靖国神社に祀られる魂は、元は英霊ではなく「忠霊」「忠魂」
1934文字
投げ銭制で
幕末から明治維新にかけて天皇王政復古の功のあった志士に始まり、嘉永6年(1853年)のペリー来航(「黒船来航」)以降の日本の国内外の事変・戦争など、天皇を頂点とした国家体制のために殉じた軍人、軍属等の戦没者を「英霊」として祀り、その柱数(柱(はしら)は神を数える単位)は2004年(平成16年)10月17日現在で計246万6532柱にも及ぶ。
当初は祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていたが、1904年(明治37年)から翌年にかけての日露戦争を機に新たに「英霊」と称されるようになった。
この語は直接的には幕末の藤田東湖の漢詩「文天祥の正気の歌に和す」の「英霊いまだかつて泯(ほろ)びず、とこしえに天地の間にあり」の句が志士に愛唱されていたことに由来する。
藤田東湖 『正気(せいき)の歌』
一部分だけ紹介、なんじゃコリャ!( ;´Д`)
「現代語訳」(八神邦建訳)
神州日本に君臨されるはどなたか。太古のときより天皇を仰ぐ。
天子の御稜威(みいつ)は、東西南北天地すべてにあまねく広がり、
その明らかなる御徳は太陽に等しい。
世の中に栄枯盛衰の絶えることはない。時に正気が光り輝く。
たとえば、欽明帝の御代のこと。物部尾輿(もののべのおこし)、中臣鎌子、大連(おおむらじ)の議にて、剛直なる正論をもって、
蘇我稲目(そがのいなめ)の惑える仏教を排斥した。
すなわち、英明なる帝の叡慮を助け、蘇我の仏像、海に捨て、
私寺ことごとく焔をあげて焼きつくした。
たとえば、中臣鎌足、正気をおこなう。「乙巳(いっし)の変」(大化の改新)。
蘇我氏の専横、倒して皇室国家を磐石安泰ならしめた。
抜きん出て立つ東海の日本の浜辺、忠誠つくして皇室を尊び、
両親を敬うがごとくに、天津神につかえまつる。
わが命の絶えるも伸びるも天地の神におまかせする。生きようと死のうと、疑うことなどできようか。
生きるならば、まさに主君の冤罪を晴らし、
主君のふたたび表舞台で国の秩序を伸張する姿を見るにちがいない。
死しては、忠義の鬼と化し、天地のある限り、天皇の御統治をお護り申し上げよう。
知らない人へ、天皇とは最初から敵です。
日本国は天皇が作りました、それは本当です。故に日本国がこの島国の人々の敵国となります。
桃太郎に殺され財産を奪われているのが我々の祖先。
なのでこうなります。
ちゅう‐れい【忠霊】
敵である電王への忠義のために命をおとした頭の弱い人の霊→英霊。
ちゅう‐こん【忠魂】
ひたすら国民の敵である天皇に忠義を尽くす邪悪な国家推薦の精神。「—の士」
靖国神社に祀られる魂は英霊ではなく、敵の天皇にとって扱いやすい「忠霊」「忠魂」
別に隠しても居ないが、世間はこの意味がわからない!(;´Д`A
靖国神社:田中支隊忠魂碑
大正8年2月25日、田中支隊(歩兵第七十二聯隊) は田中勝輔 少佐の指揮のもと、シベリアにおいて戦闘に従事しました。
数十倍もの敵に包囲され、ほぼ全員が戦死しました。
「村や町やの靖国」といわれる「忠魂碑」や「忠霊塔」忠霊塔建設、全国一の群馬県
「村や町やの靖国」といわれるものに「忠魂碑」や「忠霊塔」がある。忠魂碑は日露戦役後にその建立が一般化し、忠霊塔は昭和期に入ってから内地での建設が広がっていく。忠魂碑は戦死者の魂のみを祀ったものであるが(遺骨なし)、忠霊塔は戦死者の墓とされ、納骨が前提とされていた。したがって現今の戦死者慰霊施設としては、遺骨を収容しない靖国神社と、その実質的な末社たる各地の護国神社は、「巨大な忠魂碑」と考えられるが、一方の忠霊塔は、むしろ千鳥ケ淵戦没者墓苑に繋がる系譜と思われる。
この話のまとめ
忠魂碑は遺骨なしで戦死者の魂のみを祀ったものである。
忠霊塔は納骨されており戦死者の普通の墓。
したがって遺骨を収容しない靖国神社と、その末社たる各地の護国神社は、「巨大な忠魂碑」と考えられる。
一方の忠霊塔は、むしろ千鳥ケ淵戦没者墓苑に繋がる系譜と思われる。
おわり
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