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1.アショーカ王のポエムに騙され中の人類!(;´Д`)

◉今回のnote記事は無料です。5916文字

釈迦・仏陀は有名だけどアショーカ王の知識は、ほとんど皆さんないのでは?ワシも微かに聞いたことがあるな〜〜程度。仏陀を調べてていて、この王が、ちょ〜ヤバいことに気づく。このマンガのアショーカの美徳は誰もが空気のように行っている。この美徳の道徳の元はアショーカ王だ。

人類の中でも、特に日本人はアショーカ王の碑文の教え通りに生きているような・・(;´Д`)

アショーカ王の思想を知らないままじゃすまないんだ、なにせ、ワシたちの頭の中、呼んでいるアナタの言葉もアショーカ王のウケウリ・・_| ̄|○

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いい話だな〜〜〜・・・ナンチャッテ(;´Д`)

まあ実際、特に日本人はやっているでしょ?

というわけで、これから出していくだろうnote記事で驚き笑って貰うためにも(笑)世間の人類のアショーカ王のして来たこと&評価を頭に入れておいて欲しいのだ。


◎今回の記事は世間の評価の要約

とはいえ、検索すれば流石に疑問を持っている人も多そうです。


では、鼻毛でも抜きながら読んで下さい・・・m(_ _)m

本題・アショーカ王

●ダルマによる政治 紀元前258年に、ダルマ(普遍的な仏法)にもとづく政治を行うことを宣言し、2年後にそれを詔勅として発布した。詔勅には不殺生と正しい人間関係の尊重が説かれていた。

⬇️このマンガ読んでおくベシ、この数ページだけでOK!⬇️

SOKAnet  ”創価学会”公式サイトの辞書ページから

リンク

生没年不詳。在位は紀元前268年~前232年ごろとされる、古代インドの王。漢訳では阿育などと音写し、無憂と訳す。王は自ら天愛喜見王とも称した。マガダ国を根拠地とし諸王国に分裂していたインドを統一したマウリヤ朝の第3代の王。最初は「暴虐阿育」と呼ばれるほど残虐。即位9年目に東南インドのカリンガ地方(現在のオリッサ地方)を征服し、南インドの一部を除く全インドをほぼ統一した。カリンガ征服では、約10万人を殺害し、さらに約15万人を捕虜にしたという。

王はこの事件の2年前に仏教に帰依したとされ、この惨状に深く反省し、より深く仏教を尊崇するようになり、諸宗教とともに仏教を保護した。その後、王は武力による征服をやめ、法(ダルマ)による支配を根本とした。また辺境の民族や外国人とも親しく交渉をもち、シリア・エジプト・マケドニア・南インド・スリランカ・カシュミール・ガンダーラなどの諸地方に使節・伝道師を派遣した。


住職のひとりごと
わかりやすい仏教史②ー部派仏教の時代1

チャンドラグプタの孫で第三世アショーカ王の時、マウリア王朝は最盛期を迎えることになります。そして、彼こそは転輪聖王(世界を統一する理想の法王)と称えられ、武力による政治を改めて仏教を始め宗教を保護し、仏教の教えに基づいた政治を行ったと言われています。

また、仏教が一つの地方宗教から全インドに、さらには世界へ伝播される礎を築く大恩人となりました。日本でいえば仏教伝来間もなくに現れた聖徳太子のような存在でありました。

アショーカ王は元は性格が凶暴で、王位争奪のために多くの兄弟を殺し、凄惨な戦闘を繰り返したと言われています。が、即位してのち仏教に帰依し、インド全土を手中に収める戦場で数十万にのぼる死傷者を出した闘いを恥じて改心すると、熱烈な仏教信奉者となりました。多くの精舎や仏塔を建立し、仏跡や仏弟子の遺跡を巡拝、大規模な仏僧供養を行った。

こうしてインド各地に仏教を知らしめ、さらにはスリランカなどの近隣諸国や、遠くエジプト、シリア、マケドニアなどにも仏教使節を派遣し、キリストも誕生せざるこの時代に、早くも西方世界に仏教の存在を知らしめた。また、国内至る所に人と獣のための療院が設けられ、薬草や果樹を植え、井泉を拓くなど、アショーカ王は幾多の福祉事業にも奉仕したと言われています。


よみがえるアショーカ
「私の人物観」(池田大作全集第21巻)(;´Д`)!

