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事件慣れ

事件慣れ

このような物言いは本当に不謹慎ではあるのだが、どこか、どんな事件が起ころうと事件慣れしてしまっている自分に不愉快になる。同情するとか共感するという感性が薄切れて来てしまい、何もかもが他人事になっているのかとも思う。

ということは当事者能力も衰えているので、何事か自分の身に降りかかってきたときの対処能力も落ちているに違いない。とっさの思考反射神経というか、切り返し能力も使わないと錆びる。そして朽ちる。

ここ一連の惨劇の被害者、多くは弱者だ。その弱者という規定もいろいろな考え方があるだろうが、生まれながらに能力的に優れ、一度黙読しただけで学習内容がすべてわかってしまうような知的強者もいれば、努力で能力を獲得しうる人、その他大勢の普通の人、何らかの理由により生まれながらにして常人のこなせることができず、どうしても社会になじめないそういった人も一定数存在するのが社会の現実的な構成だ。おそらく、それはいつの世も変わらないし、これからもそうに違いない。

そう考えたとき、自分のレベルで物を考え、自分の常識に上下を当てはめて考えることに何の意味があるのかと思う。手を差し伸べるなどと思い上がるおこがましさも理解しているし、かといってそのまま、悲惨な事件の被害者になっていいと言うことはない。

その思考の螺旋地獄に陥り、何もしないという状態に達している自分が不愉快かと言えばそうでもなく、それこそが一番の問題なのだとも気がついているが特に何も行動していないしする気も起きていない。

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