見出し画像

『綺麗な字の子、歪んだ字の子。』

 ねぇ、美山さん。……って。
 最初、淀川さんに声を掛けられた時、恥ずかしいですけど、『怖い』と思ってしまったんです。

 だって変じゃないですか。クラスの端っこで大人しく生きてきた私が、いつも友達に囲まれてる淀川さんに話しかけられる理由って、あります?
 無いですよね。
 だから、何か嫌な要件なんじゃないか、って思っちゃったんです。
「あのさ。……ちょっと、頼みたいことがあんだけど」
 けど、なんだか言い難そうに続けた淀川さんの言葉を聞いて、違うのかもしれない、と思いました。
 私から目を逸らして、普段より小さな声で尋ねてくる淀川さんの様子は、私に文句を言いたいとか、何か面倒ごとを押し付けたいとか、そんな雰囲気じゃなかったんですから。
 何ですか、って私は聞きました。出来るだけ、平然とした顔をして。
「今は……ちょっと。放課後は時間ある?」
 言いにくい用事。やっぱり何か面倒ごとなのかな。
 私は胸がざわつく思いでしたが、良いですよ、と答えることにしました。
 だって、放課後に用事なんて何にもないんですから。
 それでですね。私は放課後、図書室に本を返してから、教室に戻りました。
 淀川さんは辺りをきょろきょろしながら待っていて、私が戻ったのを見つけると、一瞬緊張したような面持ちで固まりました。
 変だな、と思いましたよ。挙動不審というか。
 それでやっぱり、また『怖い』って気持ちになりました。
 だって淀川さんは、いつも堂々としてるイメージがありましたから。
 先生に対しても、大きな態度で文句を言ったり。男子にからかわれると、低い声で言い返したり。
 私にはとても出来ないようなことを、色々出来る人だ、と思ってましたから。
「んでね。美山さん。頼みっつーのはさ……」
 何を言われるんだろう。
 クラスでも全然関係ない、友達でも何でもない私に、頼みって?
 口の中が乾く感覚がしました。じっと、淀川さんの目を見ていました。
 すると淀川さんは、とうとう私とは目を合わせず、一言、言いました。

「ラブレター、書いてくんね?」

 ……頭が真っ白になりました。
 ラブレター? 書く? 私が? 誰に? なんで?
 けど言葉が上手く出てこないで、えっと、と私は口ごもってしまいました。
「そりゃ困るよね。いや急にアタシも恥ずかしい事頼んでんなって思うんだけどさ。……ほらあたし、字ぃ汚いからさ?」
 知らないよ、と思いましたが、言えませんでした。
 けどそれで、事情は伝わりました。
 淀川さんは好きな人に手紙を贈りたい。けれど自分の字が汚いから、他の人に代筆してもらいたいと、そういうわけらしいのです。
 でも、どうして私なんでしょう。
「学級日誌。前に美山さんの書いたヤツ見てさ、字ぃきれーだなーって思ってたんだよね」
 だからだ、と淀川さんは答えました。
 ……そうです。自慢じゃありませんけど、私は字が丁寧な方だと、よく言われてきました。
 小さい頃に、母に厳しく教えられたからでしょうか。字はその人間の本質を表すものだから、綺麗に書きなさい、と。
 そこでようやく、私の心から『怖い』という気持ちは無くなりました。
 目の前の淀川さんが、何を考えているかよく分からない他人じゃなくて、もっと近しい隣人のように感じました。
 おかしな話ですね。頼みごとをされたというだけで、私と淀川さんは友達でも何でもないのに。

