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靖国神社の元、招魂社の年表&初の招魂社を作った福羽美静

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はじめに

今までは招魂社の中身を調べた。これは歴史を確認するnote。
◉招魂社は薩摩・長州の両藩に偏って存在している。

靖国神社は招魂社、このnote書くためにモロもろ諸もろ確認も同時にやってたんだが、⬇️

日本初と紹介されてる招魂社は4つもある!(汗)

⓵1862年福羽美静が尊皇の志士を京都東山の霊山にまつり、八坂神社に小祠を立て祭ったのが最初だが、コレは”私祭”。

⓶高杉晋作の流れの1864年の櫻山招魂場は藩の祭で、後で官祭とされた?

⓷1868年(明治1)5月の明治天皇の太政官布告出できた「霊山官祭招魂社」。これは官祭だ。

⓸1868年(明治1)7月、山口藩主・毛利敬親により「山口藩招魂社」

ワケがわかんないので、確認作業もしたんだがこれが大変で・・どの神社も自身が最初だと言いたがっているような・・(;´Д`)

⭕️そこまで詳しい証拠も無いのだが、結論から言うと源流は”福羽美静”と”大村益次郎”が明治天皇に招魂社を説明し、今になるんじゃないかなぁと思う。

今回は膨大な靖国・招魂社の情報を整理した資料
もっと調べたい人への土台


1.靖国神社の元、招魂社年表

最初に、京都東山を覚えておいて欲しい。

⭕️このnote記事の半分以上は、京都東山の霊山でおきた出来事の話である。

◉文化6(1809)8月、江戸時代後期、村上都愷が、徳川幕府の寺請制度の政策下にありながら、正法寺(時宗国阿派の本山)の塔頭清林庵所有山林の1,000坪を買い受けて、神葬祭場を開拓し、同年11月、京都東山霊明神社」を創建し、神道葬祭を断行した。以後、幕末期の動乱で犠牲になった、尊皇攘夷(天皇側)の志士の葬儀が行われる。各藩の戦没者が祀られた。

村上都愷

「霊明神社」を建立した村上都愷(1752‐1819)

国学にカブレ、門人を集めては神道を講じ、諸処国々へも出向いた。士分町人の別なく「我が国は神国なれば誰人も”神ながらの道”によるべきこと」マジ本当にこの迷惑な台詞を説き、その徹底のために「神道葬祭」を起こす。

村上都愷の奥都城(神式の墓)「かんながら」式、なんだろね。

⭕️まだ招魂社ではないが、神道式の墓の最初で靖国の根っこのルーツ。


◉1853年(嘉永六年)、黒船来航

ここから思いっきり変わる「癸丑以来」

幕末の志士の履歴を語るのに、「癸丑(きちゅう)以来」というひとつの枕詞がある。癸丑とは干支のひとつであり、ここでは1853年、嘉永6年をさす。いわゆる黒船来航の年であり、実質的に幕末の動乱がはじまった年だ。

リンク

「アヘン戦争が日本にも来た」という衝撃

維新を成し遂げるために多くの人命が失われてきたが、「癸丑以来」とは、その幕末の草創期から活動をしてきたことを物語る。長州藩の桂小五郎が、維新後明治政府のあり様を弾劾するときによく使った常套句でもある。

さて、その癸丑以来となる黒船来航。日本国中に衝撃が走り、天地をひっくり返すような大騒ぎとなったわけであるが、それは「見たこともない自動的に動く巨大船がやってきた」という驚きではなかった。「アヘン戦争が日本にも来た」という衝撃であったのだ。


文久2年(1862)京都に参集していた志士たちが京都「東山の霊明舎」に会し、殉難の志士の霊祭を神式でとりおこなったことがある。

文久3年(1863)、国学者・福羽美静(1831‐1907)らが討幕運動で非命の最期をとげた尊皇の志士を京都東山の霊山にまつり、八坂神社境内に小祠を建立したのが招魂社の最初である。(幕府の嫌疑を恐れた福羽はこれを取りこわし、自宅に祭りなおした)。⭕️ポイント:最初の招魂社は国の官祭でなく私祭である。

国学者・福羽美静(1831‐1907)
後でまた出て来るから覚えておいて。

◉1863年江戸時代の幕末、長州藩(山口県)高杉晋作(1839~1867年)(満27歳没)が下関戦争での戦没者の霊を慰めるため、また、今後の戦いに臨むに当たって自分たちの生前にあらかじめ建てておく墓が必要であると発議し、奇兵隊の賛同を得て隊員共同の招魂場を設置することになった。

櫻山招魂場(現・櫻山神社)は、1864年(元治元年)5月に山口県下関市に築かれ、翌年1865年8月に社殿が完成した。その後の四境戦争、戊辰戦争の戦没者を始め、吉田松陰や久坂玄瑞といった倒幕と維新のために尽力した志士を合祀している。逆算したんだが、

高杉晋作は27歳で死ぬから、23〜24歳の頃に自分たちの墓が必要だと言ったんだね。生前にあらかじめ建てておく墓が必要だと言っただけで、招魂場が必要だと言ったわけでもないような・・ この若さでは何も分かんないだろ?

リンク 櫻山招魂場↓
アホや

◉討幕諸藩でも招魂慰霊がなされ、長州藩では1864年(元治1)に藩主により山口市赤妻に設置された。

櫻山招魂場                  山口市赤妻

◉同じ長州藩で同じ1864年(元治1)に2つ。どっちが早い?櫻山招魂場 は1865年8月に社殿が完成なので、山口市赤妻の方が早そうだな。


◉その後、1868年の戊辰戦争後に、官軍(薩摩、長州、土佐、肥前4藩)将校の招魂祭を江戸城(現在の皇居)で行うとともに、京都東山(現京都市東山区)では官軍の戦死者を祀った。

◉これを機に、幕末、明治維新期の戦没者を慰霊、顕彰する動きが全国的に活発になった。戊辰戦争にあたって官軍全体の作戦の総まとめを行った大村益次郎が、この動きの全国版を作ろうとし、明治天皇に東京に招魂社を創建することを申し述べた。

日本陸軍の創始者である大村益次郎(1824~1869年)44歳没。

大村益次郎は日本陸軍の創始者となる。それは明治時代の国民皆兵、徴兵制である。明治時代の兵制は、1872年の徴兵告諭に基づいて翌1873年に徴兵令が発布された。また、"徴兵令による天皇の軍隊"の創設大村益次郎が構想して、山県有朋が実現したとされている。

山縣有朋出生地(現在の山口県萩市川島)
最終階級・称号は元帥陸軍大将。位階勲等功級爵位は従一位大勲位功一級公爵。


内務卿(第9代)内務大臣(初代)内閣総理大臣(第3・9代)司法大臣(第7代)枢密院議長(第5・9・11代)陸軍第一軍司令官 貴族院議員 陸軍参謀総長(第5代)を歴任。


◉明治元年、慶応4年5月10日西暦1868年10月23日太政官 招魂社布告

(日付がややっこしい・汗、理由は→リンク

太政官とは、日本のほぼ奈良時代から始まる最高行政機関。律令制に基づき司法・行政・立法を司った。

慶応4年5月10日に布告された、京都東山癸丑(黒船)以来の忠死者を祀る祀宇を設けるとの太政官布告と、伏見の戦い以降の戦死者の霊魂を祭祀する一社を建立する二つの太政官布告が出た。招魂社は、この二つの布告が起点となって創建された神社とされる。

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