池田大作の要約はまぁ〜〜綺麗にまとまってて、この場合は良かった(笑)

天愛喜見王(アショーカ王のこと)は、すべての隣邦人に平和使節を派遣し、武力による征服を廃して、法による征服を希望する。――この法勅を読んだ西欧の歴史家を驚嘆させたのは、そこに五人のギリシャ人王の名がしるされていたことである。

当時のインド西北方には、紀元前三二六年に侵入したアレキサンダー大王の後継者たちが、なお勢力を保っていた。インド初の統一帝国であるマウリヤ朝の支配は、アショーカ王の時代、西北インドにまでおよんでいたが、彼は法勅の宣布にあたってギリシャ語やアラム語の碑文まで銘刻させたのである。さらには、より西方のシリア玉、エジプト王、マケドニア王、そして北アフリカのキュレネ玉、エペイロス王(あるいはコリントス王)にまで使節を派遣し、ダルマ(法)による政治を勧めたのであった。

こうしてアショーカ王は、初めて西欧の歴史家によってその栄光の名を確認され、紀元前三世紀における東洋の開明君主として脚光を浴びることになったのである。『世界史概観』によって著名な(フリーメーソンのユダヤ人)H・G・ウェルズも「これまでに世界に現れた最も偉大な帝王の一人」として、アショーカ王の名を挙げざるをえなかった。

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ユダヤ人顔の著名なH・G・ウェルズ
1940年、ウェルズは新世界秩序と呼ばれる本を出版し、世界政府がどのように設立されるかについての彼の計画を概説した。新世界秩序、ウェルズは、このような政府の樹立に時間がかかる可能性があり、かつ断片的に作成することを認めました。彼の最初のノンフィクションのベストセラーは、人間の生活と思想に対する機械的および科学的進歩の反応の予想(1901)でした。平等主義者。

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第二次世界大戦を起こした男、チャーチルはウェルズを熱心に読んだ。 1906年10月のチャーチル演説は、ウェルズの「ユートピア」としての支持国家の考えに部分的に触発されました。 2日前、チャーチルはウェルズに「私はあなたに多額の借金を負っている」と書いていました。

ところで、いま引用した摩崖法勅の第十三章前半には、アショーカ王の一大回心として有名な告白がしるされている。

「天愛喜見王の灌頂八年に、カリンガが征服された。十五万の人々がそこから移送され、十万の人々がそこで殺害され、また幾倍かの人々が死亡した。それ以来、カリンガが征服された今、天愛の熱心な法の実修、法に対する愛慕、および、法の教誠が行なわれた。これはカリンガを征服した時の、天愛の悔恨である。なぜならば、征服されたことのない国が征服されれば、そこに人民の殺害、または死亡、または移送があり、これは天愛にとって、ひどく苦悩と感じ、悲痛と思われるからである」(アショーカ王碑文)

ここに、カリンガとあるのは、マガダ国の南方、今日のオリッサ地方にあった国である。アショーカ王が即位したとされる紀元前二六八年ごろは、まだマウリヤ王国の支配の外にあった。アショーカ王は即位八年に、大軍を率いてカリンガ国を攻め、多数の死者を出したことは、碑文にあるとおりである。彼はその惨状を見て、心底から悔恨の念をいだき、このときを期して「法の政治」へと転換した。まさに、キルケゴールふうに言えば、彼は″精神の大地震″を経験したのであろう。

 仏教徒の伝承によっても、アショーカ王は最初「暴悪の阿育」と呼ばれている。彼の祖父にあたるチャンドラグプタは、もとマガダ地方に君臨したナンダ王朝の一兵士であったという。その子ピンドゥサーラ王も十六人の王妃をもち、アショーカ王には百人以上もの異母兄弟がいたとされる。

生まれながらにして凶暴なアショーカは、はじめ父王にも疎んじられ、遠ざけられていたが、九十九人の兄弟を殺害して王位を手中にしたと伝えられる。もし、この話が本当なら、まさしく″暴悪″の一語に尽きよう。

そのアショーカ王が仏教に帰依したのは、いつごろのことか――今まで発見された碑文のなかでは、明らかではない。ただし、摩崖法勅の第八章には、即位十年に釈尊成道の地を訪れ、以後「法の巡礼」が始められたとあるので、そのころには仏教徒になっていたであろう。また、小摩崖法勅の第一章には「二年半有余のあいだ、私は優婆塞(仏陀釈迦の信徒)であったが、一年のあいだは、熱心に精勤することはなかった。しかし、次の一年有余のあいだ、私は僧伽に趣いて、熱心に精勤した」とある。

したがって、アショーカ王が後に熱心な仏教徒となり、人びとから「法の阿育」と呼ばれるようになった伝承に間違いはない。ただ、さきほどみたカリンガの大虐殺を行ったときに、すでに仏教徒であったか否か――そこに学者のあいだでも、議論の分かれ目が見られるのである。

そこで、以下は私の推測であるが、おそらくアショーカ王は、はじめのうち仏教徒から「暴悪の阿育」と呼ばれるほど悪事を重ねていたにちがいない。あるいは仏教徒を弾圧したこともあろう。

アショーカ王の弾圧を受けて、仏教徒は堅く団結し、なかには死を賭して諌言する僧も出たと考えられる。――そうした経緯のうちには、仏教徒のあいだに伝わる徳勝童子の因縁譚を、アショーカ王自身が聞く機会もあったかもしれない。彼がその話を聞いたとすれば、それは即位八年のカリンガ征服よりも前のことであったと推定される。この世の地獄ともいうべき十万人の大虐殺を目の当たりにして、ついにアショーカの心事に巨大なる転換の時が訪れた。

