見出し画像

それがなくても生きてはいける

私のことを忘れたあなたが
忘れたことを思い出しても
私を忘れたことは変わらない

忘れたくて忘れられたなら
思い出してもまたすぐ忘れて
それなら私も忘れ返せる

洗濯物を干そうとして
ベランダに出たら
匂いが濃く
やはり満開の桜だ
軒先まで咲いている
形状記憶の
白無地のワイシャツが三枚
バスタオル
肌着
あなたが見なかった
その時にはなかった新しい下着
それからベビー服

私からも母乳が出た
アイボリーを淡くしたような

思い出すことすら
忘れているなら
恐らく私は忘れられない

紅茶を入れました
コーヒーでお腹を壊す
夫のために
私の分と
一つのティーバッグで
小さいカップに二杯分
ありがとうと
いつも言ってくれる
優しい人です

はっきりと思いだせるのは
何が
引っかかっているからではない
特別もなく
通りすぎていったことばかり
手袋が落ちていたとか
階段をのぼってくるところとか
丁寧に字を書くとか
あの字でかかれた
一度
手紙が欲しかった

日曜の午後
一人午睡から目が覚めた
二人して平和に寝ている
うちの
男たち
ひとりはまだ
言葉を話し始めたばかり
笑うことを始めたばかり

思い出したり忘れたりの強い風
静かにあがってゆく雨でもなく
桜のように
花を散らせてから
葉を茂らせるまでに

これから
持ち物に一つ一つ名前を
書いてゆく
太くて
短い指と丸みを帯びた
文字
あなたが知りようもない
名前を
あなたが知りようもない人が

あの字でかかれた
手紙が欲しかったけれど

それがなくても生きてはいける

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?