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注意:殷王朝と商朝は同じ

2440文字
いや〜〜非常にわかりづらい話だと思う。多分、日本人も中国人も分かってないから、意味不明なことになっているんだと思う。大昔のことだしね。こんな問題があるということだけ頭に入れといて。( ;´Д`)

🇯🇵殷王朝=🇨🇳商朝は同じ

この古代の国に関して、日本と中国で違う解説をしている。

歴史豆知識サイトなどでは逃げているが、このサイトはわからないまでも、中国と日本の中学の教科書の言い分を載せている。(たぶん、中国側が正しいと思っているかな、「本来は商といった」と冒頭に書いているし。)

殷墟

伝説上の存在と考えられていた殷王朝の盤庚が遷都した後の殷都の遺跡が発見された。

古学的に最重要な証拠である殷墟が発見され、1928年より発掘作業が開始され、発掘物やその大量の甲骨文字が解読されたことから最近になり重要なことが色々わかって、学説がリアルタイムで変わっていったのだと思う。1983年、1997年まで発掘は続いているみたいだね。

殷墟

◉日本ではこの王朝を『殷』と呼び、都を「商」と呼ぶ
◉現代の中国では、この王朝を『商』と呼び、都を「殷」と呼ぶ。

⭕️日本と中国で同じ王朝なのに呼び名はアベコベ。

このため中国語の自動翻訳では自動的に殷と翻訳する。中国の文献を翻訳していて混乱し死にそうだ!ありがた迷惑!(;´Д`)。


◉もともとは殷王朝と呼ばれていたから、20世紀初頭に発見された殷の廃墟は殷墟と呼ばれたんだろう?


注意 殷と商

現在、『史記』などの文献情報が、考古学の発掘調査などによって確かめられ、修正されている。ほぼ認められていることは、次のようなことである。

紀元前1600年頃、夏王朝の桀王が治世が乱れたので、湯王が立って夏を滅ぼし、当時は商と言った王朝を建てた。湯王は名臣の伊尹の補佐を受けて統治を行い、国は治まった。都ははじめは河南省偃師)商城に置かれたが、たびたび遷都され、後期の王の盤庚の時に河南省安陽市の”現在”、殷墟と言われる所に定着しそれ以降、最後の紂王まで続いた

亳=河南省 偃師区

問題の王朝の名前の話

🇯🇵日本の説明

◉『殷王朝』の後期の都は「商」➡︎甲骨文字で「大邑商」とも書かれているし、たびたび遷都され、後期の王の盤庚の時に河南省安陽市の現在、殷墟と言われる所に定着しそれ以降、最後の紂王まで続いた。
◉殷は、商という大邑が他の邑を服属させる邑制国家であったので、殷王朝は商王朝”とも”呼ばれる。

邑制国家
中国古代 (殷~春秋時代) の宗族的支配体制。邑土国家ともいう。これを都市国家と呼ぶ説もある。邑とは村や町をさす語で,通例は土城で囲まれていた。邑の大きなものが都で、中心となる都邑が国と呼ばれた。

⭕️ワシ:巴の説明をしだしたら膨大になるここでは、大巴(都・首都)、巴(市・村)と単純な定義にし話を進める。都・大都市が国みたいなもの。
周辺の(市・村)は県みたいな構造で支配している社会。(古代ギリシャのアテナイは都市国家だったよね)

🇨🇳中国の説明:『中国中学校歴史教科書』2001

『商朝』の都は「殷」➡︎商王の盤庚が殷へ遷都すると、国は安定し始め、商の統治範囲は拡大しつづけ、当時の世界の大国となった。後世の人は商を殷と呼んでいる。

⭕️国名だけでなく、都、首都名も日本と中国ではアベコべ・・・。だから中国は殷だから殷墟と呼び、日本は商墟とは今更変えられない・・。


🇯🇵ウィキペディア:の情報

(王朝名の解説文で、ワシが足りないところを修正しなががらまとめた文)

殷墟から出土した甲骨文字には、その王朝名、および「殷」という文字は見当たらない。
◉当時、首都名は「商」と呼ばれていた。
◉次の王朝の周は、先代の王朝名として「殷」を用いた。➡(多分、そのまんま現代へ)


何尊(wiki)

何尊(かそん)は西周成王時代(紀元前11世紀)の銅尊。「何」という貴族がつくらせたのでこう称する。何尊の内庭には122字の銘文があり、「中国(𠁩或)」という言葉が見られる最古の文字記録がある。

周の文王が大命(天命)を受け、武王が商()を滅ぼし、成王が成周(現在の洛陽市)へ遷都したことを記している。➡︎

ワシ:確認

曰:「𢑩玟王受𢆶大命隹珷王既克大邑商,𠟭廷吿于天,曰:『余𠀠宅𢆶𠁩或,自之辥民。』

言う:玟王が大命を受け、隹珷王が大邑の商に既に勝ち、天廷(天の役所)に報告、(文字化けしてダメ)

唯王初遷󠄁宅於成周,復稱武王禮,福自天。在四月丙戌,王誥宗小子於京室,曰:昔在爾考公氏,克弼文王,肆文王受茲大命。唯武王既克大邑商,則廷吿於天,曰:『余其宅茲中國,自之乂民。』嗚呼,爾有唯小子亡識,視於公氏,有爵󠄂於天,徹命,敬享哉!唯王恭德裕天,訓我不敏。」王咸誥,何賜貝卅朋,用作庾公寶尊󠄂彝。唯王五祀。

曰:「昔在爾考公氏,克弼文王,肆文王受茲大命。唯武王既克大邑商,則廷吿於天。」

言う: 「昔、なんじ考え公氏がいたとき、私は文王を勝つよう助け、文王はこの大命を受けた。ただ武王が既に大邑の商に勝ち、すなわち廷(役所)は天に告げる。

大邑商➡︎大邑の商だ、確かに「商」。


【ワシ説まとめ】

中国と日本の説を見比べ唸ってみた・・。

中国のウェブに転がっている商朝の地図

🇨🇳中国:商朝の都は「殷」➡︎殷への遷都ののち、商の統治範囲は拡大しつづけ、当時の世界の大国となった。🇯🇵日本wiki:周は先代の王朝名として有名になった「殷」を用いた。➡︎何尊の意味:武王は敵の商の都の「殷」で勝った。

と言う話なのでは?

現代も殷墟と呼ばれていたように、その地は「殷」と呼ばれていた。


🇯🇵日本は何尊の意味を取り違えたんじゃないかなぁ〜。

大邑(首都)で、商国の軍勢に勝った、陥落させた。首都まで攻め込まれたら末期だよね。または、大邑(首都)で、”商人”の軍勢に勝った。

という意味だったりしないかな?(;´Д`A

天皇の国、日本はあまり商人のことをほじくり返されたくないのかも??

じゃないかなぁ〜という話でした。

おわり

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