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心は目に見えない。本当は心なんてないのかもしれない。心だと思っているのはすべて借り物、すなわち外界からの影響に過ぎず、その皮を一つ一つ剥いていったら、後には何も残らないのかもしれない。肉体は燃やせば遺骨が残るが、その中に心は見えない。

父親の骨を拾ったが、父親の肉体も精神もすべて燃えてしまったと思った。それらの遺灰は骨壺に収められ、葬儀のどさくさに紛れて、車のトランクに入れられそうになった。

心がないとそのような扱いすら甘んじて受けなければならない。生きている人間の中にある心というのはいったいどのような様態で、どのように生息し、どのように肉体を操作するのだろう。

逆に、肉体の動きから心が生成されて居るのかもしれない。心がうまく肉体に従えばすべてうまく行くのだろうか。うまく行くという状態も心によって司られているのか。

心は脳だと言われることがあるが、脳が心を締め付けるのだろうか。脳と心は独立してある物ではないと私はそう考えるのだが、脳と心は別だという立場の人が居るとして、その人と通わせるのは脳だろうか心だろうか。

通うに越したことはないかもしれないが別に通わなくても構わないのだ。心自体あるかどうかもわからないと疑ってかかっているくらいの方が脳が平和でいられそうだから。そして静かに、死ぬときにゼロになるよう心は失われていくのかもしれない。

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