MBS189高橋さん

「子供のシュタイナー学園入学に伴い藤野へ移住し、地域活性化の活動を推進」前編 アーキタイプ株式会社 代表取締役 高橋靖典さん

●ご挨拶と出演者紹介

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三木:本日もマインドフルビジネスストーリー始まりました。本日は神奈川県の藤野というエリアでアーキタイプ株式会社の高橋さんと共に新しい未来の都市、新しいコミュニティのあり方のお話を伺っていきたいと思います。今日はよろしくお願いします。

高橋:よろしくお願いします。


●enmonoとの出会いとzenschool殿町について

三木:実は高橋さんはzenschool殿町という、慶應大学医学部さんと慶應SDMさんと我々enmonoがコラボレーションした殿町バージョンのzenschoolに去年ご参加いただきまして、そのご縁で今日はお邪魔させていただいてるんです。

zenschool殿町に参加されたきっかけをお聞かせいただければと思います。

高橋:情報自体は幸福学の前野先生のタイムラインで拝見をして、直前の募集で「まだまだ枠がありますよ」みたいなアナウンスがあって。

あの時は10月でしたかね。手帳を見たらその日はたまたま空いてたっていうことと、禅とビジネスの発想を組み合わせてっていうところが面白そうだなっていうところと、ちょうど自分的にも興味があることを色々やって散らかってる部分も若干あったので、それを少し統合できる良い機会になるかなと思って参加させていただきました。

三木:参加されてどんな印象をお持ちになりましたか?

高橋:改めて私自身としても自分のベースにあるものはこれなんだみたいなものの気づきがあって、それは(zenschoolの)趣旨とされてるところと非常に近いんじゃないかなと思うので。

三木:高橋さんもすでにこちらの藤野のほうでシュタイナー学園の理事長もされていたりとか、色んな地域コミュニティ活動をされていたりとかして、もうすでに自分の内側を見る作業をたぶんやられているのかなと思っていたんですけど、それでもそこから何か発想を転換したりっていうのはあったんですか?

高橋:終わってみれば青い鳥みたいな話で、外にあるかなと思っていたものが自分の内側につながっているものを再発見できたというところはあったように思います。


●高橋さんの自己紹介

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三木:高橋さんの自己紹介をお願いできたらなと思うんですけど、元々生まれは東京でしたっけ?

高橋:生まれは静岡ですね。大学の時に東京に出てきて。

三木:何歳ぐらいまで東京にいらっしゃったんですか?

高橋:東京には30ぐらいまでですかね。

三木:その時はどんなお仕事を?

高橋:その時は何社か移ってるんですけども、最初はデジタルハリウッドっていうデジタル系統のベンチャーに大学生の時から出入りしていた関係でそのまま勤めるようになりました。

その後、当時の関連会社だったベンチャー系のコンピュータグラフィックスとかVRをやってる会社に移り、その後テレビ局系の関連会社に声をかけていただいて移動して、ずっと新規事業畑だったんですね。

三木:デジタルコンテンツっていうことですか?

高橋:デジタルコンテンツが多いですけど、デジタルコンテンツの新規事業の立ち上げとか、企画とか会社を作るとかそういうのがずっと多かったですね、私、実家が居酒屋で親父がまだやってるんですけど、元々勤めるという感覚よりかは何か自分でやりたいなと思っていていました。たまたま縁があって就職したこともあって10年ぐらいは働いてたんですけど、結婚して子供が産まれて、ぼちぼち踏み切らないと始められなくなるなっていうところで自分で何か始めようと思っていたのと、子供が産まれたのが時期的に重なってきていて、33の時に起業したんです。

三木:どういう内容の起業を?

高橋:今もやってますが、アーキタイプという会社ではビジネスのコンサルティングとか、色んな新規事業の立ち上げのプロセスをサポートしたりとか、あとはコミュニケーションのデザインというか色んな情報伝達の方法とか、そういったもののやり方を伝えたり実際作ったりというのを含めてやっている会社を渋谷でやっています。

三木:渋谷で会社を立ち上げたのは何年前ですか?

