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手浴

祖父が亡くなる直前、ちょうど年末年始の帰省と重なったこともあって、母と娘と私は毎日面会に行った。祖父がいる病室が状態の悪い人が入る部屋だということは、病院で働いている私でなくてもすぐにわかるような部屋だった。頻繁にアラームの鳴るモニター、気管切開の穴から送り込まれる酸素のシューシューという耳障りな音、いくつもの管に繋がれて、顔や首、肩も腕もパンパンに浮腫んで艶やかな皮膚をして、母が肩を揺すっても少しも目を開けることのない祖父の姿が、元気に畑仕事をしていた頃の祖父と同じであることが信じられなかった。強い薬で痛みを和らげ、ほとんど意識が戻らなくなった祖父に最初に触れるのに、正直に言って勇気が必要だった。

だからこそ、あの時祖父に触れて良かったと今になって思っている。浮腫んだ腕を軽く動かせば、意識はなくとも少しは心地よい気持ちになるかもしれない。声をかけながら肩を摩ることで、それが孫とは分からずとも誰か近しい存在が側に居ることがわかるのかもしれない。そんな風に思考を切り替えて祖父に触れてみると、それまで疼いていた怖れはいとも簡単になくなって、なんとなく安心したような、まだ生きている祖父に触れられたのは良いことだというような実感だけが残った。何より良かったと思えるのは、そういう私の姿を娘が真似てくれたことだった。

二度目にその部屋を訪れた日、ちょうど口腔ケアをしたタイミングだったこともあり祖父の目が開いていた。他意のないことは理解していたが、無理に口を開けられて弄られる行為は、意識のない祖父が目を開けて抗議してしまうほどの苦痛を伴うのだ。

看護師からの提案で、私達は手浴をすることになった。
伸ばされた手の下に防水シートを引き、洗面器にそっと浮腫んだ手を入れた。意識はないがチューブを自分で抜いてしまうため、普段からミトンをされているせいか祖父の手は固かった。そんな祖父の手にばしゃばしゃと湯をかけてさする娘を眺めながら、彼女の目に今の祖父の姿はどのように写っているのか、自分と同じ人間であると理解しているのか、そもそもそんな概念すらないのか、尋ねる術があれば知りたいと思っていた。
我が子ながら、娘は勇敢だった。看護師を真似て祖父の顔をティッシュで拭き(結果とし彼女はこれを大いに気に入り、仮通夜の日に祖父の亡骸に同じ行為を繰り返し私に何度も怒鳴られた)、ハンドクリームを塗り、最後は浮腫んだ耳たぶを触って「起きなさい!」と騒いでいた。娘が祖父の耳に触った時、僅かに口元が動き娘のいる方へ首を動かしたことを、仮通夜の夜に「おじいちゃんが最後に意識が戻った瞬間だった」と愛おしそうに母が話していた。

最期を前にして、私達はこんなにも無力だ。医者も看護師も家族も、時計の針を進めることも戻すことも許されない。いわんや理学療法士をや。ああこれが終末期か。この仕事について9年、恥ずかしいことに初めてその感覚を味わった。

それから2週間ほどして、祖父は亡くなった。

私が高校、大学へ進学する費用の一部を祖父が負担してくれていたことは以前から知っていた。私の両親が経済的に貧窮していた訳ではなく、祖父がそうしたいと申し出たからだと言う。運動はできないけど勉強はそこそこだった私を、祖父は出かける先々で自慢していたそうだ。そんな、祖父は最期の最期まで私に学びを与えてくれた。

祖父の状態が悪化するのとちょうど同じ時期に、国の終末期医療費の負担を減らすため、延命治療の在り方を見直すべきだと言う議論が様々な所で成されていた。延命治療のトリアージ、その是非について議論できるほど私は成熟した人間ではない。ただ、残された人の気持ちが穏やかであるよう、命が持つ意思に少しの思いやりがあったなら、延命治療は不幸ではないと思う。もしタグをつけるのだとしたら、それは命だけでなく残される気持ちにもつけるべきなのではないだろうか。

「苦しまずに楽に死なせてほしい」という気持ちは否定されるべきではなく、同じように「どんな状態でもいいから生きていたい、生きていてほしい」という気持ちも否定されるべきではない。理想論になってしまうが、全ての意思が肯定されることを願わずにはいられない。

私の中での正解は出せないし、これからも考えていかなくてはならない。ただ、そんな学びを最期まで与えてくれた祖父に、今は心から感謝したい。



読んでいただきありがとうございます。まだまだ修行中ですが、感想など教えていただけると嬉しいです。