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アラブの春:イスラエルとパレスチナ+エジプト

2993文字

はじめに

イスラエルVSパレスチナの戦争で、SNSでパレスチナ人の死体を流しやたら解説してくれるワラワラ出て来た🍉アカウントは、ハマス/エジプト同胞団の工作員とトロイ左翼とウブな若者だろう・・調べていて、この記事でハマス・イスラム同胞団の幹部が憧れる精神指導者、シェイク・ユスフ・カラダウィはアラブの春の指導者だと知る・・(;´Д`)

ワシはアラブの春は素人、アラブの春の勉強しなきゃと思ったが、⬇️この記事はこれは分かりやすい。エジプトの大統領、政権の立ち位置が良く分かる。ただし、アラブの春の民主化が良いことだ、宗教は善だろうと騙されている方の記事だ。善悪アベコベに語っている。そこだけ気をつけて読んで下さい。

今までワシのイスラエルとパレスチナのnote・Twitterを読んでいる人は分かっているかもだけど、アラブの春という名前はアラブに対して良いことが起きた、みたいなイメージ操作の名前だ。1984のコレと同じだ。

1984年 (小説)

平和省 豊富省 真理省 愛情省 みたいなもん。

アラブの春はイスラムの春と言う。イスラム原理主義は、アッラーの教え統治する。人間の指導者、人間の作った法は総て破壊する。ゆえに、指導者が国民の味方でも、まだマシでも、潰そうとする。その成功例がパレスチナのPLOアラファト潰し。

ハマスはイスラエルがPLOのアラファト対策で創設した武装組織!

国民の味方の英雄を大英帝国の為に殺そうとするイスラム同胞団。

アラブの詳しい人達にはアラブの春の黒幕はアメリカだのフリーメーソン(ユダヤ教)だと思われていて、アラブの春→イスラムの春→ヘブライの春と言われている。


タイトルと違い、これエジプトの話が一番メインだよな。(^_^;)

アラブの春:イスラエルとパレスチナ

2010年末にチュニジアで大規模な反政府デモが起きてベンアリ政権が倒れたのを皮切りに、エジプトのムバラク政権、リビアのカダフィ政権が次々と倒れ、ほかのアラブ諸国にもデモの波は広がった。アラブ世界におけるこの一連の反政府暴動を「アラブの春」とか「アラブ革命」とか呼ぶ。イスラーム側からは「イスラームの春」と呼ぶこともある。

チュニジアのベンアリ     エジプトのムバラク

「イスラームの春」と呼ばれるわけは、この運動によってアラブ各国のイスラーム主義への回帰が目立って見られたからだ。その典型はエジプトで、それまで世俗主義を掲げてきたムバラク政権にかわって、イスラーム主義をかざすムスリム同胞団の影響が強まり、ムスリム同胞団を支持母体とするムルシが大統領になったりした。

ムスリム同胞団とムルシ(真ん中)

アラブの春の動きは、当然パレスチナ問題にも大きな影響を及ぼした。まずエジプトでの政権交代は、パレスチナ側にとって追い風となった。それまでムバラク政権は親米路線をとり、イスラエルとは協力関係を維持してきた。その一方で、パレスチナとは一線を画し、ガザを実効支配するハマースを敵視してきた。というのもハマースは、エジプトを拠点とするムスリム同胞団のパレスチナ支部として結成されたいきさつもあって、ムスリム同胞団を敵視するムバラク政権にとって敵対的に受けとめられていたからだ。


ところがムルシ政権にかわると、パレスチナに対して融和的な政策に転換した。イスラエルと対立するわけではないが、従来のようにハマースを敵視して、ハマースの拠点であるガザを封鎖するというような政策はとらなくなった。そのエジプトに仲介される形で、ファタハとハマースの融和の動きもみられるようになった。

ファタハ:マフムード・アッバース(左)   ハマス:イスマーイール・ハニーヤ (中央)

アラブの春はシリアにも波及したが、シリアではアサド政権が民衆のデモを弾圧し、それが内戦へと展開していった。さまざまな反政府組織にISのようなテロ組織までからまり、それにアメリカやロシア、トルコといった国々が複雑に絡まって、シリアとその周辺地域は戦乱に巻き込まれていった。中東では、アメリカの対イラク戦争が完全に終結しておらず、そこへシリアの内戦が絡むことによって、事態は非常に複雑化したのである。

アサド政権調べ直さないと。アサドとプーチンが仲がよいのは、民衆のデモ・内戦はアメリカが黒幕だから?

アラブの春を受けるかのように、アメリカにも新たな動きがあった。オバマ大統領は、ファタハとハマースの和解の動きを受ける形で、2011年5月に中東問題についての演説を行い、その中で、イスラエルとパレスチナの国境線は、1967年以前の境界線とすべきだとの見解を出した。それに対してイスラエルのネタニヤフ首相は大いに反発した。

PLO議長アッバースは、2011年9月に、パレスチナ国家の国連加盟を求める申請書を提出した。これを踏まえてさまざまな動きがあったものの、最終的には2012年12月に、パレスチナは投票権なしのオブザーバー国家として認められた。とはいうものの、パレスチナ国家として不可欠の領土の問題については、イスラエルの交渉拒否もあって、全く見通しがたっていない。つまりパレスチナは国家として国際社会に認められたものの、領土なき幽霊国家のままなのである。

以上は、アラブの春がもたらした成果といってよかったが、そのアラブの春の機運も急速にしぼんでいった。それを画するのは、エジプトで軍事クーデタがおこり、ムルシが逮捕されるという事態だった。このクーデタで政権を握った軍部は、ムバラク時代の政策にもどり、親米親イスラエル路線、ムスリム同胞団の弾圧といった政策を追求するようになる。

ハマス”が”親米親イスラエル子分だからややっこしいよな。
ムバラクは戦争はしたくない。

ファタハとハマースとの融和もうまく進まず、エジプトによるガザの封鎖が復活するといった事態のなかで、2014年7月にイスラエルとパレスチナの間で大規模な衝突が発生する。ガザ地区から行われたイスラエルへのロケット攻撃に報復するという名目で、イスラエルによる大規模なガザ攻撃がなされた。この攻撃で死んだパレスチナ人の数は2000名を超え、その大きな部分は民間人だという。一方、イスラエル側の死者は70名程度で、そのほとんどは軍人である。だから、このガザ攻撃はイスラエルによる一方的な残虐行為といってよかった。しかしこの残虐行為も、並行して起きていた中東地域での戦闘の陰にかくれて、あまり目立つことはなかった。

ワシはリアルタイムで映像見てたけどな。

これ以降、パレスチナ側からの大規模な攻撃や暴動は起きていない。ガザの攻防においても、イスラエルによる一方的な攻撃という面が強く、パレスチナ人が自主的に立ち上がったというわけではなかった。パレスチナ人のインテファーダへの情熱は、すっかりなりを潜めてしまったようなのだ。

そういう中でアメリカにトランプ政権が登場すると、イスラエルへの露骨な肩入れが進む。まずテルアビブにあったアメリカ大使館をエルサレムに移転し、ついで占領地における入植を容認する考えが示された。それに加えて、1967年以降におけるイスラエルのパレスチナへの侵略行為をすべて容認するような考えを示すに至った。パレスチナは、ついにアメリカにも見放され、深い孤立の闇に沈みつつあるかの如くである。

おわり


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