彼は以後、熱心な仏教者となって「法の阿育」として生きる決意を固める。――かつて釈尊が阿難に語ったように、われこそは孔雀王朝のアショーカ(無憂)であるとの自覚に立ったのであろうか。彼は自己の使命に目覚めることによって、一個の人間としても蘇生したのである。いわば、アショーカにとっての″人間革命″であった。

即位十年から始まった「法の巡礼」は、釈尊にゆかりの地を訪ねて、休みなくつづけられた。ある碑文によると、彼は一年の大半を地方巡行に費やしている。ちなみに、彼は個人としては熱心な仏教徒であったが、王としてはあらゆる宗教を公平に扱った。政治においては、仏教の理念を基盤に、生命の尊重をあくまで貫いたものであった。それゆえにこそ、仏教徒のみならず、すべての臣民から名君として崇敬されるにいたったのであろう。

今日、ほぼ全インドにわたって各地から発掘される仏塔には、無名の庶民の寄進になるものも多いと聞く。おそらくアショーカ王は、各地を巡行しながら人民のなかに分け入り、情熱をこめて法を説き、かつ王として正義を行ったと思われる。八万四千もの大小無数の仏塔こそ、そうしたアショーカの栄光の記念碑となったのである。

ルンミンデーイーの小石柱法勅には、次のように銘刻されている。
天愛喜見王は、灌頂二十年に、自らここに来て崇敬した。ここで仏陀釈迦牟尼が生誕されたからである。それで石棚を設営せしめ、石住を建立せしめた。これは、ここで世尊が生誕されたことを記念するためである。ルンビニー村は租税を免ぜられ、また、生産の八分の一のみを支払うものとせられる」

 この法勅によって、釈尊の生地ルンビニー村が確認されただけではない。長いあいだ釈尊の実在性に懐疑的であった西欧の学者たちも、このアショーカ王によって建てられた石柱を通して、間違いなく偉大な仏教の開祖が人類史上に生誕していた事実を、もはや認めざるをえなくなった。

 二千二百年以上も昔に銘刻された碑文は、今世紀に入ってアショーカ王を蘇らせた。そして、いまや世界宗教として注目される仏教の理念を、活きいきと語るものとなったのである。

池田大作 >彼は自己の使命に目覚めることによって、一個の人間としても蘇生したのである。いわば、アショーカにとっての″人間革命″であった。笑ったけどワラエナイ。真面目にそのようなことをアショーカは言っている。



法華宗 立正山 妙法寺

紀元前三世紀ごろに釈尊の前世”物語”がジャータカ物語として成立し南方に伝わっていき、上座部のお経として収められ世界各地に伝えられていきました。イソップ物語とかアラビアンナイトにもこの説話があり、日本でも今昔物語や宇治拾遺物語などにもでてくる説話です。仏教信仰はこのようにアショーカ王の仏塔建立により全インドに広がり発展していきます。

苦からの解脱と中道を説く平和主義の仏教に帰依し、社会の安定を祈る人が多くいたのです。


世界の窓 世界史用語解説 授業と学習のヒント

アショーカは生きている
マウリヤ王朝はアショーカ王の没後、次第にその勢力を失い、前180年ごろ同王朝の将軍プシャミトラ王に滅ぼされ、インド全体は再び分裂状態になる。

このような挫折にもかかわらず、アショーカ王は、今なお決して死んでいない。彼は現代によみがえりつつある。アショーカ王政治理念は、現代の連邦であるインド共和国では、国家運営の指標としての意義を持っている。

1950年1月26日に、デリーで共和国記念日の祭典が盛大に催された。この日、新大統領ラジェーンドラ・プラサードの就任式典にはアショーカ王石柱の四頭の獅子が飾られて、満場を見わたしていた。この獅子が、新しい大統領旗にも描かれているだけでなく、インド政府の文書をはじめ、インドを象徴するさらゆるものに用いられている・・・。また、アショーカ王の石柱には輪が刻まれていて、これは仏教の転法輪(説法)を象徴するものであったが、それは今、インド共和国の国旗にも表されている。

今やインド共和国は、アショーカ王の政治理念の実現を表にかかげつつ、世界の相対立する二つの軍事的勢力から一応離れて、インドの伝統的な理想の具現を夢見る少年のように、苦しく若々しい歩みを開始しているのである。<中村元『古代インド』1977 講談社学術文庫版(2004) p.196>

これは、仏教史学の大家中村元(1912-)の著作。「世界の相対立する二つの軍事的勢力」とは冷戦下の米ソのこと。

中村 元は、超〜〜御用学者の大物。


✖✖✖☠死の教えを日本に広めた近代の功労者✖✖✖

✖✖✖✖仏教史学の大家の中村元さん☠✖✖✖✖

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中村 元 原始仏典スッタニパータを日本語にした翻訳者は日本でとても偉い人♪

中村 元(なかむら はじめ、1912年(大正元年)11月28日 - 1999年)は、日本のインド哲学者、仏教学者。東京大学名誉教授、日本学士院会員。勲一等瑞宝章、文化勲章、紫綬褒章受章!

このnote記事では中村 元さんの話も出てきます。

おわり



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