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「道徳」について


別に国粋主義者ではない、というか、何で道徳は右傾化と結びついているのだろう。戦前の「修身」を思わせるからだろうが、私は純粋に学校の教科として道徳が好きだった。というより、道徳の教科書に出てくる話が好きだ。

そこで主題になるのはたとえば公共心だったり、嘘について、職業の貴賤について、いじめについてなど。さまざまな事柄について投げかけてくる。この投げかけは答えを各自に考えさせるように尻切れで善悪の判断まで提示しない。つまり、事案を読ませ、それについて各自考えさせることで、道徳心を定着させるという手法が私の習った時代にはとられていた。

この「考えさせられる」という感覚が私は好きで、後は各自ご自由にご想像ください、と投げ出されるような小説、ノンフィクション、映画に惹かれる。道徳はそんなエピソードの宝庫だった。

国家に強制された為政者に都合のよい善悪を教育するという意味で道徳教育強化に反対の陣営があるのも知っているし、その論理もよくわかる。教育は恐ろしい。教えられたようにしか育たない。そういう意味では中立でいたいがどこを以て「中」とするか、それを設定することすら不可能に近い気がする。

話が大きくなるにつれ文章はまとまらなくなってくる。まあ、何事も強制されたくはない。と強引にまとめに入り「道徳」の心に残っているエピソードはまたの機会としたい。ただ、一ついえるのはみんなが月並みな意見を出す中、すこし違う角度でみんなと違うことを考えたいという私はへそ曲がりで天の邪鬼、それは幼少から一貫しているが、ここのところカウンターが居なくなり天の邪鬼が甘くなって来たのはいいのか悪いのか。

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