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押さえておきたい手塚治虫の偉業7選

今回は「押さえておきたい手塚治虫の偉業7選」をお送りします。

ズバリ言っちゃいますと
手塚先生がいなかったら日本の漫画のレベルはここまで進化していなかったといっても過言ではないスペシャルな偉業を残してきた作家です。

今回はその偉業をぎゅっと凝縮して7選にまとめて
ご紹介していきますのでぜひ最後までご覧ください。


今回ご紹介するトピックスは
こちら「手塚治虫ぴあ」を参考にしてお送りしております

それでは行ってみましょう!


まずは本題に入る前にさらりと手塚治虫の偉業を追ってみたいと思います。


●日本初の少女マンガを考案


1953年当時は戦後まもなくマンガという文化もあまり発展しておらず
あっても男の子が読む読み物でありました。
そこに宝塚歌劇の影響を受けた「リボンの騎士」を女の子向けに
発信したところ、これが当時の娯楽に飢えていた女の子たちの心を鷲掴みにしちゃいます。

そりゃそうでしょ。だってなんもないんですもん。
厳密にいえば少女マンガもあることにはあったんですけど
せいぜい4コママンガかそれに毛が生えた程度のものしかなかったわけです

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そこに突如こんな化け物じみた豪華絢爛なファンタジーマンガが現れるんですからそりゃあ相当な衝撃だったと思いますよ。
モダンでゴージャスな世界観は当時の少女たちにマンガという面白さを教えた功績は計り知れなく大きいと思います。

少女まんがの原点にして金字塔「リボンの騎士」必読です。


ちなみに「拳銃天使」という作品では子供マンガ史上初めてのキスシーンを描いて物議を醸しだしたこともあります。

このあたりの常に新しいものを切り開いていくというスタイルは
手塚治虫を語る上では欠かせないポイントとなってきます。



●最高月間原稿枚数


最高月間枚数なんと600ページ以上!
今は週刊連載が1週間で20ページだとすると4週で80ページですが
手塚先生は単純にその約7.5倍!
ヤバくないですか。変態ですよ。


信じられないと思いますが信じられないことやってるんですよ。
とにかくペンが早いことで有名です。
(オソムシと言われていたのは単に描く量が多いだけでスピードは群を抜いていた)
20ページの作品を1日で書き上げたこともあるし
せっかく仕上がった原稿を「やっぱり書き直す」といって徹夜で全く違う話に書き直したこともあります。
(本当はそこまでしなくてもいいのに…)

連載以外にも100ページほどの単行本を年間14冊書き下ろしたこともあるし
その他、単行本の修正もやってるし、
さらにアニメの仕事も並行してやってますから。
1989年の亡くなる間際ですら3本の連載を抱えていました。
何の資料もない病院のベッドで3本、しかも瀕死の状態ですからね
もう意味不明なんです(笑)



●生涯作品数


700点以上
実際はもっとあると言われているんですけど、
700作品を実労40年換算すると
年間約17.5作品描かないと到達できない数字です。

ちなみに講談社発行の「手塚治虫漫画全集」はエッセイなどを含め全400巻あるんですが
これでもすべてが単行本化されているわけではないので
実際どのくらいの作品が眠っているのかは分かりません。

そして生涯原稿枚数は15万枚とも言われており
これを今の月間80ページのペースで計算すると、
書き上げるのに156年かかるのですが


これを手塚治虫はわずか42年で到達しちゃいます。


完全に理解不能…

いかにこの700という数がべらぼうな数であるかが分かると思います。
とにかく圧倒的なんです。


野球でいうと通算200勝がすごいと言われ名球会に入る条件なんですけど
手塚先生は1500勝してるようなもんです。
イチローの200本安打がスゴイと言ってる横で
1000本打ってるようなもんです。
例えが分かりづらいかも知れませんが(笑)

もはや異次元の存在なので比べることすら無謀です。


●同時連載 11本


現在だと連載を掛け持ちすること自体が珍しいことだと思います、

当時は連載の掛け持ちは当たり前とは言わないですけど
人気作家であれば
2~3本は持っていても普通でした。
その中でもピーク時の手塚先生の連載本数は実に11本
月刊誌8本、週刊誌3本の連載を抱えていたそうです。

変態です。

特に月刊誌の締め切りの毎月25日辺りは地獄の1週間と言われ
1週間の睡眠時間は3時間しかないとか…もう異常事態です(笑)

常に緊急事態スクランブルです。


いかにペンが早いとはいえ凄まじいスケジュールですよこれは。

当時はマネージャーのような存在もいなかったため原稿の依頼があったら全部受けちゃったんで、こんなしっちゃかめっちゃかな事になったというね。笑えない笑い話ですよほんと。


だから手塚先生の仕事部屋には編集者の部屋があったりベッドがあったり
待ってるときの暇つぶしの麻雀卓があったり
編集者が1週間泊まり込みなんてものも当たり前。


「手塚番」なんて言う、いわゆる手塚先生から原稿を専門でとってくる編集の名前がついちゃったり
いかに手塚先生から原稿をもらうことが困難であったかがわかるエピソードや逸話が数知れず残っています。



…とまぁ本題に入る前のさらりご紹介のはずが
序盤だけで結構なお時間を使ってしまったので
本題はこちらでお送りします。大変申し訳ございません。


ありがとうございました。


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