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秋川上流

秋川上流

夏になると水辺が恋しい。子供たちが小さい時分は秋川渓谷へ行った。いつだったか、行こうとしていた前日に大雨が降った時があり、電話で管理者に問い合わせたところ、来るのは来られるが、大水で遊ぶことは出来ないだろう、と返答された。と、ここまではいいが、そのあと、何でこんな大雨の後に来ようとしているのかわからない、と言われた。そちらは地元ですからわからない、と思うかもしれないが、こちらは年に一度しか行かない渓流のことなど、様子が分からないから聞いているのだ、と思った。これぞ認識の違い、という奴だろう。よけいな一言は別に言わなくてもいいのに。

その秋川の管理遊び場自体は何てことはない渓流の湾曲した部分で、ちょっとした岩から飛び込みが出来るようになったりしていて、浅瀬と深みの両方があるので泳げる子から幼児まで遊べるところだ。我が家はそこで少しばかり足を水に浸したあとに、必ず、その上流の、車が入れる限界のところまで行くのだった。

曲がりくねった山道のところどころそば屋や雑貨屋などが点在し、川沿いは杉林だったと思う。ここから花粉が降りそそぎ、花粉症の人を苦しめるのだろうか。杉としては単なる生命活動にすぎない。川は道に沿って続き、併走したり、遙か下方に流れたりする。釣り人が渓流魚を狙って竿を伸べている。しばらく登坂を続けて、土留めのコンクリートが山を覆った、アスファルトの道路がとぎれるところがある。そこが我が家の第二の目的地だった。

たいてい二三台路肩に車が止まっている。主は山中に分け入っているのだろうか。丁度、そのあたりは流れがいくつか段差になっていて、小さく滝の様に水の帯を引いている。その水が落ちる先は次の段差までの間、流れの緩い、浅い天然プールの様になっていて、そこで水遊びを私が楽しんだ。上流から流れてくる水はほんの細い水流なのに、少し下ってくるだけでなぜ水の帯ができあがるのか。何となく想像も付くが、膝上十センチぐらいの水深に下肢が青白く冷やされて冷たい、というほか何もかもどうでも良くなる。澄んだ水の中には川虫などがいて、夕方か、朝方か、蜻蛉として薄い羽を青明かりのなかでひらひらとはためかせるのだろう。そんな光景も見てみたいものの一つだ。足が冷えると全身が涼しい。山から注ぐ陽は光の線となり、樹木や水面をスポットで照らす。寒くなってきたらそこに足を当て、しばらく、一人で、気が済むまでその、四十坪ほどの水止まりに遊ぶのだった。

妻はその様子を呆れてみている。子を抱いて。夏の子供はあつい。何度かそんな夏を過ごしたが、そのうち、一度はにわかに大雨に見舞われ、八王子で足止めを食らった。古びた百貨店のような集合店舗の建物で雨宿りした。

秋川の夏を終わらせたのは子供が大きくなったからではない。その年も、例によって上流のどん詰まりに行った。そこには、去年までとすっかり変わってしまった水場があった。水こそ濁っていないものの川全体が土赤い色に染まっていた。石は苔ではなく赤く乾き、水の底まで赤銅色に変色していた。何がこの間あったのか知らないが、鉄錆の色だろうと思われた。とても足を着ける気になる風情ではなかった。壊された、と思った。あれからかなりの月日が経った。今度は子供たちがついてこない。妻は仕方なくつきあっていただけ。私だけだ。もう一度いってみてもいいかと思っているのは。もうしばらく月日が経てば、妻も少しは気が変わるだろうか。

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