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猫は字が読めないから

あさがやんずの「Son of A Gong」という曲、ざっくり言えば、子ども礼讃みたいな内容なんですが、その平歌の冒頭は「キミくん トモくん 俊輔 香織に貴子も」と5つの固有名詞の連発ではじまります。おかしな歌詞ですな。これを書いた当時、たまたま私が直近で顔を合わせた、親戚だったり友だちんちのお嬢さんだったり、ってな子どもたち。
キミくん・トモくんというのは当時五歳ぐらいだったお隣りさんちの兄弟です。一卵性双生児だそうだけれども、外見に似ていない要素はいくらもあったし、喋ってみると内面の違いを感じることも少なくなかった。同じ遺伝子で同じ環境で育っても差異は生じるものなのだなあと思ったものでした。それに、ぼくはお兄さん、ぼくは弟という関係性をそれぞれに認識してもいた。ふむ。
その頃のうちの庭からはみ出た梅の木はたくさんの実をつけたものだったんですが、そろそろいい感じに実ってきたわねえと思う頃合いになると、すかさず明け方になにものかがやってきてごっそり取っていってしまう、とおふくろがしばしば憤慨していましたよ。それはほぼほぼ毎年繰り返される光景だったわけ。ある年のこと、段ボールに「梅の実を取らないでね」とでかでかと書いて木にぶらさげることにして、もうこれで大丈夫よね、などと満足そうに独りごつ登美子さんでありました。しかしながら、多くの人が予想するように、それでも取っていく人は取っていくわけで、彼女の憤慨はおさまることがなかった。むしろ倍増したかもしれない。そこにやってきた双子くんたちが声を合わせて「猫が取っちゃったんだと思う。猫は字が読めないからわからなかったんだと思う」と言う、その邪気のない発想に「そうね。猫は字が読めないからしょうがないわよね」とおふくろの憤慨は半減、いや、雲散したようだった。疑いを押しつけられた猫のみなさんの名誉のために申し上げるが、猫たちは梅の実を取ったりはしない。ま、あたりまえことですが。

ここ数年、四十雀の仲間たちが言語でコミュニケイションを取ると話題になるようになった。私もいくつかの番組を拝見した。「この鳴き方は蛇が来ているぞ」という警告のメッセージなんです、などと気鋭の若い研究者氏が説明してくれて、なるほどなあ、そういうことかあ、などと感心した次第。小さい体、当然、小さい脳みその中を言語的な情報が飛び交うのか、すげえなあ、なんぞと。
気にかかったのは、どのように言語が世代を越えて伝わっているのか、ということだ。親が囀りコミュニケイションをするのを見聞きして雛が覚えていくのだろうか。だとしても、蛇を見たことがない雛に蛇が来たと伝えられるものだろうか、などともやもや。だってさ、ああ、いま巣の入り口から入ってきたにょろにょろしているやつが蛇ってものなんですね、この鳴き方はこのにょろにょろはやばいやつだぜ逃げろよって意味だったのか、うわぁ、って体験学習では手遅れなわけじゃん。ということは、蛇を見る前にどうにかしてその言葉を、意味するところを習得しているってこと? 謎だなあ、などと思った次第。
うちの近所の四十雀たちにもこの言葉は通じるのだろうか。録音して聞かせたら、慌てて逃げるのだろうか。いや、私の好奇心を満たすため平穏な彼ら彼女らの日常をにわざわざ騒がせるようなことはいたしませんけれども。

番組の中で、近くに暮らす他種の鳥たちが四十雀の囀りを、例えば、「蛇がくるぞ」のメッセージを覚えて危険を察知し、一緒に警戒したりするようになるっていう説明もあったけれども、これはね、言語の理解とは異なるのだろうな。シンプルに条件を学習した成果なのかな。

さて、お隣のキミくん・トモくんに話を戻そう。
彼らに関するエピソードでものすごく驚いたことがある。彼らは二歳になるぐらいまで、周囲の人間とは関係なく自分たちの間では自分たちだけの独自の言葉で会話をしていたそうなのだ。これをお母さんから聞いたときには本当にぶったまげた。それはどのような構造でどこからやってきたものなのか。彼らだけのオリジナルなのか。もしかして、ヒトは先天的に言語の原型を有している生き物なのか、などなどと。言語というもの、後天的に学習で身につけるものだとばかり思ってきたが、はてさて、ううむ。
双子というのは未知の世界だな、すげえと思いましたよ。テレパシーでっていうのならまだ納得しやすいような気もするけれど、自分たちだけの独自の言葉ってどういうことなんだろうね。いまだによくわからない。

お隣さんは社宅だったので彼らはわりとすぐに引っ越していってしまったので、その後、どこでどのように暮らしているのかは知るよしもない。どうしているかな。阿佐ヶ谷団地での生活なんぞ、すっかり忘れてしまっているかもしれんですなあ。

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