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70.シオニズム とディアスポラの真の作者はヤハウェ!シオニストの源流は主ヤハウェだっちゅ〜の!!( ;´Д`)

カナン人の神、バアル・ベルゼブブの事も書いてあるよ。

こちらが世間の最上のシオニズムの理解の記事になる。結構最上の陰謀論者もシオニズムの父は、ユダヤ人テオドール・ヘルツルだと思っている。それは違うよ、と指摘するレベルで、シオニズムの父は、キリスト教プロテスタントなのだね。プロテスタントの言葉でユダヤ人は目が覚めた。イスラエルに帰らなければいけない・・。

しかし、キリスト教プロテスタントは何故、ユダヤ人はイスラエルに帰らないといけないと思ったのか??聖書を読み込んだからだ。そうでないと、救世主が降りてこないシナリオなんだね。これで、ユダヤ人もクリスチャンも利害が一致した。

シオニストはユダヤ教正統派だけでなく異邦人のクリスチャンもだ。

基本、聖書は旧約聖書が神の言葉、ユダヤ人の歴史の書である。ここに今現在の世界の大混乱の秘密が書いてある。大混乱の著者はヤハウェ。


カナンの歴史Wikipediaから部分翻訳 リンク

トーラーことモーセ5書読み込んだので意味が分かるので、わかりやすく部分翻訳していく。変えた部分と重要部分が太文字。

カナンという名称の起源は不明であるが、文献への登場は紀元前3千年紀と古い。シュメール人の都市マリの紀元前18世紀の残骸で発見された文書では、政治的な共同体として見いだされる。

紀元前2千年紀には古代エジプト王朝の州の名称として使われた。その領域は、地中海を西の境界とし、北は南レバノンのハマトを経由し、東はヨルダン渓谷を、そして南は死海からガザまでを含む。

カナンは”イスラエル人到来前には”民族的に多様な土地であり、「申命記」によれば、カナン人とはイスラエル人に追い払われる7つの民の1つであった。また「民数記」では、ユダヤ人は地中海沿岸付近に居住していたに過ぎないとも分かる。この文脈における「カナン人」という用語は、「フェニキア人」に符合する。

カナン人は実際にはイスラエル人と混住し通婚した。ヘブライ語はカナン人から学んでカナン人を殺したのである。(イスラエル王国を参照)。

まとめ「カナン人」=「フェニキア人」に符合する。

フェニキアWikipedia リンク

言語

フェニキア人は系統的には様々な民族と混交していたが、アフロ・アジア語族セム語派に属するフェニキア語を話し、現存する言語ではヘブライ語と同じカナン諸語に属する。先祖はセム系『アモリ人の一派』が小アジアから北シリアに移住したことに始まるといわれている。

彼らがフェニキア語を書き表すために発明したフェニキア文字は、古ヘブライ文字・アラム文字・ヘブライ文字・ギリシャ文字・アラビア文字など、ヨーロッパ・西アジアの多くの言語で用いられる起源となった。 ギリシア文字がフェニキア文字を元とすることから、フェニキア文字はアルファベットのルーツとされる。

発展

フェニキア人は、エジプトやバビロニアなどの古代国家の狭間にあたる地域に居住していたことから、次第にその影響を受けて文明化し、紀元前15世紀頃から都市国家を形成し始めた。紀元前12世紀頃から盛んな海上交易を行って北アフリカからイベリア半島まで進出、地中海全域を舞台に活躍する。また、その交易活動にともなってアルファベットなどの古代オリエントで生まれた優れた文明を地中海世界全域に伝えた。

フェニキア人は海上交易に活躍し、紀元前15世紀頃から紀元前8世紀頃に繁栄を極めた。さらに、カルタゴなどの海外植民市を建設して地中海沿岸の広い地域に広がった。船材にレバノン杉を主に使用した。

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フェニキア人の交易船
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フェニキア人の交易路紀・・・元前12世紀頃!から盛んな海上交易を行って北アフリカからイベリア半島まで進出

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黄がフェニキア人の都市、赤がギリシア人の都市、灰はその他。

フェニキア→「アモリ人またはアムル人」同じ。カナン人は超古代から進歩している。

アムル人Wikipediaリンク

彼らはウル第3王朝の後継者という意識を強く持ち、シュメール的な宗教観・王権観を強く受け継いだ。そのためアムル人によって建てられたイシン第1王朝などでは碑文や法典などほぼ全てがシュメール語によって書かれた。その後も彼らは行政語その他にほぼシュメール語やアッカド語を用いたため、アムル語の記録はあまり残されていない。

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ウル第三王朝は、紀元前22世紀から紀元前21世紀にかけてメソポタミアを支配した王朝。建国者のウル・ナンムは、神殿の建築や運河の建設などを行うと共にウル・ナンム法典と称される法典を定めた。この法典は、のちに古バビロニア王国でまとめられるハンムラビ法典に影響を与えたと考えられる。しかし、まもなくこの王朝はアムル人やエラム人の侵入に苦慮することとなった。シュルギ王やのちのシュ・シン王は、彼らの侵入を防ぐために防壁を設けた。

都市国家バビロンはアムル人の影響下に置かれ、紀元前1830年にバビロン第1王朝が誕生し、紀元前18世紀に第6代の王ハンムラビがメソポタミアを再び統一した。

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ハンムラビ法典に描かれているハンムラビ(左側)
ちなみに右側の王座に座っている人物は太陽神シャマシュ(アザゼル神)

「カナン人」はガチ立派な神々のルーツ。彼らが超古代から進歩進していた理由が見え隠れする。

カナン人との戦いを神ヤハウェが命じたのはなぜですか?

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