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【2020年ひとり名画座】1月①「若者のすべて」

 2019年の暮れに何となく思い立ち、

「来年は古典名作と言われる映画を色々観てみよう」

などと計画を立て、ついでに読んでいない昔の名著も読むことにした。消化期間も考え、それぞれ一か月に一作品ずつのペースでトライしている。

とはいえ一人で読んだり観たりしただけだとふんわりと忘れていきそうなので、備忘録も兼ねて感想とか色々書いてみる。とりあえず後一週間ほどで2月が終わりそうなのに何を観るか(そして読むか)を今日になってようやく決めたという、二ケ月目にして既に頓挫寸前の状態なのだが、それよりも先に1月のことを書いておかないと忘れそうなので、慌ててこうしてキーボード叩いている次第です。ワハハ。

 まぁ、今年の終わりまでちゃんと続けられるように、あまり気負わずゆるーくやっていきたいと思います。どうぞよしなに。


1月のひとり名画座「若者のすべて」「家族の肖像」

 そもそも何でこんな企画を思いついたのかといえば、以前学校の映画史の授業でラストシーンを見た「サンセット大通り」と「道」が観たかったからだ。だから本当は、年が明けて最初の月はそのどちらかを観る気満々だった。

ところがいざウキウキで調べてみると、二本とも自分が入っている配信サービスで見られる手段が限られている。一つは有料レンタル、もう一つは会員登録のお試し期間。うーむ。

「そんならもう少し多く払って、映画館とかで見たいなぁ」

などと移動可能な範囲内の名画座のウェブサイトをあれこれ漁ってみたところ、某映画館で「ヴィスコンティ特集」と銘打って、タイトルの2作品が上映されていることを発見した。

ヴィスコンティも巨匠と言われているらしいし、元々一本の企画のところを二本見られるというのも良い。

何よりスタートダッシュを映画館で決めるなど、ちょっとした映画通の人ごっこのようで楽しそうだ。

そんな訳で、1月のひとり名画座はヴィスコンティ

「若者のすべて」

「家族の肖像」

の二本立てに決定した次第。


若者のすべて

イタリア語の白黒映画。本編は三時間以上ある。長い。多分昔のフィルム入れ替えとかがあった映画なんじゃないだろうか。

イタリアの南部からミラノへ移住してきた母一人と五人兄弟のうち、先にミラノに移り住んでいた長男を除く四人の名前を冠した章で進んでいく。(冒頭に長男の章があったらすいません、見落としていたな……)

イタリアは世界史の時代から南北の貧富の格差、というような話がよく出てきていたのだが、この映画でも確かにその要素が所々出てきたのが興味深い。もっとイタリアの近現代史もやっておけば良かったなぁ。そうしたら見える部分も色々あったのかもしれない。実際のところ、映画館に展示されている昔のパンフレットを観るまではそのことに気付かなかった。

兄弟のうち、物語の主軸となる二人・シモーネとロッコがボクシングをするのだが、昔のトレーニング器具やウェアの違いも面白かった。こうして見ていると、どんどん動きやすいように形も変わってきているのだなぁと素人でもわかる。

後これは完全に自分の話なのだが、人間の顔と名前一致させて覚えるのが病的に不得意なので、白黒(色で判別できない)かつ似たような背格好と年齢の男子四人というのは非常に難しかった。物語が進むまでは全然判別できなかった。文脈でしか覚えられない。

そんなわけで、二章の半にしてようやくシモーネ→ロッコ→チーロと覚えていき、「それ以外の背の高い奥さんがいる人」が長男ヴィンチェンツォ、という雑な見分け方をしていた。

何かある度に兄弟の名前を大声で呼んでくれた末っ子のルーカ、ありがとう。

君がいなければ更に覚えられなかった。一人だけ子供で背丈が低いので分かりやすいし、本当に君だけが頼りだった。


以下、ネタバレ込みの感想とか、ぼんやりとした考察にもならない海抜0mの深読みのようなもの。


・シモーネは本当に善人だったのか

作中あらゆる種類のクズを煮詰めたような言動をエスカレートさせていくシモーネについて、映画の最後でチーロ(一番の常識人)はルーカに

「元々善人だったのに、都会での生活が彼を破滅させた」

と語る。実際パンフレットも「善人が都会の生活で堕落していく」というようなことを書いていたのだが、どうにもこの言葉が自分の中で今でもピンと来ていない気がする。

これは完全に自分の意見だが、彼は元々「弱い」人間だったのじゃなかろうかと思う。誘惑や自分の怠惰、失敗することへの恐れ、そういった心の隙に負ける人間、という意味で。