 そして私は……申し訳ないけど、とその頼みを断りました。

 いくら字が下手だと言っても、好きな人に気持ちを伝えたいというのなら、それは自分の手で書くべきだ……と思ったからです。
 きっとそれは、おかしな感情ではないハズです。だって淀川さんも、それを聞いて「そっかぁ」と頷いてくれたから。
「だったらしゃーないかぁ……」
 肩を落とす淀川さんは、いつもより小さく見えて。
 嫌な話ですが、『勿体無いことをしたな』と感じたのを覚えています。
 一瞬だけでも、私は淀川さんの上に立てたのではないか、って。そのチャンスを逃してしまったのではないか、って。
 でも、代筆ではいけないと思ったのは本当ですから。
 それで、この話は終わるはずでした。淀川さんの頼みは断られて、それから接点の無くなった私たちは、最低限の事務的会話だけを数言交わして、連絡先も知らずに学校を卒業していく。
 ええ、その時はそうなると、思っていたんです。

「じゃあさ、美山さん。あたしに字ぃ教えてくんね?」

 その言葉を、聞くまでは。

***

 それから放課後には、淀川さんの字の指導をすることになりました。
 といっても、私がすることなんて殆どありません。
 ただお手本を元に字を書く淀川さんに、ここはもっと詰めた方が良い、ここの角度が曲がっている、と口を出すだけです。

 やる気があるなら、何か専門のテキストをやるのが良いんじゃないでしょうか。
 そう聞いてみた事もありますが、淀川さんの答えはこうでした。

「一人でやってっとつまんないじゃん」

 だからといって、友達でもない私と放課後顔を突き合わせても、面白くはないんじゃないでしょうか。
 そう思ったのですが、淀川さんはなんだか、満足そうな顔をしていました。
 字が上手くなっていくのが嬉しいのでしょうか。それとも……。
 確認する勇気が、その時の私にはありませんでしたけど。

 さておき。
 淀川さんの字は、それはもう酷いものでした。

 ミミズののたくったような字、というのはああいうモノのことを言うのでしょうか。形は歪んでいるし、繋がらないはずの線が繋がっているし、時としては謎の省略をされていて、元の形が分からない。
 どうしてそんな字を書くのですか、と私は尋ねました。
 昔から、字を綺麗に書こうと努めていた私ですから。淀川さんの字が汚いことが、不思議に思えたのです。
「なーんかさ。……手が、おっつかないんだよね」
 淀川さんはそう答えました。
 書きたい事に、手が追い付かない。だから指先ばかり走って、気付けばあんな字になっているのだ、と言います。
 分かるような、分からないような気持ちでした。
 私はそれほど、何かに迫られて字を書いた覚えが、無いのです。
「んでさ。字が汚いーっていろんな人に怒られた」
 当然でしょう。読むのにさえ苦労する字を見せられれば、誰だって苦言の一つくらい口にしたくなるものです。
 それが小さい頃から何度も何度もあった……と、淀川さんは言います。
「汚いから書き直せ、とかね。一生懸命考えて書いても、それが伝わらないまま、ダメだって言われて。焦って、ゆっくり書こうとするんだけど……綺麗な字書こうとすっとさ、力籠っちゃうんだよね」
 だから疲れるんだ、と淀川さんは言いました。
 力なんて必要ないのに。と私は思いましたが、先走る指先を抑えるには、それくらいの力が求められるのかもしれません。
「そんで……嫌になった」
 字を綺麗に書くのが。
 いやいっそ、字を書くのが。
 嫌になった。面倒になった。疲れるし、怒られるし。
 それで勉強もあんまり手に付かなくなったなぁー、と淀川さんは笑いました。
「勉強ってさ、字ぃ書くじゃん。字なんか書いたらさ、汚いのが目に入るじゃん」
 淀川さんの気持ちは、私にはよく分かりませんでした。
 だって、私は字を書く事が嫌だと思ったことがありませんから。
 勉強するのだって、学生であるなら当然の事です。それをしないで平気な淀川さんが、私には全然違う人種に見えました。
 でも、だったら。
 どうして手紙なんて書く気になったんです、と私は尋ねました。
 いえ、最初は書く気が無かったみたいですけど。
 私に断られてもなお、手紙にこだわる理由が、知りたかった。
「……先輩の前だと、ふざけちゃうんだよね」
 手を止めて、淀川さんは小さな声で答えました。
 普段は大きな声で喋る彼女も、好きな先輩の話となると、いつもこうです。
 彼女のそんな様子が可愛らしいと、私は感じていました。
「一緒にいんのが楽しくて、つい楽しい方に話しちゃうからさ。……そっから真面目な雰囲気にって、なんかヤバいじゃん」
 ヤバい、の意味は分かりませんでしたけど。
 要は、面と向かって言うのが難しいから、だというのです。
「でもま、LINEとかでやんのも違うじゃん?」
 顔を合わせる事は出来ない。電子のやり取りでは味気ない。
 だから手紙、なのだそうです。
 驚きました。理由が、思っていたより可愛らしいので。