高橋:12年前ですね。

三木:ちょうどうちも今11年目なので結構近いですね。

高橋:近いですね。2008年ぐらいですね。当初は会社も渋谷にあって、その時は渋谷に住んでいたんですよね。代々木公園の横に住んでいたんですけど。最初に子供が産まれるときに、多少は自然の緑に触れるところがいいなと思って、会社は六本木だったので通えるぐらいの距離で代々木公園は緑も多いしと思ってたんです。ただ、週末に行くとすごく人が多くて。ベビーカーに乗っけて子供を連れて行ったんですけど、さすがにこれは人が多すぎるなと思って。これ、ちょっとどうかなと思っているうちに子供も2人目が産まれることになり、2人目の産まれた時に起業がつながるんです。ちょっと(子育ての)手数も足りないので奥さんの実家に少し居候させてもらい、そこでリスクヘッジもしながら会社を立ち上げようということで、妻の実家の川崎のほうに3年お世話になることにして会社も立ち上げてという形で始めたのが最初ですね。

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●藤野への引っ越しとシュタイナー学園誕生の経緯について

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三木:なぜ藤野に来られたんですか?

高橋:その引越し先の近くにたまたまシュタイナーの幼稚園があって、その前もシュタイナーっていう言葉は聞いてたんですけどね。私が最初聞いたのはある子供達が小学校に入ると行進ができないと。私が、小学校の時に行進が軍隊っぽい感じがして苦手で、それで何だろうと思って調べたら自由への教育をするということを知りました。若干精神性を説くような要素もあるんですけど、そういうところも私は興味がないわけじゃなかったので、その時はそういう学校があるんだなぐらいだったんです。引越しをしたら近くにあって、ちょっと体験に行かせてみようかって行かせてたんですね。そうすると子供の元々持ってる資質を伸ばすという考え方とか、実際に子供達に野菜を切らせたり手仕事をさせたり非常にあったかい雰囲気もあって、子供が幼稚園の中でもそんなにギーギー怒鳴ったりしないでちゃんと落ち着いて過ごしてるっていうところで、シュタイナーの園っていいなと思いました。実際にいざ上の子が小学校に行くという時に「どこかシュタイナーの小学校に行かせたいね」っていう話をしていて、いくつかNPOの学校があったり、これから立ち上がる小学校があったりしたんですけども、縁があってこの藤野にあるシュタイナー学園というところに行かせようと思って引っ越してきたというところです。

三木:引っ越すタイミングのお話を奥様から伺ったんですけど、最初はこちらのほうに家を探しに来たら色々出会いがあって。

高橋:今、藤野エリアマネジメントっていう社団法人を一緒にやっている中村賢一さんっていう方がいらっしゃって、結構早い段階で家探しに藤野に来た時に声をかけてもらって、「何をしに来てるの?」って言われて「シュタイナーの移住を考えて家を探してるんですよ」って話をしたらその場で「じゃあ手伝ってあげるよ」って言われてあっちこっち電話してくれて。結局回ってもらった家は時期が合わなかったんですけど、「もしも見つからなかったら家に住んだらいいよ。うちの2階空いてるから」って言われて、不思議なことを言う人だなと思ってたんですけども。

三木:その方はそういう移住のお仕事をされてる方?

高橋:仕事ではなく元々役場のお仕事をされていて、その時はあくまでも個人としてそういった地域活性のことをやってらっしゃるという、ビジネスというよりかは本当に想いでそういうことをしてくださっている地元の方です。

その後も、ここは藤野倶楽部っていう農業法人ですけども、ここの社長の桑原さんがいて、次に会った時に紹介いただいて、「もしも家を建てるならこの桑原が金を貸してやるからさ」っていう話をされたりとか。あとはトランジションタウン活動というのをやってらっしゃる同年代よりちょっと上ぐらいの方達も紹介いただいたりとか、結構早いタイミングで人のつながりを作っていただいた感じはありましたね。

三木:実際にその方からお金を借りたんですか?

高橋:いえ、借りてないです(笑)。でもご縁があって今はここの役員で農業法人のお手伝いをさせていただいたりとか、先ほどお話しした一般社団法人藤野エリアマネジメントで地域の活性化やクリエイターの拠点を作るようなお仕事を一緒にさせていただいたりしています。

三木:中村さんからシュタイナー学園を誘致したきっかけみたいなのを聞いて、7校の小学校が廃校になる時に何か学校を誘致しようっていうことで…

高橋:そうですね。学校は15年前なので、16~17年前に当時ここは旧藤野町という1つの行政区だったんです。その時はまだ1万人ぐらいいたと思うんですけども、人口減少していく中で当時は市町村合併を積極的にやっている時期があって、最終的には相模原市に合併になるんですけども、その前段階で小学校が町の中に10校あって先生のほうが多くて生徒が5~6人という感じでかなり規模が小さく支えきれないという状況があったそうです。

