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中村十作は宮古島に何をもたらしたのか(人頭税異説)

 8月3日の事務事業評価発表会で、新潟減税会のザッキーさんが中村十作を中心とした宮古島の人頭税廃止運動について発表しました。しかし、学会では宮古島の人頭税について様々な異説が提出されています。
 その代表ともいえるのが来間泰男氏の「人頭税はなかった」という本です。関連論文も数本読んでみましたが、私は基本的に氏の説に賛同する立場になりました。中村十作に関係する部分について、その主張をまとめると概略以下の通りになると思います。
A 「人頭税」という言葉から直接連想できる「人頭税」はなかった=狭義の人頭税はなかったが、広義の人頭税はあった
B 宮古島の人頭税が過酷(過重)な税金であったかは疑わしい。
C 人頭税廃止運動は人道的な見地から行われた運動ではない。運動の主体となった階層が自らの利益のために行った運動である。

 以下、A~Cについて解説し、中村十作は何をしたのかを考えてみます。

1 琉球処分と旧慣温存策

 1879年(明治12年)の琉球処分によって沖縄県が設置されましたが、士族反乱への反省や対清関係など様々な要因から、本土で行われた諸改革が沖縄では実施されませんでした。旧来の支配関係や税制を当面そのままにしたこの統治方針を「旧慣温存策」と言います。詳しくはWikiへ

2 宮古島の人頭税の実態

(1) 人頭税の一般的な定義
 人頭税の一般的な定義は次のようになります。「人の所得や資産ではなく、人の存在や居住自体を課税単位として賦課する方式の租税を指す一般概念」とりあえず、人頭税と言うのは意味するところが大変広い税金だということを理解してください。
(2) 宮古島の人頭税
 宮古島の税制は1659年に故喜屋武親方により定められたもので、宮古島一体で定額の税(粟と布の現物納付)が課され、それを各村が割り勘で負担するものです。割り勘するにあたって、各村の人口が用いられたので、これを「定額人頭配賦」方式といいます。
 具体的には、各村を上・中・下の3段階に区分し、15歳から50歳までの各村人を年齢を基準に男女各上・中・下・下下の4段階に区分して、マトリクス状にした上で指数化し、各村毎の指数の合計値で割り勘するという精緻な方式がとられています。

 人頭税と言う言葉から一般に想像する”画一的で情け容赦ないもの”とは、かなり性格が違うことがわかります。又、課税単位はあくまで”村”であり、村人個人が納税義務を負っていたわけではありません。

3 宮古島の人頭税は過酷だったか

(1) 宮古島の人口推移
 現代以前の社会では人口の推移が一つの指標になります。税金だけを人口増減の要因と見るのは間違いですが、重税下では人口の再生産は困難になります。

 大津波や飢饉があった天明以降、人口の伸びがほぼ止まっているのを見ると、厳しい税率であったことは想像できますが、人口減少を招くほど過酷だったというわけではなさそう、というのが正直な感想です。
(2) 移出入統計からみる宮古島
 明治25年(人頭税廃止運動直前)の島外との貿易は以下のとおりです。
移出 21303円(粟7166,砂糖3941,牛2007,小麦1693,馬1256)
移入 17177円(雑貨4013,白綛2217,鍋1650,食塩1635,茶1267)
※ 詳細は参考論文1(P26-27)
 個人的に注目したいのは奢侈品が多く移入されている様子がないことです(洋酒49円くらい)。過酷に税を取り立てていたとしたら、その多くを那覇に送ったとしても、島の役人の懐は潤ったはずです。役人層(人口の2%強)は現物納付された粟や布を売却した代金を自らの生活向上には使わず貯蓄していて、それが黒字となったのでしょうか?
(3) 学者による租税率の推定
 細かい計算は参考論文1(P21-26)に譲りますが、2公8民又は1公9民と推定されています。これなら役人層も決して豊かな生活をしていたわけではなく、移入品に奢侈品が少ないのも納得できます。

 これらの数字を見ると、”過酷な税金が取り立てられていた”とは、なかなか断定できないなというのが感想です。ただし、このことは宮古島の人々の暮らしが豊かだったことを必ずしも示しません。その生産性の低さゆえに税率を低く抑えざるを得なかった≒貧しかった、という可能性があります。(個人的にはこちらを支持します。役人層が人口の2%に過ぎないというのはその証左だと思います。)

4 人頭税廃止運動は何のために行われたか

 来間氏の主張のように人頭税がその言葉から想像されるような情け容赦ないものではなく、過酷と言えるようなものでもなかったとしたら、廃止運動はなぜ行われたのでしょうか。
(1) 人頭税廃止運動に加わった人々
 参考論文1(P26)によると、廃止運動の中心となった人々は最低でも2.4ヘクタール、多い者では10ヘクタール以上の田畑を持つ豪農層だったことがわかります。
(2) 砂糖きび栽培に伴う軋轢
 移出品の第2位に砂糖がありますが、粟と比べると砂糖きびは抜群に生産性が高い(高値で売れた)作物でした。しかし、旧慣では宮古島は砂糖きび栽培禁止地域でした。明治21年(1881)この制限令は撤廃されましたが、旧慣を維持したい役人層はこのことに反発するとともに、農民も粟の現物納付をしなければならなかったので、砂糖きびへの転換は限定的なものにとどまっていました。参考論文2(P39-41)
(3) 請願の具体的な中身
 十作らが国会に提出した請願の内容をまとめると次の通りになります。
A 島政を改革して役員(役人)を減じ以て負担を軽減すること
B 人頭税を廃して地租となすこと
C 物品を以て納税するを廃して貨幣納を以て納税すること

5 人頭税廃止運動は「営業の自由」を求めての戦い

 これまで書いてきたことを総合すると、人頭税廃止はいわば口実で運動の真の目的は”砂糖きび栽培の自由化”だった、ということが推測できます。
 要求Aで旧慣廃止に反対する役人層の勢力に打撃を与え(実力による妨害を抑える)、要求B・Cで粟から砂糖きびへの無制限の転換を合法化する。土地を多く持っている豪農層ほど転換の利益は大きくなるので、運動を積極的に行うインセンティブが生じることになります。現代的な表現をすると”営業の自由”を求めての戦いです。
 宮古島の人々の苦しい生活を見た十作は、この状況を改善するには砂糖きび栽培を自由化して、島全体の収入を増やすしかないと確信したのではないでしょうか。もちろん、粟栽培や布製作に携わっていた労働力の一部が真珠養殖に向かうという十作の個人的な利益が関係していたことも間違いありません。しかし、それゆえに十作は運動への熱意を維持し得たのだと思います。
 制度改正で営業の自由を得た宮古島での砂糖産業はその後急速に発展していきます。そして、より高付加価値な産業への転換が可能となった宮古島経済は全体としても発展したはずです。
 十作が宮古島にもたらしたもの、それは”民間の自由な経済活動とより豊かな生活”だったと私は考えます。
 

参考論文1 分頭税(定額人頭配賦税)制度下の粟貢租 砂川
参考論文2 近代前期の宮古の世相 砂川
(運動の経過は参考論文2が詳しいです)