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靖国・招魂神社とは天皇の奴隷の「忠魂」を利用し新たに騙される素直な良い子を量産する呪いの神社

6904文字

靖国神社の霊障の重傷の一例、こうなる!(゚A゚;)ゴクリ

阿修羅の靖国の記事にあった、今は無いHPのリンクから復活させたもの。

そこに「靖国と日本人」という記事がある。

これはこのサイトの人の記事ではなく、元はこの日本政策研究センターの本の記事なのだ。
(『明日への選択』平成十一年八月号より転載)
発行 日本政策研究センター

こんな雑誌があるんだね。

日本政策研究センターとは?

設立と沿革

昭和59年(1984)設立。現在、民間のシンクタンクとして、自由民主党所属国会議員、各種の議員連盟・政策グループに対する政策アドバイスを行っています。衆議院憲法調査会、自民党憲法調査会での意見陳述も行っています。

また、昭和61年(1986)からは、月刊誌『明日への選択』を創刊。翌昭和62年(1987)からブックレット・一般書籍の出版事業も開始。

代表/伊藤哲夫
所長/岡田邦宏
副所長/平崎雅之

糞!シンクタンク!!

・・これは・・安倍晋三のシンクタンクかも?調べはこれから。(゚A゚;)ゴクリ

こうやって騙せ!と提言しているんだと思う。

言い回しがイチイチ凄く長い分なので頭に入りづらい。要約と意味が分かるように文を変えて紹介する。原文はリンク先確認のこと。フザけたことはもっと書いてある。


ーーー本題ーーー


「天皇」に身を捧げた者達の「社」

1868年の四月末――明治と天皇が改元したのはこの年の九月

「この度の戦火に斃(たお)れた者の霊を慰めるために招魂祭を挙行する」という趣旨の文書が出ている。この文書が招魂慰霊を公の手で行なうというもっとも早いもの。

斃=この字、確かに倒れるとも読めるんだが怖いんだけどね。( ;´Д`)
意味は、1. 倒れる、倒れ死ぬ、疲れて死ぬ。2. 破れる、尽きる、病む、窮まる、耐える。

この文書の少し後の五月に、まだ京都にあった新政府の行政官である太政官府から二つの布告が出ています。これら布告では、「癸丑(きちゅう)以来」の「殉難者」の霊をまつるということが書かれております。

殉難国家や宗教などにかかわる危難のために、身を犠牲にすること。
殉教信仰のために苦難を受け命を捧(ささ)げること。

「癸丑」というのは嘉永六年(1853年)、ペリー来航の年。つまり、(天皇によると)幕末の動乱はこの年に始まるという考え方が示されているわけ。

「殉難者」とは「皇運の挽回」のために尽力した志士達のことであり、その志士達の霊魂を「合祀」するということがここで既に示されている。
後に、靖國神社の御祭神は「嘉永六年以降の国事殉難者」と定めたのは、この文書によるものと言ってよい。

さらに、この布告は合祀の対象を「なほこれより後も『王事』に身を捧げて斃れた者達」の霊と規定しています。

翻訳「なお、これより後も『天皇』に身を捧げて死んだ者たち」
斃・・この字は読みは倒れで、意味は死の方が強い。)
招魂社だからこれからも、ずうっと天皇・皇室のために身を捧げた兵士たちの魂を集め続け、合わせて祀るよ、ということが明記されている・・ということに成る。

今後も合祀するというわけだから、

そのために永続的な祭祀施設を建立しよう――まだ、この布告の時は神社を建立する場所は”京都東山”ということになっているが、この発想はこの布告の時に既にあったということ。

そういう経緯で、明治二年六月に東京・九段坂上の現在の場所に社殿が仮設され、最初の招魂祭が行われた。この頃はまだ靖國神社ではなく、東京招魂社と呼ばれていたが、明治十二年に改称されて、靖國神社と呼ばれるようになった。

戦火に斃れた兵士の霊を慰めるのが良いこと、慰霊の祭を挙行するということが良いことと、いかなる国の軍隊にもあり得るきわめて自然な発想だと騙した。そして、戦火で死んだ兵士の霊に慰霊、鎮魂をすることは良いことだと邪悪な仏教で洗脳された日本人を騙しましたが、

靖國・招魂神社の場合は、それにとどまることなく、王政復古、「神武創業の昔に還る」という明治維新の精神に基づいて、お社(やしろ)を建立しようと考えた点に特徴があると言って良いかと思う。

⭕️王政復古、「神武創業の昔に還る」、明治維新の精神=『八紘一宇!』


天皇の奴隷たらしめた日本国の「忠」の道徳思想

靖國神社の御祭神が「天皇の国事の殉難者」である、なので天皇軍の戦死者を祀るのであって、幕府方の戦死者を祀らないのは当たり前なのであります。

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