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【第7回】プライドが仇となるケースについて

これからは、思ったことや意見を書き出して、発信する頻度をあげようと思う。そういう「くい」をいくつも打ち付けて摑まり、荒波の中でもなんとか流されないようにしたい。

そういう抵抗運動のスタートとして、しばらくは自己分析的なことを軸に据えようと思い、実験的にひとつ書いてみました。

陰謀論

陰謀論という言葉を最近よく耳にするようになりました。有名なやつだとアポロ11号の月面着陸写真はNASAの捏造だとかいうやつ。ここ数年だと新型コロナとか安倍元首相暗殺に関係するものが盛り上がっていたり、直近だと昆虫食に関するものもホットです。トランプ前大統領とロシア-ウクライナ戦争と気候変動と…となんでもかんでも繋げた壮大な話もあるようです。

自分も含め殆どの人は、こういう陰謀論を「ぶっ飛んだやべえ奴が信じるもの」とエンタメのように面白がって見る節があると思います。自分もそうです。「想像力豊かな人もいるもんだな〜」くらいにしか捉えていない。

でもこの世にはそれらを本気で信じている人が一定数おられるわけです。幸いにも自分の周りには今のところそういう重篤な方々はおりませんが、ニュースやTwitterを見ていれば「マジ」な方々がいることは明白です。1人で信じてすがる分には自由ですが、それが暴走して周囲の人に深刻な影響を与えているケースも少なくないようです。

先述のとおり、自分は陰謀論の内容自体には冷ややかな目を向けており真に受けることはありません。

ただ、時々怖くなるときがあります。自分も陰謀論にハマるときが来るのではないかと。

なぜかというと陰謀論は、臆病で不器用な人間にとって非常に優しいと思うからです。それは陰謀論がある種の「論理性」をもったものだからです。

陰謀論は、「この前の大地震は傲慢な人間の営みに怒った神が引き起こしたものである」というような宗教・信仰的なアイデアとは違います。代表的な陰謀論は、対象となる事象の細部まで人間の関与を求め、そうして見出した「隠されている真実」を独自の理論でつなげ合わせたものです。
前提となる「隠されている真実」がそもそも誤った擬似科学的な「トンデモ事実」であることが、陰謀論のアイデンティティみたいなものです。ただ、その出発点である「トンデモ事実」がトンデモであるということを一旦無視すると、その先はある程度ととのった理論でその事実を結びつけていることもあります。もちろん、陰謀論が壮大であればあるほど、隠された事実を結びつける理論にも飛躍が生じ、よく見ると破綻しているわけですが、ここで大事なのは、その議論は「非科学的な神」やデータをもって定量的に捉えられないような人々の感情というものを排した、極めて理屈っぽく客観的らしく構築されているということです。

つまり、前提となる擬似科学的なトンデモ事実を盲信する陰謀論者にとって、陰謀論は自分の理解を超えた事象に対して論理的な説明を与えてくれるものなのです。『「あの事故は神が引き起こしたものだよ」という宗教の信者や、「あの事件と今回の事故は関係ないよ」と言う「政府に騙されて気づいていない人々」とも違う。わたしたちは冷静で論理的に物事を捉えている』という優越感や自信が、陰謀論者には付与されます。

そして何より、「理解できなかった物事が論理的に理解できる」ということは安心感があります。ゆえに一度まちがった理論に自分の理解が収まると抜け出しにくくなるのでしょう。

分からないものを分からないと受け止めることは、非常に勇気のいることです。自分の無能さや無力感を突きつけられるような感じがするからです。弱く不器用な人間は、この恐怖に向き合い克服することができず、代わりにパッと見で理解し解答をくれる「論理」に飛びつき、安心感を得て自分は有能で物事を理解できているんだという夢をみたがるのです。

そして私自身は、後述のとおり、正にそういったタイプであるという自覚があります。

論破

陰謀論の他に、ここ数年盛り上がりを見せてきたものの一つに、西村博之(ひろゆき)氏に関連するコンテンツがあります。
ネット民の界隈では以前より有名だった氏ですが、今ではマスメディで取り上げられることも増え、その知名度はここ数年間まさに鰻登りでした。