三木:10校もあったんですね。

高橋:結果、7つ空き校舎が出きるという中で、空き校舎の活用を町としては課題としてお持ちになっていた。その中で、当時NPO東京シュタイナーシューレというシュタイナー学園の前身のNPOがあって、生徒が増える中で自主的な運営に難しさもあったり、予算的な難しさもあったり、面積的に子供達が入る場所がなかったりという中で、廃校とか空きスペースを使って学校法人ができないかっていうことを考えてらっしゃったみたいで、そのマッチングが運よく合って、当時構造改革特区の制度があって規制緩和ができると。そこで、芸術教育特区ということでカリキュラムの柔軟化と併せて準備が始まりました。学校法人って基本的には校地・校舎と呼ばれる建物と土地を保有していることが本来の条件なんですけども、それを緩和させて相模原市からの賃貸でもOKという形で町の時代にできあがり、その後合併することになったので、現在は相模原市での学校となるんですが、それがシュタイナー学園誕生の経緯ですね。


●藤野のふるさと芸術村構想とトランジションタウン活動

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三木:町を変えていこうっていう動き自体も20年以上前からあるんですか?

高橋:30年ぐらい前にふるさと芸術村構想っていうのがあって、それは神奈川県が、県と町の事業として行ってたそうです。

県のほうが相模川の流域の12の市町村に対して色んな事業を「やったらどうだい?」と。バブル期の流れはあったんだと思うんですけども、ただ藤野に関しては相模湖がある関係で工場の誘致とかはできないと。「じゃあ芸術がいいんじゃない?」ということで当時町のほうでは「芸術って言われても、どうしたもんかな」っていうところから始まったみたいです。そこにも絵がありますけど、当時日本画家の藤田嗣治とか佐藤敬とか7人ぐらい著名な画家が戦時中に疎開をしていたっていう話があって、その時に「芸術村を作ろう」って構想がその画家達の間であったらしいんですね。そういう話もあるので、それも活用して芸術をPRしてやるのはどうかっていうのは30年ぐらい前から始まったそうです。

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三木:町を車で移動してるとよくオブジェみたいなのが目につきますよね。

高橋:そうですね。巨大な彫刻がありますけども、あれが当時作られたものですね。全体では何億とかけて、相模湖を横断するチューブを作ってみたりとか、彫刻を作ってみたりとかして町と芸術の結びつきを始めたのが30年ぐらい前です。

三木:そういうベースがあってそこにさらにシュタイナー学園が来てどんどん町が変わり始めたって(中村さんが)おっしゃってましたけど。

高橋:30年前の芸術村の活動があり、それを行政からの要請じゃなくて自分達でやりたいっていう人達もいらっしゃったりとか、八王子まで割と近いっていうこともあって八王子にある芸術系の大学の先生方とかでアトリエを持ってらっしゃる先生もいらっしゃったり、そんな活動を通じながら芸術の活動も盛んになり、パーマカルチャーという農業デザインの学校も26年前にできたりとか。

三木:パーマカルチャーがそんな前から藤野に?

高橋:そうですね。それもその芸術活動の一環の中で「パーマカルチャーをやりたい」っていう外国の方がいらっしゃって、その方は途中でいなくなっちゃったみたいなんですけども、その後を継いで設楽さんっていう方が今パーマカルチャーのデザインの学校をやってらっしゃいます。パーマカルチャーに興味があって移住してきた方もいらっしゃいますし、芸術で移住された方もいらっしゃいます。そこに15年前のシュタイナー学園の誕生によって、旧藤野町エリアで学校だけでも親子併せて400人ぐらいは移住者がいます。シュタイナー学園の父母であったり、パーマカルチャーとか芸術による移住者の方達の中からトランジションタウン活動っていう町を持続可能な町にする運動が始まったりとかして、色んなものを積み重ねながら色んな活動につながっているというのはあるかなと思います。

三木:すごい多重なコミュニティが共存してお互いにつながってる感じがしますよね。シュタイナーのコミュニティとかパーマカルチャーとか芸術とか。

高橋:元々この町の人達も甲州街道沿いで交流があったという部分もあったり、もっと古くからいくと武田と北条の争いの境界線だったりすることもあって、色んなものを受け入れる土壌みたいなものをお持ちなようです。変わったものを排除しないで、まずちょっと様子を見て受け入れてくださるところが元々あって、そういうのともうまく重なっていって今面白い町になったんじゃないかなっていう気がしています。


後編に続く


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