くなったそうだ。

吉田さんが出合ったあの謎の生き物はなんだったのか、助けてくれたご夫婦は何者だったのか。
数々の山に登頂して、度々不思議な体験もしたが、吉田さんの登山歴の中で、この出来事が、一番不思議で不可解な出来事だったそうだ。


おわり

※不思議の館に投稿した話


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