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小さな親切

小さな親切

小学生の頃、小さな親切運動と言う物があり(いまも有ると思われる)何かしら人に親切にしましょうと言われた。わざと鉛筆を落として拾いあって「ありがとう」などと急場に親切を取り繕うガキどもの一人でもあった。

基本、ひとは親切だと思っている。差別心や悪意と同様に親切心も持ち合わせている。要は、割合の問題かと思う。

世の中には親切にされて当然だと何の根拠か思っている人もいる。今までに電車やその他で立席を強要されたことが何度か有る。

それとは逆に、親切を無にする、と言う人もいる。私はもうどちらかと言えば席を譲らなくてもいい年齢になっていると思うが、混んだ電車で席を譲ろうと立ち上がったら、横から若いのが座ろうと突進してきたのであわててとって返して席を奪還した。ずいぶんみっともないことをした。

私は人に席を譲るとき、黙って立つ。そして別の車両に移る。お互いに気まずいから。そして、譲られるのを潔しとしない人からの言葉に嫌な思いをしたくないから。

だからといって若い奴に譲るために席を立ったんじゃない。親切をしようとしてみっともなくなってしまった例だ。

親切はお節介に限りなく近い。親切をしていい人と思われたい。親切は勝手にするものだ。自分の心の中の快楽を報酬として。きれいな心から来たものでなくてもかまわないのが親切なり善行だと私は思っている。偽善などという小さな辛辣はべつに気にするに足らない。

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