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9仏教を広めたアショーカ王はユダヤ人の王

デヴァナンプリヤ・プリヤダルシン王とは、アショーカ王の碑文での自身のペンネーム。

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小学生のありがたいことわざ

アショーカ王の行い

●アショーカ王は父王=ヒンドゥサーラに疎まれていた。

●父王がアショーカを反乱が起きたタクシャシラーにーーわざと危険の地にーー派遣したのだ、とも言われている。

●いずれにしても、アショーカ太子とビンドゥサーラ王との間に反目があったことは確実。

●アショーカ太子は王位を手に入れるために、自分の異母兄弟を殺しはじめた。父王の病気の報に接するや、急遽、首都のパータリプトラに帰って、長兄のスシーマ太子以下99人の異母兄弟を殺戮。ビンドゥサーラ王に百人の王位継承者がいたが、アショーカ王は全部殺してしまった。そうして王位を手に入れ、マウリヤ王朝の第三代皇帝となる。


●アショーカの即位後の出来事で、大臣たちが彼の命令を無視した。三度に渡って自分の命令が無視されたとき、怒った彼は五百人の首を刎ねた。

●後宮の女官たちが、庭園のアショーカの樹(無憂樹)の枝を折り、花を摘んで捨ててしまった時、彼は五百人の女官を焼き殺した。


●アショーカ王はギリカという名の凶暴なる死刑執行人を雇っていた。キリカのために家を立て、このギリカの家に迷い込んだ者を、ギリカに自由に殺させていた。ところがある日、1人の仏教僧がギリカの家に迷い込み、ギリカによって地獄の責め苦を受ける。けれども、僧は騒然自若としていて、ギリカは殺すことが出来ない。ギリカに呼ばれてギリカの家にやってきたアショーカ王は、そこでギリカを殺して僧に帰依した・・。

●アショーカ王の史実的に重要はカリンガ国征服戦争では、カリンガ国の兵士の15万人が捕虜となって他の地方に移され、そこで奴隷に。また捕虜となった10万人は、その場で殺された。戦争で死んだ兵士は、その数倍であった。戦闘員ばかりではなく、多くの非戦闘員が殺された。

●即位後のアショーカ王の統治高位は、祖父が築いた大領土を保持継承し大帝国を作り上げた。そして、この広大な領土を、中央直下統治と地方総督によって統治される西北・西・東南・南の地方に分け、各地に地方総督を補佐する多数の行政官を送り込んだ。さらにアショーカ王は、これらの役人を統制監視するためにスパイを送り、数年ごとに巡回監視官を派遣する制度を儲けている。

●「わたしが食事中であれ、乗輿の上であれ、あるいはハーレムにいるときであれ、馬場であれ、いつでも、どこでも、上奏官は人民に関する事情を私に報告せねばならない。そうすれば、わたしはどこへいようと、即座に事務を裁くであろう」

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しかしアショーカ王の出来事は、後に仏教に帰依したために、仏教の平和主義の美しい逸話とされる。このパラドックスの謎。


アショーカ王の碑文からアショーカ王の悔い改め

デヴァナンプリヤ・プリヤダルシン王が8年間油そそがれたとき、カリンガの国は彼によって征服されました。そこから強制送還されたのは15万人、そこで殺害されたのは10万人、そして死んだ人の数は何倍もあった。その後、カリンガの国が占領されました。 デヴァナンプリヤは、道徳の熱心な研究、道徳の愛、そして道徳における人々の指導に専念しています。

 これは、カリンガの国を彼が征服したことによるデヴァナンプリヤの悔い改めである。なぜならば、人が征服されていない国を征服している間に、そこでは人々の虐殺、死、強制送還がそこで行われていることを、デヴァナンプリヤによって非常に苦痛であり、そして、哀れであると考えられているからです。

アショーカ王は、自身が侵略大戦争で他国の人を殺しまくった後に、悔い改めをし、道徳のおふれを出した。これが美談と思う仏教徒の気持ちはさっぱりわからない。


キリスト教を作った首謀者、ユダヤ人パウロを思い出すねぇ〜〜。

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