 そして、手紙を出すなら、ちゃんと綺麗な字にしたい。
 だからこそこうして字の練習をしているのだと、淀川さんは改めて言いました。

「美山さんの字が、あたしの目標だかんね!」

 はっきりとそう言われて、悪い気はしませんでした。
 ……いいえ、違いますね。悪い気はしない、どころじゃない。

 私はその時、優越感を覚えていたのです。
 クラスの中で、何となく自分より格上なのだと思っていた淀川さんが、字の上手い下手というただ一点だけを理由に、私の下についている。

 放課後のこの時間は、すぐに私の楽しみになりました。
 教室内では怖いモノ知らずのような顔をしている淀川さんが、私の言うことを素直に聞いて、字の練習に励んでいる。

 もしかして、先生というのはみんなこんな気持ちなのかな、と感じました。
 俯いて紙に向かう相手のつむじを見下して。

 けれど、そんな甘い時間は、長く続きませんでした。

 思えば、当然のことです。
 淀川さんの字が、みるみる綺麗になっていったのですから。

「あたし、そろそろ先輩に手紙出してみようかな」

 その言葉を。
 聞きたくなかった、と……思ってしまいました。

***

 先輩に、手紙を出す。
 それはつまり、字の練習が終わりを告げるということです。

 私は内心必死になって止めました。
 まだこの字が汚い。歪んでいる。こんなんじゃ雑な子だと思われる。
 平然とした顔をして、残酷に相手の字を否定していきました。
 それから優しい声で、大丈夫ですよ、と語りかけました。
 私と一緒に練習すれば、もっと上手くなります。
 だからそれまで、我慢しましょう。そうしましょう。

 今にして思えば、なんて浅ましい真似をしてしまったのでしょう。
 字が綺麗になったなら、それを一緒に喜べば良かったのに。

 淀川さんはそれからも、私と字の練習をしてくれました。
 彼女の字は、最初のそれとは似ても似つかない、整った字になっていきました。

「最近さ、ちょい自信付いて来たんだよね」

 ある時、彼女はそう言って、日本史のノートを見せてくれました。
 最初の数ページは、かつての歪んだ字で殴り書きされていただけのノート。
 けれどページをめくる毎に、字は本来の姿を取り戻し、板書は正確になり……やがてはマーカーや簡単な絵によって、注釈さえ付け加えられるようになっているではないですか。
「美山さんのおかげでさ、字ぃ綺麗になったじゃん? それが嬉しくてさ」
 綺麗な字を見るのが楽しいから、ノートを取るようになった。
 すると今度はそこに工夫を施したくなってきた……ということらしいです。

 その成果は、次のテストですぐに現れました。
 それまで成績の下位をさまよっていた彼女は、一気に上の下くらいまで点数を上げてきたのです。
 流石に英語や数学はそうもいきませんでしたが、それらも、以前の成績と比べればずっと良いものになっていました。
 それは全て私のおかげだ、と淀川さんは言うのです。
 あんがとね、と嬉し気に語る彼女に、私はそんなことないよと謙遜しながら、内心鼻の高い思いでした。
 ……けれど同時に。焦りも覚えていました。

