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サイイド・クトゥブ

3795文字

イスラム原理主義のバイブル『マイルストーン』、凄まじい邪悪さで驚くから読めと思うが。

値段が高いし、文字数も多くハードカバーの本の半分近くある。ふと読む分量ではない。。というわけでこのnoteをどうぞ。『マイルストーン』、サイイド・クトゥブの脳内の良い要約です、これがイスラム原理主義。ハマスに洗脳されたパレスチナ人の頭の中はこう


サイイド・クトゥブ

サイイド・クトゥブ(アラビア語:سيد قطب‎、1906 年 10 月 9 日 - 1966 年 8 月 29 日)は、エジプトのイスラム主義者で、ムスリム同胞団の指導者であり、兄のムハンマドを通じてアルカイダ グループに、また弟子のアイマン・ザワヒリを通じてエジプト イスラムジハード(聖戦)にインスピレーションを与えた。

左:ビン・ラディン     右:アイマン・ザワーヒリー

サイイド・クトゥブ:伝記

クトゥブはエジプトの小さな村、ムシャで育ち、コーランに基づいた伝統的な教育を受けた。カイロに移り住み、1929年から1933年まで西洋式の教育を受け、教育省の教師として職を得た。この時期、彼は明らかに世俗的な改革者であったが、政治よりも文学に関心があった。彼は『アシュワク(茨)』などの小説を書き、リベラルなエジプトの小説家ナギーブ・マフフーズを世に知らしめるのに貢献した。1939年、クトゥブはエジプト教育省の行政官となった。

『アシュワク(茨)』Ashwak (Thorns)
ナギーブ・マフフーズ Naguib Mahfouz

1948年、クトゥブは奨学金を得て米国に派遣された。表向きは教育制度を研究するためであったが、おそらく当局が彼をエジプトから追い出そうとしたためであろう。彼はコロラド州グリーリーの当時のコロラド州立教育大学 (現在の北コロラド大学) で学んだ。クトゥブのアメリカ滞在は明らかにカルチャーショックだったが、その素地は事前に準備されていたに違いない。グリーリーの町は厳格で保守的だったが、クトゥブはいたるところで罪を見ており、その時代の彼の記憶には女性差別的で人種差別的な観察が散りばめられている。「彼は、米国から移動する船に乗っている間に、米国が女性の『代理人』を送って彼を誘惑したと主張した。」。彼は男女間のダンス、ジャズ音楽、民主主義制度、そしてアメリカで見たほとんど総てのものに衝撃を受けた。

クトゥブは結婚しなかった。それは、自分の理想に合うほど純潔で、イスラム教における女性の従属的地位という自分の考えを満たしてくれる女性を見つけることができなかったからだと彼は主張した。性的純潔に対する彼の執着、結婚したことがなく、性的接触もなかったという事実は、抑圧された同性愛、あるいは彼の思考を彩る精神性障害を暗示している。

クトゥブの最初の宗教的社会批判に関する主要な理論書である『イスラムにおける社会正義( Al-'adala al-Ijtima'iyya fi-l-Islam)』は、1949年に米国滞在中に出版された。

サイイド・クトゥブ『イスラムにおける社会正義』
Al-'adala al-Ijtima'iyya fi-l-Islam

エジプトに帰国したクトゥブはムスリム同胞団で積極的に活動し、すぐに指導的な役割を担った。同胞団のイスラム主義者たちはガマール・アブドゥル・ナーセルと自由将校団のクーデターを支持した。新政権がエジプトを神政国家にすることを拒否すると、クトゥブとムスリム同胞団はナセルの殺害を企てた。この企ては失敗し、クトゥブは1954年に投獄された。

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