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招魂神社写真+ちょいメモ

4253文字

靖国神社は招魂社。世間で言われている説はハズレていると思って、自身で新たに靖国神社は招魂社の記事を書くために勉強してたんだ。その資料の一部、写真メインのnote。元サイトの方が回りが黒なので綺麗に写真見れるぞ。

櫻山招魂場
社寺跡又は旧境内 / 中国・四国
山口県
指定地面積は、櫻山神社境内地のうち307.44㎡。指定地内には、招魂碑391基が立つ。碑は、全て方柱型の花崗岩製であり、色調により橙色・黄色・白色・緑色の4系統が観察される。
下関市上新地町二丁目2406番1
下関市指定
指定年月日:20150421
記念物
関連する指定地外の神社境内地の記念物について、鳥居、石燈籠、手水鉢、明治天皇勅宣碑、櫻山招魂場碑、競馬場改築寄附芳名記念碑、内田重成翁欽仰碑、木陽子碑、筆跡混帖碑、境界標石がある。

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桜山神社

桜山神社招魂場

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元治元年(一八六四)一月、高杉晋作の発議によって創建された招魂場で、慶応元年(一八六五)八月には社殿も造営され、招魂社としてはわが国最初のものといわれている。創建当初は、文久三年(一八六三)五月十日に始まる下関攘夷戦において戦死した奇兵隊士の霊を弔うものであったが、後、小倉戦争(四境戦争)や北越戦争(戊辰の役)で戦死した者、さらには長州の尊王討幕運動に輝かしい名をとどめる吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、山縣有朋らの霊も加え、今日では三百九十六柱の志士がここに祀られている。

この招魂場のもつ尊い意味は、偉大な指導者吉田松陰から奇兵隊小者弥吉といった名もない者にいたるまで等しく祀られていることで、整然と立ち並ぶ霊標の姿は、奇兵隊における武士、町人の身分制を超えた新しい時代への理念を伝え、胸を打つものがある。

なお、この地は奇兵隊調練場跡でもあり、招魂場となって以後桜を植えたことから、桜山と呼ばれるようになったもので、下関市内の数多い維新史跡の中でも、ことに重要な意味を持つ聖地ということができる。
(掲示板説明)


猛 烈 奇 兵 何 所 志
要 将 一 死 報 邦 家
尤 欣 名 遂 功 成 後
共 作 弔 魂 場 上 花

弔む羅和留人尓入るべき身なり志尓
弔む羅宇人となるそは津か志
謹 弔
霊魂
故奇兵隊士東行狂生

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猛烈の奇兵何の志す所ぞ
一死をもって邦家(国家)に報いんと要す
尤も欣ぶ名を遂げ功成りて後
共に弔魂場の花と作らんを

弔らわる人に入るべき身なりしに
弔う人となるぞはずかし

筆蹟混帖 長さ一丈二尺  巻頭東行狂生書
諸名家の作を集めたもの       
慶応元年八月 日  招魂場祭事


桜山神社招魂場碑


明治天皇勅宣

長門国桜山招魂場を弔し給える勅宣

弔する=ちょう・する〔テウする〕人の死をいたんで、くやみを述べる。とむらう。「心から—・する」
弔=とむらう。人の死をいたんで悔やみを述べる。とむらう。
意味はともらうだ。

七卿史跡

維新回転発祥地
櫻山招魂場を視察
文久三年(一八六三)八月十八日の政変により、三條實美卿等七卿は、京都妙法院をあとに、西下長州に向う。

翌元治元年三月二十六日、六卿は馬関砲台を巡視発程の途上錦小路は病を発し、二十九日彦島巡視の予定を延べ同日晴八ッ時五卿方招魂場ご覧あり、帰路鋳造場へ立寄らる。
頼徳卿は馬関にて靜養中遂に客舎にて逝く追惜何ぞ堪えんや

櫻 山 神 社
(掲示板説明)



東京招魂社を造るべしと提案したのは、長州の百姓から学問で出世した大村益次郎であった。忠君のための出身階級を超越した戦争戦死の死霊共同思想とでもいえようか。)

大村益次郎の「子孫は皇族と結婚」リンク

赤き直き心で(清き明き心)
家を亡ぼし
身を擲(投げう)って
もって安国

赤き直き心で・・意味わからないんだけど、
古事記を読んでいて「赤き心」という言葉がありました。調べてみると「(神に誓って)邪心のない清らかな心」のことでした。という情報が。
リンク



日本の陰陽道(メモ)

平安時代の中頃から貴族社会に浸透した。初見は『小記目録』第8巻「御祭事付解除」の「永延二年十月十一日招魂祭時」という記述。

「永延二年」は988年。人には「魂」というものがあると信じられ、熟睡したり悩み事に屈託したときには衰弱した肉体からその「魂」が遊離すると考えられていた。

そのため、病気やお産などの際に身体から遊離した魂を屋根の上で衣を振るなどして招き戻す祭祀を行った。

生者に対して行う祭祀であり、死者に対して行うことは禁止されていた。禁を破った者は罰せられた(『左経記』1025年8月23日条)。

世間は神道が善、中国道教の招魂術が悪というネトウヨ先入観で頭がいっぱい。ココは逆。後ほど話す。


気になる情報、詳しそうな方

さて「招魂祭」は、体内から遊離した魂を呼び戻す呪術で、タマヨバヒともいいます。屋根の上にのぼり、衣を三度振って、死者の霊に帰って来いと呼ぶわけです。『万葉集』などの古代からあったとされるのですが、じつは確実な例は十一世紀前半、陰陽師・中原恒盛が執行したのが最初です。