 私が誇れることと言えば、人一倍勤勉な事だけ。
 字の綺麗さもそこに含まれています。
 その他のこと……身体能力であるだとか、交友関係であるだとかについては、てんでダメでした。
 だからこそ、それらの能力を持つ淀川さんを、私は格上だと認識をしていたのです。

 そんな中で。
 唯一彼女より上であった字の綺麗さを。成績を。教師からの評価を。
 淀川さんは、手に入れ始めている。

 どうしよう、と思いました。
 このままでは、用済みになるどころではない。
 今この関係が無くなってしまえば、私は淀川さんに対して、何一つ勝てはしないのではないか。
 自分が、無価値な石ころみたいな存在になってしまうのではないか。

 ……やはり、この関係は出来るだけ続けないといけない。
 私は以前にも増して思うようになりました。

 でも淀川さんは、違いました。
 既に気付いていたのでしょう。字が上達していることに。
 放課後の時間はぽつ、ぽつと少なくなっていきました。
 用事があるから。トモダチと遊ぶから。ごめんね、と言って、断られるようになりました。
 なんなら美山さんも来る、と聞かれましたけど、私は首を振りました。
 彼女の友人たちと私は、きっと話が合わないだろうから。
 そして一人で家路に着きながら、思うのです。
 あぁ、もう、ダメかもしれない。

 そんな折に、彼女はもう一度宣言しました。

「もう、ラブレター出すね」

 それは相談ではなく、決定でした。
 自分の気持ちに早くケリをつけたいのだと。
 先輩が忙しくなってしまう前に、はっきりさせたいのだと。
「まだ字はちょっと不安だけどさ。少しくらい歪んでた方が、あたしらしいのかなって思うし。……大事なのは、気持ちだよねって」
 そんな正論をはっきりと言われて、私はもう引き留めることは出来ませんでした。
 頑張ってね、と、思ってもいないのに口にして。
 いつ出すの、と私は尋ねました。

 聞いた時は、特に何も考えていなかったのです。
 ただ家に帰って、ベッドの中で、淀川さんの事を思い浮かべる内に、ある計画が、私の中に立ち上がって来たのです。

 そうだ。
 手紙を、盗もう。

***

 考えてから、実行するのは簡単でした。
 ただいつも通り早起きして、先輩とやらの下駄箱に淀川さんが入れた手紙を、ひょいと抜いてしまえば良いだけでしたから。

 これで手紙は届きません。
 淀川さんの想いは伝わりません。
 ほとぼりが冷めた頃、私は気を遣った風に彼女の様子を聞いて、返事のもらえない彼女に、字が汚いから断られたのかもしれない、と神妙な顔で言えば良いのです。

 なんて完璧な計画でしょう。
 そうすれば淀川さんは、また私に師事して字の練習をしてくれるはずです。
 私はその手紙を鞄にしまい込み、安心した気持ちで放課後を迎えました。
 当然、その日は練習なんてしないわけですから、私は家に真っ直ぐ帰ります。
 そして、手紙なんて捨ててしまえば良かったのに……つい、開いてしまいました。

 ……美しい字でした。

 一文字一文字に気持ちを込めて書いたのでしょう。
 時々震え、ペンの滲み方が変わり、またすっと整い始める。
 字は人の本質を表す、と母が言っていましたが、その通りだと感じました。
 手紙からは、何故でしょう。そんな言葉は一言も書いてはいないのに、淀川さんがどんな風に机に向って、どんな風に文字を紡いでいったか……そんな情景が、ありありと浮かんでくるのです。
 自然と、私は自分の行いを恥じました。
 その時になってようやく、自分がしたことの罪深さを思い知りました。
 私はこの手紙に籠められた淀川さんの想いを、踏みにじったのだ。
 ただ、自分が認められた存在でありたい一心に。
 浅ましい。愚かしい。なんて、醜い。
 胸が張り裂ける想いがいたしました。胃の中に鉛を流し込まれるような心地がいたしました。
 自分がこんなに、酷い人間だとは、思っていなかった。
 私は、その日まで、自分が善良な人間であると信じて疑わなかったのです。
 多少凡庸であろうが、その心根は善良であり、真面目であり、他人に非難されうるものではない、と。
 どうして、そう思えていたのでしょうか?
 私はただその日まで、愚かな真似をする機会がなかっただけだったのです。
 ただ縮こまって生きていたから、結果として善良という皮を被れていたに過ぎないのです。
 その事実が、私を苦しめました。
 善良であれと。真面目であれと。人に迷惑を掛けない存在であれと。
 父や母から、厳しく教えられていた私ですから。
 その瞬間に、私は自分が無価値どころか、この世にあってはならないものなのだという気持ちになりました。
 ……大げさ、ではないと思います。何物をも生み出さず、ただ他者に迷惑をかけるだけの存在であれば、それは不要のものであると、私は考えていますから。