ひろゆき氏が世間一般、とくにSNSを駆使する若年層に与えている影響についてはさまざまな意見や議論があるところですが、ここでは彼の代名詞でもある「論破」に着目したいと思います。

「ひろゆき 論破」でGoogle検索をかけると170万以上の結果がヒットします。(2023年4月9日時点) また、『ひろゆき、異世界でも論破で無双します』(著:はたしま卯月 出版社:KADOKAWA)というコミックが発売されたり、『マッドマックスTV論破王』(ABEMA TV)という氏とゲストがディベートをする番組が放送されたりもしています。

例えば上述のABEMAの番組を見てみてください。YouTubeで「ひろゆき 論破」と調べてでてきた動画をみるでも構いません。これが「論破か〜」と笑うというか一周回って感心してしまうような、破綻した理論が飛び交っています。

問題なのは、氏のこの論破を支持する人々が若年層を中心に増えていることだと思います。番組を面白がっているならいざ知らず、彼がYouTube・書籍・Twitterなどで発信する「ひろゆき流の論理的な意見」が支持を集めることに強く危機感を抱きます。

彼が、沖縄の米軍新基地建設に抗議する座り込み運動について、「座り込みの定義は?」などと意見し、抗議に参加する人々を(ひろゆき的に言えば)「論破」するような発言を繰り返したことは記憶に新しいです。

抗議活動の本質や、そこに携わる人々が抱く論理では動かないような感情(そのような感情が基地建設を妨げることの是非はここでは問題ではありません。)を理解し慮ることをせず、「座り込み」を言葉通りにだけ捉える「論理的」な主張に甘えるこの姿勢には問題があるでしょう。

なんだか、陰謀論といい、ひろゆきといい、一見確からしい理論に飛びつく人々が増えているのではないかなぁというぼんやりとした危機感があります。

そして繰り返すと、最も怖いのは自分も本質的にそのような人間なのではないかということです。

私は法学部を先日卒業しました。あまり成績は良くありませんでしたが、それでも他学部の大学生に比べたら法学には触れてきました。

いわゆる文系の学問とされる人文科学や社会科学のなかで、法学は特に論理的思考が重要と言われることが多いものです。私はあらゆる学問領域に触れてきたわけではないので、「法学が1番論理的な文系学問だ!」とは言い切れません。しかし、司法試験の論文試験に代表されるような論証文の書き方の一丁目一番地に「法的三段論法」という言葉が登場することからも、法学に論理的思考が強く求められることは間違いないと言えるでしょう。

さて、世界中の法律を分類する手法・基準は幾つもありますが、その一つに「国際法」と「国内法」というジャンルに分類するというものがあります。
国際法というのはその名の通り国家間のルールを定めたもので条約がその一例です。国内法というのは日常で我々が気にする刑法とか道路交通法とか、日本国内において適用されるものです。

私は国際法も国内法も勉強しましたが、前者が後者にくらべ圧倒的に苦手でした。理由は単純で、「『国際法は国内法ほど明快に論理的でない』と感じてしまったから」です。

誤解の無いように補足しますが、「国際法が論理的でない」なんてことは全くありません。こんなことは少し勉強すればすぐにわかります。

ただ、第一印象というのは何事においても重要です。
国際法の一例に条約があると書きましたが、実際には「国際慣習法」という多くの国々が古くから守ってきた慣例みたいなものが、国際法の大半を占めています。これらは条約と違い、文書化されていないケースが多々あります。このことを国際法を学ぶ学生は1番最初に知ります。

「文書化されてないなら後出しOKでなんでもありじゃね⁈」という疑問を初手に抱く学生は少なくないでしょう。他にも、とある条項についてその国が守りたい条項だけ守ればいいという制度(留保)があったり、条約を破っても罰金や懲役のような明確で厳重な懲罰が存在しない点も、私たちに国際法をどこか曖昧で非論理的でふわっとしたものであるという印象を抱かせます。この辺りの話も全て初級知識で、もう少し勉強すればこれらの課題にどう国際社会が対処しているかといったことは知ることができます。