このとき、陰陽寮の上役たちは恒盛にたいして、タマヨバヒは陰陽道の典拠の本に出ていなので違反であると、祓えを科そうとします。それにたいして恒盛は、儒者の清原頼隆から「招魂祭」の典拠は、『礼記』『儀礼』に出てくることを教えてもらいます。

面白いのは、ここに登場する「中原」や「清原」たちが、儒学系の法律学者の家系であり、その家の学者たちが、九世紀後半、神祇官が管轄する「鎮魂祭」についても、やはり『礼記』などを使って注釈をしていること、そして彼らの言説から、ヒ・ト・フタ・ミ・ヨ・イツ・ム・ナナ・ヤ・ココノタリヤ。フルヘ、ユラユラトフルヘという有名な呪文が出てくる『先代旧事本紀』が浮上してくることです。って、面白がっているのは僕だけですか~。

日本の陰陽道では死者に対しては行わない点が中国の道教との大きな相違点である。

そう。でも何故靖国では招魂の術を使うのか?元々、天皇・朝廷も招魂の術はご法度だった。これ、分かったよ。

中国の道教

道教では死者に対しても招魂祭を行う。但し、復活の儀式ではない。リンク
(かなりズレている考察が多いが役に立った情報多し)


魂呼・招魂(読み)たまよばい

死人の魂を呼びかえすこと。また、その呪法。死者の出た家の屋根に登り、大声で死者の名を呼ぶなどするもの。明治時代まで広く行なわれていた。魂呼び。

民間か天皇・朝廷か分かると良いのだが・・・

※小右記‐万寿二年(1025)八月七日「昇二東対上一〈尚侍住所〉魂呼」

※浮世草子・新可笑記(1688)二「されば唐土の魂呼(タマヨバヒ)とてむなしきからだを呼生たるその例多し」

翻訳:「されば、唐土の魂呼とて、むなしき身体を呼生たる、そのは例多し」

魂呼ばい

魂呼ばい(たまよばい)とは、日本および沖縄の民間信仰における死者の魂を呼びかえす呪術行為である。死を不可逆的なものと見なさず復活の可能性が信じられたところからくる。

具体的なものとしては、死者の出た家の屋根に登って、大声で死者の名を呼んだりする風習があった。

魂呼ばいが記録に残っている例としては、平安時代の『小右記』万寿2年6月に藤原道長の娘尚侍が死亡した夜行われた例が見える。このことからも当時の貴族の間にも儀式の慣習が残っていたことがうかがえる。

沖縄では「魂込め(マブイグウミ)」「魂呼び(タマスアビー)」などの呼称があり、久高島では「マンブカネー(魂を囲い入れる、というような意味)」と呼ばれる。マンブカネーで興味深いのは、儀式から魂の出入り口が両肩の後ろ辺りに想定されていると思われる点である。

魂や心にまつわる怪談ものや心霊ものとは?

葬式屋のHP面白い!(^_^;)
招魂に関係あるところだけ抜粋、面白い情報他にもあるよ。

(3)自分自身が交通事故または急病で倒れ、意識を失っている最中、病院に担ぎ込まれ、ベッドに寝ている。医師や看護師が懸命の処置をしているそばで、呼び寄せられた家族や恋人が泣きながら自分の体に取りすがり、名前を必死に呼んでいる情景を見下ろしている。それを見ている今の自分は何なんだ…と思った瞬間、自分はベッドに寝ている状況で目が覚めた。「よかった!意識が戻った!」とみんなが驚き、喜ぶ。


魂呼とは?

「おまじない」とわからず、今日でも我々が行っている行為がある。それは「魂呼(たまよばい)」である。人の臨終、または死の直後に、枕元などでその人の名を呼び返して、蘇らせようとするおまじない、または習俗である。これは先に紹介した3の例で、家族や友人、恋人などが必死の思いで、「神様仏様!どうか危篤状態の〇〇さん、息子/娘/夫/妻/父/母/孫/おじいちゃん/おばあちゃんを助けて!」とその人の名前を連呼する。人目もはばからずに絶叫する。その必死の叫び声が聞こえ、肉体から抜け出した魂がハッ!あれ?と気づいて、自分の肉体に戻る。そして目を開け、息を吹き返すと考えられていたのだ。

大声で叫ぶばかりではなかった魂呼

日本思想史の研究者・佐藤弘夫によると、医療の未発達、迷信俗信が現在の比でなく強かったため、人が死にやすかった前近代までは、人が死んだからといって即、火葬なり土葬なりで埋葬してしまうことはなかった。病気や不慮の事故などで肉体から離れてしまった魂が再び肉体に戻ってくることができるよう、遺体は自然腐敗のプロセスに任せていた。季節にもよるが、1週間か10日ぐらいで遺体は膨張し、変色し、腐敗していく。こうした「諦め」がついた期間を経て、遺体は埋葬されたのである。


 
また、「魂呼」の儀式は、ただ名前を大声で呼ぶばかりではなかった。『魏志倭人伝』(280〜297年頃成立)の「倭人」こと当時の日本人は、亡くなった人物が出ると、10日以上にわたって、喪主は大声で泣き、集まった人々は歌舞飲食を続けたという記述がある。それは、魂が自分の遺体の周りで、楽しそうに歌を歌ったり、踊ったり、おいしそうなものを食べたり、お酒を飲んだりしている自分の知己の者たちを見て、「自分も仲間に入れて!」と、肉体に戻ってくるのを期待してのものだったようだ。

今現在、「魂呼」の意味合いは忘れられ、葬儀の折に親戚一同、友人一同が集まって、酒盛りを始め、高歌放吟をしながら、故人を偲ぶ。または、この葬儀の「おかげ」で、久しぶりに再会する羽目となった友人知人と「積もる話」をするのも、昔ながらの日本の「お葬式」の風景でもあった。

歌舞歌ったり舞ったりすること。

殯(もがり)

おわり


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