 だから、なのでしょう。
 私はそこで、もう一度道を間違えました。
 このことを、誰にも気づかれてはならない、と思ったのです。

 気付かれれば最後、私という人間は社会において、迫害されるべき悪となってしまう。それは避けようのない事で……自分の身を護るためには、手紙の事は黙っていなければならない。
 私は、震える手で手紙を引き裂きました。
 何度も、何度も、文字の一つさえ残すまいという思いで、色のついた可愛らしい便箋を破り捨てました。
 小さな山になった紙くずをゴミ箱に注いで、袋を縛りました。

 私は、自分の罪に向き合う勇気さえ持ってはいなかったのです。
 勇気を持って先輩に気持ちを伝えようとした淀川さんとは、まるで違う。
 何の取り柄もなく、歪んだ性根を持ち、あろうことか他者へ害を齎す。
 そんな私に、唯一残されているモノがありました。

 ……文字です。

 私はまだ、淀川さんより字が綺麗でした。
 それだけが、私の最後の希望でした。
 彼女よりも字が綺麗な間は、まだ私にも、幾ばくかの価値はあるのではないか。
 そんな幻想に、私は憑りつかれました。
 私はすぐにでも字の練習を始めました。テキストを買い込み、誰にも気づかれぬよう、ただひたすら、字を書く事に打ち込んでいきました。
 より正確に。歪みの無い、美しい文字を。
 僅かなズレさえも、今の私には、赦されない。

「ねぇ、今日は暇?」

 ある日の休み時間、淀川さんに尋ねられました。
 もしかして、字の練習の誘いだろうか。期待したけれど、違いました。ただ遊びに行くのだと淀川さんは答えました。
 そんな暇は、ありません。私は字の練習をしなければならないのですから。
 そうでなければ、この世に存在してはならなくなってしまうのですから。
 断った時の淀川さんの顔は、あまり覚えていません。
 直視することが、出来なかったからかもしれません。

 それから、しばらく経ち。
 日も経ち、いい加減淀川さんの中で決着もついたであろうと感じたわたしは、尋ねました。
 あの先輩とは、どうなったの、と。
 手紙が行かなければ、想いが伝わっている筈もありません。
 私はそれを淀川さんの字の所為にして、再び字を教える立場に就こう。
 私の価値を証明するには、それしか……。

「あぁ、うん。早く言おうと思ってたんだけどさ……」

 けれど。
 淀川さんの反応は、私の予想と違うモノでした。
 どこか恥ずかし気に身をよじらせる彼女の顔は、体温が上がったのでしょうか、ほんのりと赤くなっていて。

「付き合うことになったんだ」

 ……何度でも。何度でも、です。
 淀川さんは……私の思いもしないことを、告げるのでした。

***

 淀川さんは。
 手紙が届かなかったことを、知っていました。
 数日経って、あまりにも先輩の様子に変わりがなかったから。
 自分から、切り出したそうだ。あの手紙は、読んでくれたんですか、と。
 ……ああ、考えてみれば当然だ。何にも反応が無ければ、確かめようとするだろう。どうしてそんな簡単なことにさえ、頭が回らなかったのだろう。

