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「国訴」-規制緩和に立ち上がった江戸後期の百姓達-

 ”国訴”と言っても、国を相手に訴えるという意味ではありません。中世の”国一揆”と同じく「一国(旧国)全体レベルで共同して行われた訴願」という意味です。
 又、江戸時代の”百姓”とは必ずしも農民を意味するものでなく、「農村に住む人」ということを意味します。従って、その中には農村で商工業を営む人たちも含まれます。訴願の主力となったのは富農とこうした人たちです。

1 田沼政治による株仲間の強化

 田沼意次は商業に着目して幕府財政の強化を図った。一部には、日本における資本主義の先駆者のように見る人もいます。個人的には、独占権を与える代わりに税金を課すことで王室財政の強化を図ったエリザベス1世と重なって見えます。
 英国王による独占付与は次のスチュアート朝にも引き継がれますが、ピューリタン革命につながっていくいわゆる「長期議会」によって否定され、結果として英国では自由市場が広範に成立することになります。
 田沼は様々な業種の株仲間を積極的に公認して、その見返りに冥加金・運上金を上納させました。その中には、かって、幕府が株仲間の結成を禁止した業種さえも含まれていました。又、株仲間による独占体制を機能させるために、様々な規制を課しました。

2 株仲間を支える幕府の規制

 ここでは、関西地方における菜種規制を例に取り上げます。
 明和3年(1766)幕府は、自家生産分以外の菜種を買い受けて燈油を生産することを禁じる法令を出しました。言い換えれば、大坂以外での産業的な燈油生産を禁じ、菜種はすべて大阪へ出荷せよというものでした。
 これは、この頃、勃興しつつあった灘地方の水車を利用した燈油生産を規制し、立地・技術双方で劣勢になっていた大坂の燈油株仲間(人力で絞っていた)の保護を図る意図がありました。
 この法令に対しては、規制の対象となった灘の燈油生産業者はもちろん、販売の自由を奪われた農民も抗議を行います。強い抗議にあった幕府は法令の一部撤回を行うことになり、株仲間加入を条件に灘の燈油生産業者は営業を認められ、農民も販売の自由をかなりの程度回復します。(菜種は燈油業者以外に肥料業者にも販売されていましたが、燈油業者以外への販売禁止は残りました。)
 寛政9年(1797)幕府は、菜種の統制を強化する法令を発布します。それは次の3つによって構成されていました。

・菜種を仲買や干鰯屋(肥料業者)に売ったり質入れすることを禁じ、燈油業者へのみ売ること
(肥料業者へ菜種を担保物件として差し出すことによって実質的に売買が行われることを禁止した)
・燈油は大阪油仲買から買い取って小売すること(地域の燈油製造業者との直取引の禁止)
・今後、年々菜種の作高・出来高・販売高・販売先を村ごとに報告すること

 結果として、燈油の流通経路は以下のように固定されることになりました。

・燈油生産業者(株仲間)による菜種の直買
  ↓
・生産した油の大阪油屋(株仲間)送り
  ↓
・販売元大阪油仲買(株仲間)からの油買入れ
  ↓
・村々での小売

 こうして、燈油の生産と流通における株仲間の独占力は飛躍的に高まりました。その結果、株仲間の不正に対する訴願が奉行所へ多く出されることになります。その概略は以下のとおりです。

・農民が菜種を取り入れて売ろうとする時期になると燈油業者が菜種を買いにこなくなって農民を困らせる。
・農民が肥料調達のために売り急ぐと安くしか買ってくれない。
・燈油業者は直買することに決められているのに、口銭を支払って目代や手先仲買などを使って菜種の買付けをやっている。

 明和3年では農民と協調して幕府への抗議を行った灘の燈油業者ですが、この時は農民を搾取する側に回っていたのです。

3 統制経済志向の江戸幕府

 こうして、あの手この手で統制を行う江戸幕府の意図はどこにあったのでしょうか。一つはもちろん冥加金・運上による税収増加ですが、もう一つは商工業全般を統制し、物価の安定を図る意図がありました。要するに、統制経済を志向していたのです。
 これは江戸幕府に伝統的なもので、例にあげた燈油は江戸時代の初期から株仲間の結成が強制され、幕府への価格報告が義務付けられています。享保の改革では、燈油を扱う業者はすべて株仲間へ加わることが強制され、地域での独占販売権が認められる代わりに、幕府による価格統制の担い手となりました。
 冒頭で述べた田沼政治もこの統制志向の延長線上にあるものです。このため、個人的には”資本主義の先駆”ではなく大塚史学で言う”前期資本”の担い手の一角という印象です。

4 文政6年(1823)の綿国訴

(参考資料の都合で木綿に関する国訴を取り上げます。なお、木綿製造は複雑な工程ですが、ここでは原料の”綿花”という表現に統一します)
 菜種ほどではありませんでしたが、綿花も統制の対象になっていました。大阪綿市問屋(株仲間)は大きな特権を持ち、摂津・河内(現大阪府と兵庫県東部)から綿花を買い取る権利を一手に握るだけでなく、港からの綿花の積み出しにもその権利を主張するなど、独占の度合いを強めていました。
 この独占体制は、菜種で見たように様々な弊害を農民層に及ぼしました。これに反対して摂津・河内の786ヵ村が幕府に訴願を行うことになります。
 最初、幕府はこの訴願の受理を拒否していましたが、参加する村が1007ヵ村まで広がったこともあり、ついに受理することになります。その結果、大坂綿市問屋もこの訴願に回答せざるを得なくなり、農民が綿花を他国商人に直売・直船積することを承諾することになります。言い換えれば、これまで築き上げてきた独占権を放棄させられたのです。

5 国訴の広がり

 綿国訴と時を同じくして、菜種についても摂津・河内1102ヵ村による国訴が行われています。要求の内容は、菜種の質入れ・干鰯屋売り、地元の燈油製造業者からの直買の許可です。
 幕府はいつものとおり定法にそむく訴願の取り下げを要求しますが、村々はこれに応じず、翌文政7年には1460ヵ村にまで規模が膨れ上がります。
 幕府もついにこれを正式に受理して、大阪の絞り油屋仲間・油仲買仲間(株仲間)へ回答するよう指示しています。株仲間からの回答は芳しいものではありませんでしたが、結局、村々は訴願を取り下げることになります。
 規制の本丸とも言うべき菜種ということで成功には至りませんでしたが、幕府に訴願を正式に受理させ、そのうえでの結末も却下ではなく取り下げという和解に近い形を引き出したのは、それなりに成果があったと言えると思います。

 こうした訴願は、規模の大小はあれど、その後も続けられていきます。規制の本筋に立ち入った内容でなければ、百姓達が勝訴した事例もあります。
 そして、天保の改革で、一旦、株仲間が廃止された後の嘉永4年(1851)、株仲間再興と規制強化が行われると、国訴は再び大規模化していくのです。