「気持ち」に含まれるモノ

夢の中で、気持ちの話題について話していたら、「それは科学的でない」という横槍が入り、気持ちとは何か?という議論に入った。僕の主張は「気持ちのことを科学で証明しろというのは科学的なのか?」とうことなんだけど、相手は「科学以外は信じない」というだけの人だった。議論に向いた人ではないので、話は平行線だったんだけど。

で、気持ちには一体何が含まれるのだろう?

気持ちは感情とイコールか? ほぼほぼイコールだよね。気持ちは心とイコールか? これはイコールでないような気がする。何故なら、心ではそう思っても、気持ちがいう事をきかないとうことがあるから。もしくは、そういう表現があるから。
そうすると、心は人の内面の議論の場(つまり、そこで意見が一つだったり決定しているわけじゃないってこと)で、感情はその心の議論の場の意見の一つと考えられないだろうか。

その感情には、体の中の科学的な反応と、外的な影響への科学的な反応と、それぞれの意識的な反応があるように思う。
科学的な反応は、人の気分を変化させる脳内で活動する化学物質の反応。それは、五感からの刺激で生成されたり、消滅させられたりして、それが感情を作り出す。その五感が正しいこともあれば、誤動作したり暴走することもある。当然それは薬や食べ物に含まれる化学物質の影響も受けるわけだよね。
それから、外的な要因であるストレスも科学的な反応を引き起こすよね。暑いとか寒いとか、狭いとか、音や振動、匂い、感触といった五感が感知するストレスのほかに、人間関係など意識のストレスもあるね。これらは言い換えれば「不安」を脳が感じて、化学物質を生成して、心臓などの臓器や心、それから姿勢に反応を与えて、明確な感情を作り出すんじゃないかと思う。
だから、どれか一つでもコントロールすれば、明確な感情から逃れることができる。もしくは、軽減することができる。例えば、座禅は姿勢と呼吸の二つをコントロールして、感情を沈めるわけで、これは感情を生み出す化学物質との闘いなんじゃないかと思う。
これらの化学物質がどのような条件で出されるか、そのパターンを「本能」と呼ぶんじゃないだろうか。

そして、意識的な感情は、経験や知識などによる情報の判断といってもいいよね。本能と異なるのは、それらの情報が「他人のモノ」を多く含むということだよね。知識のほとんどは他人からもたらされる情報だ。それ以外は、自然環境の観察から得られるものなどがあるよね。
知識は他人からの情報だから、自分の場合に当てはまるとは限らないってことを理解していないと、考えているようで思考停止になっている場合があるよね。僕の夢に出てきた「科学じゃないと信じない」といい張る人がその典型と言える。特徴としては「答え」のステージでしか話をせず、思考の段階で会話ができないんだよね。・・・つまり、議論ができない。論語で「学ぶことは恐ろしいことだ」と言うのが、よくわかるし、聖徳太子の「和をもって尊しとなす」の意味もこれじゃないかと思う。

と、この説明は科学的かというと、決して科学的ではないんだよね。それは、科学的な実験結果を引用して説明しているわけではないからで、単に、論理的に整理できるように、連鎖的な選択を並べているだけなんだ。だから僕は科学的な人間とは言えないわけで、言ってみればこれは、気持ちを文字に置き換えたに過ぎないんだよね。
そう考えると、気持ちには言語は必要なくて、思考は言語が必要ってことなんだと思う。だから、気持ちを思考的に説明するには、連鎖的な言語化をして、それに噛み合わない・連鎖しない部分がないか? というのが、自分の気持ちが正しいかどうか確認する手段になり得るんじゃなかなって思う。
「正しい」って言うのは、もちろん僕自身にとってね、あなたの気持ちにとっての正しさが、あなたにとっての正しさであるのと同じで。


そんなことを、ちょっと考えていました。

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