 そして。手紙の内容を尋ねる先輩に、淀川さんは思い切って想いを告げた。
 電子でもなく、誰かの筆でなく、自分の口から。

 途方もない勇気が必要だったのでしょう。
 きっと、先輩の顔をまともに見ることも出来なくなったに違いありません。
 けれど淀川さんはそれを、乗り越えて。

「したらさ。先輩もあたしの事、ホントは前から気になってたみたいで……」

 付き合うことになった。
 あまりにもすんなりと。当然のように。二人は結ばれた。
 喜ぶべき、だったのでしょう。
 私は、彼女の想いを先輩へと届ける為に力を貸していた身ですから。
 だというのに、私はそれを、受け止められなかった。
 だって淀川さんが結ばれてしまったら。もう字を練習する必要が無くなったら。
 一体私は、どうやって自分の価値を見出したらいいのでしょう?

 先輩って、本当に良い人なんですか。

 私は口にしました。
 淀川さんと、目を合わせる事は出来ませんでした。
 なんで。と淀川さんは不思議そうに、けれど確実にざらついた口調で、聞き返してました。

 だって。前から気になっていたなんて。前々から淀川さんを汚い気持ちで見ていたという事でしょう。だのに、淀川さんに気持ちを伝えることもしなかったような、腰の引けた人なのでしょう。
 第一、男の人というのは。特に同じ年頃の男子というものは。あまり、綺麗なモノではないではないですか。不純な心の持ち主だそうじゃないですか。
 見た目がどうあれ。貴方の気持ちがどうあれ。一度冷静になって、見つめなおしてみる必要があるのではないですか。

 必死に、食い下がりました。
 けれど言い募るごとに、淀川さんの表情は厳しく、険しく変化していきます。
「そんなことないよ。先輩はすっごく良い人だって。凄く優しい人だし、それに……手紙の事話したらさ……」
 淀川さんは少し言いよどんでから。

「字が汚いくらい気にしない、って言ってくれたんだよ」

 そう、続けました。

 字が汚いくらい。
 気にしない。

 いくら歪な字を書こうが、淀川さんの価値は下がらない?
 だったら、私は? ただ字が綺麗なだけの、私の価値は?

 別れましょう。私は強く、言いました。
 私が。淀川さんと過ごし、字の練習を重ねてきたあの時間。
 それを先輩は無下にしたのです、と叫びました。
 いえ。叫び声になってはいなかったでしょうか。声がかすれて、あまり大きな声量にはならなかったと思います。でも、叫びました。
「なんで、そんなこと言うの……」
 淀川さんはショックを受けたようですが。
 もうそんなことで、私の気持ちは止まりませんでした。
「美山さんなら喜んでくれるって思ってたのに!」
 その一言には、怯みましたが。
 それでも。だとしても。何を言われても。
 私の最後の価値を。
 淀川さんと過ごした時間を。
 何処の馬の骨とも知らぬ男に、否定されてはならない、と。
 私は思いつく限りの言葉で、淀川さんを止めました。

 きっと相手は遊びだ。先輩だし、卒業したら自然と別れることになる。
 もっと広い視野を持つべきだ。この先になればもっといい人と出会える。
 第一、前から気になっていた?
 なら最初に淀川さんに声を掛けたのだって。一人で校内を迷う貴方に優しくしたのだって。ただ可愛い後輩を狙っていただけかもしれないじゃないですか!

「……待って」

 ハッとした顔の淀川さんを見て。
 しまった、と私は思い至りました。

「どうして美山さんが、その事を知っているの?」

 淀川さんと先輩が、初めて会った日の事。
 私が知っている筈はなかったのです。淀川さんはそれを口にしてはいないのだから。なら、何故私が知っているか?