ただ、残念なことに私は国際法の第一印象に、「『国際法は国内法ほど明快に論理的でない』」を感じてしまい、この「呪い」がその後もチラつくことが多々ありました。

私たちは日頃から国内法の、例えば「映画の盗撮をしたら、法律により10年以下の懲役、もしくは1000万円以下の罰金、またはその両方が科せられます」という、単純明快な理論に触れています。どう単純明快なのかのは以下の図と説明を見ていただければわかると思います。

一定の条件下でうまれた子供に日本国籍を与えるか否かを定めた法律のはなし

この図は、国内法の一つ「旧国籍法3条1項」が何を言っているかフローチャートにして表したものです。(現在は改正された条項が適用されます。)

一見難しそうに見えますがよく見ると、上から順にひし型◇の質問にyesかnoで答えるだけで結論(Aは日本国民となる or ならない)が導き出されるという、極めて単純な構造をしています。

フローチャートの上から水を注ぐと、普段は閉まっている弁がyesの時だけパタパタと空いて水の流れが変わり、最終的に下で待ち受けている2つの桶のどちらかに排水されるイメージです。
私たちが一度水を注いで待つだけで、ニュルっと心太(ところてん)のように答えが出てくる便利な自動装置。これが法律の正体であり、とくに国内法ではこの素顔を分かりやすく捉えることができます。

私は法が持つこの「難しそうだけど単純な構造」が好きなのですが、この嗜好を持っている自分自身を怖いなと思います。この構造に甘えて物事を判断すると、その構造に少しでも当てはまらない物事をあるがままに理解できず、無理やりこの構造に落とし込むように歪曲して捉えるリスクを持ち合わせている気がするからです。

複雑なものを複雑なまま捉える勇気

ある予備校講師が「複雑なものを複雑なまま捉えろ」と言っていて、私はその言葉を今も大切にしています。

理解できないことが怖くない強い人は、複雑なものを複雑なものとして捉えて正面から理解しようと向き合えるでしょう。
さらに器用な人は、複雑なものを巧みに単純化したり具体化したりして本質を捉え、再び複雑で抽象的なレベルに帰ってくることができます。

一方で、先述の通り臆病で弱く不器用なわたしたちは、自分の理解をこえた複雑なものを前にしたとき、ついそれを単純化して自分の理解に収まるように変形させたがります。そして、陰謀論やひろゆき氏の持つ、自分が理解し活躍できたような「論理的な話」とうフィールドにすがりそこで戦おうとします。

世界・日本を代表する名門大学を卒業し将来有望とされてきた若者が、陰謀論を展開するカルトにハマって事件を引き起こすという話をたまに聞きますが、私からすればこれは不思議でも意外でもなんでもありません。
頭が良く今まで何でも理解できてきた人が、はじめて自分の理解を超えた複雑な社会の物事に向き合って、理解できない自分を認められないプライドはよくわかります。そこで、答え —それも自分の支持してきた論理性を伴っているもの(実際は持っているように見えるだけに過ぎない)— をくれる陰謀論やそれに付随するカルトは、さぞ居心地がよいだろうと思います。
「論理的にわかる」という麻薬にすがって安心という快楽を得ているに過ぎないのですが、気持ちいものは気持ちいいのでそこから抜け出せなくなる人も一定数いるでしょう。

そうならないよう私は、まず、理解できないものを理解できないと自覚し、そんな「無能な」自分を許せるところから、はじめていきたいと思います。
「プライドを捨てなさい」というアドバイスはよく聞きますが、そのアドバイスの裏側には上のような背景事由があるのだと思います。

この文章自体も丁寧な検証に裏打ちされたものではありませんし、読む人が読めばめちゃくちゃな論理構成をしていると思います。ただ、これは論文ではなく、私の思った感想や考えた意見を精一杯自由に叫ぶ場なのでご容赦頂ければと思います。

万が一、この先に私のnoteが陰謀論めいたことを言い出したら、そっと教えてくれると助かります。

参考文献

この文章は、この記事を読んでから書いたわけではないのですが、終盤に陰謀論と関連した話がでてきます。素人の書いたこの文章よりも、丁寧に説得力を持ってひろゆき氏に対する評がなされているので是非ご一読ください。

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