巨大な無はある日突然に

ビクリとするような玄関のチャイムの鋭い音が鳴ったので飛び起きたが、布団の上で少し躊躇する。それは当たり前で、心地よい眠りの快楽の霧中を曖昧に漂う愉しみの内に突然不快なベルの音を伴って何者かの闖入が発生すれば、機嫌は破損するし心拍数も破損する。しかし漠然とした焦燥感が渦巻き精神も破損する前にしぶしぶ玄関へ行き扉を少し開ける。寝相に自信があるので髪型は気にしなかった。

そこには巨大な無がいた。無は巨大でそこにいたので玄関の周囲は無になっていた。無が訪ねてきたのは初めてのことだったので、俺は挙動がウオウオになり、どもりがちに発話した。

「ご、ご用件は?」

「無です。ハウスをシェアさせてください」

俺は孤独な生活に耐えきれずツイッターで共同生活を呼びかけたことがあったのを思い出した。この無氏は我が愛しいフォロワーで、DMもアポもなくいきなり押しかけてきたことを除けば、善良そうに見える。生来の断れない性分もあり、曖昧なまま無と同棲を開始することになってしまった。

無氏は今年26歳で、カート・コバーンに憧れているらしい。その割には『Smells Like Teen Spirit』しか知らない上に、特にバンド経験もなかった。『愚か者のクラブ』に入りたいらしいので来年中にギターを習得して死ぬことを目標にしているようだ。無が死ぬとどうなるのかはわからないが、有になるのかもしれない。

無と二人(二人?)で鍋を作って食べたり、一緒に散歩したり、精神を溶かしたり、寝たり、在ったり、居たりしているうちに無はとうとう28歳になってしまった。『愚か者のクラブ』の入会資格を喪失してしまったので、無はぼんやりと言った。

「曖昧だったアイデンティティが曖昧じゃない無と化したのでちょっと有になってきます。今までありがとうございました」

別れを告げると、無は消えた。無は消えて有になった。そして何もなかった筈のちゃぶ台には見覚えのない一輪の青い花が載っていたので、その花は存在している。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?