 手紙に書いてあったからです。

「もしかして、手紙が届かなかったのって……」

 全身の血が引きました。
 さっきまで全身を覆っていた熱が、全て無くなってしまうようでした。
 失敗した。私はそれを誤魔化すことが出来ません。
 押し黙った私を見て、淀川さんは理解したのでしょう。
 私の悪行を。浅ましい裏切りを。
 そして涙を浮かべて。一言、絞り出すように。

「……最低」

 ただ、それだけを告げて。

 淀川さんは、去って行きました。

 もはや私に、彼女を繋ぎとめる力なんてありません。
 ただ字が綺麗なだけの私には。何も出来ません。
 私は淀川さんを失ったのです。
 そしてその時、初めて一つの感情が胸に湧きました。

 ――寂しい、と。

 ああ、私は。
 自分の価値がどうだという気持ちに惑わされて。
 一つの事を、見失っていたのです。
 私は、淀川さんと一緒にいて、あんなに楽しかったのに。

 謝ろう。
 口では謝れなくても、せめて手紙を書いて謝ろう。
 赦されなくても、己の罪を認めて、全てを淀川さんに委ねるのだ。

 私は息を切らせながら自らの机に向かい。
 紙を前に、ペンを取り。
 一文字を書いて、思ったのです。

 なんて歪んだ字だろう、と。

 こんな字で。この程度の字で。私は淀川さんに謝れるのか。
 何の感情も感じない字。醜く、気持ちの悪い字。
 私の眼球の中で、字は見る間に意味を失い、溶解していく。
 吐き気がしました。汚い字。歪んだ字。恥ずかしい字。
 書けない。もはや一文字も書く事が出来ない。

 それは、私が私自身に課した罰なのでしょう。
 私はどうしてか、自分の文字が酷く醜いものに見えるようになってしまったのです。

 それから私は、ただの一文字も字を書けずにいます。

 ……。えぇ。ここまでが。



***



 美山朝子は、小さく息を吸う。
 わたしはメモする手を止めて、じっと彼女の瞳を見つめた。
 目は、やはり合わせてくれない。長い話の中で、ただの一度もだ。

「ここまでが。……あの日、私の感じた全てのことです。
 ……でも、どうしてそんなことを聞くのですか……淀川、杏さん」



***



 美山朝子が、字を書けなくなった。

 それを知った時、あたしはとってもびっくりした。
 学校を卒業した後のことだ。友達から、不意にそんな噂を耳にしたのだ。

 あたしと美山さんは、あの日以来、疎遠になっていた。
 学校で会っても話をせず、目も合わせず、互いを避けて生きていた。
 あたしは彼女に怒っていたし、彼女はあたしに、何も言えないようだったから。
 きっかけがないまま学年が上がり、クラスが変わって。
 そしていつの間にか、美山さんの事が頭から消えて。
 卒業した後になって、知った。

 あの美山さんが。
 綺麗な字を書く美山さんが。
 字を書けなくなった。だとしたら理由はきっと……あたしにある。

 どうしようと後悔する気持ち。当たり前だ、と冷淡に思う気持ち。
 二つがあたしの中で入り混じって、どうにももやもやしてしまった。
 悪いのはあたしじゃなくて美山さんだ。
 だけどあたしは。あんな風に突き放してそれきりで、良かったのか。
 考える日々が続いて。結局、美山さんが悪いじゃないかと思って。

 それでも、会いに行った。

 美山さんは家に籠りがちになっているみたいで、美山さんのお母さんは、あたしが来たことに凄くびっくりしていた。
「朝子が友達を呼んだ事なんてないから」
 そうだろうな、って思う。
 美山さんはいつも一人だったから。友達がいるようには、見えなかったから。
 でも。だったら。あたしはなんだ?
 美山さんの部屋の戸の前で、あたしは一瞬悩んで、このまま引き返したいと思う気持ちが胃を重たくして。
 それを押しのけて、戸を開いた。

 初めて見る美山さんの部屋には、一切の文字が無かった。
 想像していた彼女の部屋とは、雰囲気が違った。
 そしてその部屋の端っこに、美山さんはぼんやりと座っていた。