だから誘惑も、己の逃げ道も、踏み外す先も何も無かった田舎では「善人」でいられた。けれども盗むものがあり、逃げる酒があり……という都会に来たら、善人以外の道にふらふらと入ってどんどん進んでいってしまった。分岐点が増えたからしかるべき道に入ったのじゃないだろうか。そういう解釈ならば、チーロの言うことも理解できる。

多分、映画を観た自分の中で「善人であるシモーネ」と「都会で堕落したシモーネ」が繋がっていない。善人が台無しにされたような言い方に、何となく違和感を覚えている。

いや多分彼、元々真から善人だったわけじゃないと思いますよ。環境が彼をそう置いていただけで、と。

ただこれ、どれを基準にして「善人」と成すかにも寄る気がするなぁ。どうなんだろうか。

それにしてもこのクズっぷり、あながち他人事でもない気がして笑えねぇなぁと、今でも時々心当たりを思いついてはゾッとしている。何かを成せない人間にありがちな「弱さ」を備えているんだ……。

・聖人ロッコとナディアのはなし

既にふんわりとした記憶になりつつあるので軽く思ったことをつらつらと。

シモーネとロッコ、そしてナディアのまぁいわゆる三角関係の中で、ナディアとロッコの恋愛については観ている間もずっと「宗教」のようだと思っていた、という話。

テラスでの会話のシーンでロッコが「信じ続けることが大事なんじゃないかな」と言った時からずっと一人で「宗教じゃん」などと思っていた。

だからこそ彼が自分と別れ、「いつの間にか自分の中の怒りを拳にのせてしまっていた」などと泣きながら人を殴り戦う拳闘士になる道を歩まざるを得なかったこと、自分たちの関係が空き地で滅茶苦茶にされたこと(このシーンは人によってはとても心の健康によくない……)などが「私の大切なものを穢した」というシモーネへの最後の罵倒に繋がったのでは、という個人的な想像。

ロッコと別れた後のナディアの言動も、ただの恋愛の延長というよりは、個人の信仰の剥奪に対しての怒りっぽいなという感じを観ていて受けた。

とはいえ当のロッコはそのシモーネを「信じ続け」ていたせいで、最終的にはあんなことになった訳だが。(「都会善人破壊説」には上記の通りうすらぼんやり疑問を抱いているが、チーロの「ロッコが聖人のせいでシモーネは更に駄目になった」発言にはそうだそうだと思っている)

正直こんなことつらつら書きながら、彼等の兄弟愛とクズ行動の巻き込まれ事故みたいな最期を遂げたナディア、端から見たらあんまりにも気の毒だと思う自分もいたりする。

と、ここまで書いてから、「ひょっとすると、ロッコにとってのシモーネもまた『宗教』だったのでは?」などとふと思いついた。

シモーネに対するロッコの「寛大」という言葉では納めきれない献身ぶり、確かに「聖人」の信仰と捉えればめちゃくちゃ納得できるんじゃあないか?

例えばロッコの「宗教」が、「田舎で仲良く暮らしていた家族(兄弟)」とかそういうものなのだとしたら、ロッコの色々な言動に自分の中で説明がつく気がする。

聖人だからいつか故郷に兄弟の誰かが戻る夢を話してルーカに期待する(※ある意味信仰を説いている状態)、母が長男の子供に会いに行けるよう促す(これまた信仰を説いている)、「信仰」のためにナディアを「シモーネには君が必要だ」などと言いながら別れている、空き地のシーンは唯一ロッコが、信仰じゃない人間としてシモーネに怒りをみせた(一瞬信仰を忘れた)場面である、エトセトラ。エトセトラ。

うん、めちゃくちゃしっくりきたし、ロッコにぼんやりと感じる怖さというか、ちょっと好きになれない部分のようなものも、何となくわかったような気がする。あくまで個人の中での消化方法ですが。


兄たちとルーカと、家

上でロッコがルーカに「信仰を説く」みたいな話をしたんだが、何となくのその続き。

長男ヴィンチェンツォを除く兄たち、まぁロッコに限らずチーロもシモーネも、末弟で子供のルーカに自分の意見をめちゃくちゃ話すなぁ。などと思っていた。

ある意味観ている人の代わりに彼らが思っていることや感じていることを目撃したり、聞いたりする立場なのだが、それぞれの「宗教」やら希望やらをその身でひたすら受けるルーカが家に帰るシーンで最後の章が締めくくられるのは、個人的に好きな終わり方でした。

そうやって兄たちを見続けていたルーカ、成長したらどんな風になるのだろうか。それでキャラクターひとり作っても、面白いかもしれない。

ところで最後のルーカが見ていたロッコのポスター、何が書いてあったのだろう。イタリア語だしパッと見ただけなので、チャンピオンがどうのという部分しか分からなかった。



以上、「若者のすべて」で何となく思って言語化したかったことでした。

ゆるく書くとか言っていたくせにつらつら書いたら長くなったので、「家族の肖像」は次の記事で。


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