鼻歌交じりに未舗装路を歩く

<前回の話>

POLYSICSとの蜜月を大いに堪能してきた私は、気付けばもう30歳が見え始めていました。

とはいえ「音楽にどっぷり浸かりながらも、将来のこととか、多少は考えたりしているんでしょう?」と我ながら問いかけたくなりますが、な〜んにも、考えていません。当時の私に「キャリアプラン」なんて言葉を与えても「何それ?新しいバンドの名前??」という返事になるでしょう。

ただ、いろんなことにも飽きてきたことですし、何かしら動くことにしました。まずは、転職することに決めます。そして、精力的なライブ参加も、落ち着かせることにしました。

POLYSICSからメンバーが一人脱退することになり、その節目となる4人体制最後のライブが日本武道館で行われたのですが、それを一つの区切りとしました。この時点で、私はすでに一生分のライブへ行っていたと思うので、大いに満足です。これからは気が向いたときに、たまに行ければいいかなという感じです。

20代の燃え盛っている間に観たライブは、きちんと数えていませんが、おそらく200〜300といったところでしょうか。チケットや物販に費やしたトータル金額を計算すると死んでしまいますが、10代の半分以上を引きこもりとして過ごした私の「青春に対する怨念」のようなものは、20代のすべてを費やして成仏させることができたと思っています。

内面的な部分の「周回遅れ」については、気付けばクリアできていました。問題は社会的な部分ですが、これは現在も残る課題です。

当時の転職については、私は長らく単純な配送業務をやってきただけで、スキルも何もありませんでしたから、とりあえず職業訓練を受けることにしました。失業手当をもらいながら半年間学校へ通って、資格を取得します。

この学校は、絵に描いたような机や黒板に、毎時鳴るチャイムなど、不登校になって以来久しぶりに通う、とても学校らしい学校でした。そこへ通うこと自体は楽しく、私自身も気付かなかった「学校欲」めいたものが刺激される部分もありましたが、学んだ内容や手に入れた資格が今後も役立つものかといえば、それはまた別の話です。

結果的には職業訓練の成果で、初めて正規雇用の職へと就くこともできています。しかし、私が正規雇用の職に就いていたのは、この一瞬だけでした。学校へ行っているうちから薄々わかっていたことなのですが、学んできた業界における「とびっきりの暗黒性」を現場で確認出来たので、早々に見切りをつけました。はっきり言えば、命がいくつあっても足りない。労災で死ぬのは純粋に嫌です。

その後は、取得した資格とはまったく関係のない業界や会社を、ゆるい雇用形態で転々とします。

ある時は撮影スタジオで、男性モデルに次から次へと服を着せたり。またある時は、ギャルの画像の背中のシミを加工してきれいにしたり。

ほかにも、LINEスタンプの文言を考案したり、テレビ欄の原稿を書いたり、動画から文字起こしをしたり、企画書を作ったり、校正をしたり、いろんなデータをまとめたり、一日中なんとなく座っているだけだったり、それら一貫性のない「なんか、よくわからない仕事」を、フワフワと送る30代前半〜現在の日々へとつながっていきます。

「本当はこういうのを、大学生くらいでやっておくべきでは?」という気がするのですが、今、やっています。世間一般における尺度からすると、私の現状はお恥ずかしい限りではありますが、一方で、それなりに自由にはやれています。

学歴、職歴、スキル、最近ではそれらが伴っていない「年齢」という点でも、社会人の私は数多くの負債を抱えている状態です。それでも現在は、そこそこ生きやすい感じがある。少なくとも20年前、想像すること自体を拒絶するしかなかった「絶望の未来」よりは、はるかに晴れやかで自由です。

これまでは楽しいことがたくさんあったし、これからもあります。20年前の自分に「とりあえず大丈夫」と伝えられる根拠で良ければ、山のように持っています。

私が今まで通ってきた道のりを、このようにオープンな場で語ることができるだけでも、けっこう幸せな人生だなと、今では感じています。

<次の話>

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