「……どうして、来たのですか」

 蚊の鳴くような声。
 あの頃の、優しく染みるような声じゃない。喋るのが精一杯だ、って感じの声。
「聞きに来たの」
「何を……」
「あの日。美山さんが、何を考えてあんなことをしたのか、全部」

 美山さんは一瞬泣きそうな顔をして。
 唇をわなわなと震わせてから……こくり、と頷いた。
 それから彼女はベッドに座りなおして、背筋を正し、けれどあたしとは一切目を合わせないままで、語り始めたんだ。

***

「ここまでが。……あの日、私の感じた全てのことです。
 ……でも、どうしてそんなことを聞くのですか……淀川、杏さん」

 そしてあたしは、ペンを止める。
 書いたメモにもう一度目を通して、整理する。
 あの日の美山さんの気持ち。それから、あの日あたしが何を思っていたのか。

「……美山さんは」

 色んな言葉が、口から出掛けた。
 身勝手だ。馬鹿だ。許せない。許したい。もういいよ。可哀想だ。気にしなくて良いのに。一生そのままでいろ。自分を責めないで。自分が悪いって分かってるんだよね。言ってくれれば。自分勝手。大っ嫌いだ。……。

「……あたしの事、友達だとは、思ってなかった?」

 最初に出たのが、それだった。
「あたしは、思ってたよ。美山さんと字の練習するの、わりと楽しかった」
「……。なら、どうして練習を止めようとしたんです」
「上手くなったらしないでしょ、普通。っていうかさ」
 何度だって誘ったんだ。
 あたしは。美山さんと仲良くなろうとしていた。
 遊びに誘った。色んな話をした。言いにくい話だって。
「美山さんは断ったじゃん」
 私は良いです、って、遠慮みたいな顔して、あたしに距離を詰めさせなかった。
 ああ、口にして思った。
 あたしが何に怒ってるのか。
 何を許せなかったのか。
「美山さんは。あたしが字ぃ上手くなったら、全部無駄になると思った?」
 だったらあの楽しかった時間はなに?
 美山さんのこと、友達だと思ってたあたしの気持ちは?
 それも全部、意味のない事だった?

「あたしは、美山さんのおかげで変われたのに」

 字が綺麗になって、自信がついて。
 手紙を出していなければ、先輩に告白はどのみち出来なくて。
 勉強が上手くいくようになって、大学に進んで。
 先輩とは別れちゃったけど、別の彼氏も出来て。
 なんか毎日、楽しくて。

「そういうの全部に、美山さんが関わってたのに」

 喜んでほしかった。一緒に笑って欲しかった。
 別に大の仲良しじゃなくても、あの時頑張ったよねーって言い合える仲でいたかった。
 なのに美山さんにとっては、それが全部暗い思い出。
 それが許せないんだ。
 あたしも大概自分勝手だな、って思う。
 だってそれは、ただあたしが楽しくないからだ。
 あたしが気にせずすっきり楽しい気持ちでいるために、美山さんにも楽しい気持ちになっていてもらわないと困るってだけだ。
「……でも。美山さんが勝手な事したから、あたしも勝手なこと言うよ」
 ラブレターのお返しだ。
 一番嫌なことを要求してやる。

「字を書いてよ、美山さん。またあの綺麗な字を、あたしに見せて」

「……無理です」
 美山さんは首を振った。
 字が、気持ち悪く見える。きっと想像以上に、辛いことなんだろう。
「だったら、あたしが字を教える」
 ちょっとくらい歪むかもしれないけど、まぁそれも良いでしょう。
 いくらでも付き合ってあげる。だから、もう一度字を書けるようになってほしい。
「それで、あたしに手紙を書いて。ごめんなさいの手紙」
 綺麗な字で。あの美しい凛とした字で。
 そうしたら、きっとあたしは美山さんを許せるから。

 それでもって、許せたら。
 今度こそきっと……友達に、なろう。




【終わり】

サポートしていただくと、とても喜びます! 更に文章排出力が強化される可能性が高いです!