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キリスト教を布教した「ザビエル」とマラッカにいた海賊で人殺しの日本人初のキリスト教徒である「やじろう」とインドのゴア他

7822文字

天皇の国、日本国の推薦のフランシスコザビエル像はコチラ!

日本の学校の先生はこんなもので学ぶのか〜〜(#・∀・)

NHKではヤジロウをアンジローと述べるのね。(^_^;)

このnoteの続きだけど、
この記事単体でもお楽しみいただけます。(^_^;)

前回のラストから、

国家:「石で殴るの歌」の琉球王国

最盛期の琉球王国は総人口17万ほどの小さな王国であった。しかし、日本の鎖国政策や隣接する大国明・清の海禁の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。その交易範囲は東南アジアまで広がり、特に『マラッカ王国』との深い結び付きが知られる。

1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩と清への両属という体制(中華帝国の明・清の元号と日本の朝廷の元号の両方を施行する国家体制)を取りながらも、独立した王国として存在し、日本や中国の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受け独自の文化となった。

マラッカはマレーシア

ほとんど赤道

マレーシア:マラッカ王国時代の王宮を復刻した建物

日本に似ている。貿易で栄え植民地支配も多く受け、あらゆる文化があるんだけど、琉球王国を調べていくとマラッカが出るので検索してチラチラ見てたのだ。

天皇の国、日本国はフランシスコ・ザビエルを立派な偉人と歴史修正するための御用プロパガンダサイト様をすでに沢山作る

キリスト教と日本政府両方やっていると思う。


マラッカの聖フランシスコ・ザビエル教会

上のBlogの引用

教会の前には2人の人物像が建っています。ザビエルと日本人やじろうの像です。右側がザビエルで、左側がやじろうです。こんなところに日本人がなぜと思われるかも知れません。

マノーラ(キリスト教を布教するユダヤ人)のザビエルはマラッカで偶然やじろうと出会い、日本への伝道を決意しました。彼から日本語や日本事情を学び、一緒に日本に向かい、鹿児島に上陸しました。

ヤジロウ

名前くらいしか知らないのでWikiを読む。

生涯

ヤジロウは薩摩国あるいは大隅国(両国とも鹿児島)の出身である。彼自身やザビエルの書簡によれば、若い頃に殺人を犯し、薩摩や大隅に来航していたポルトガル船に乗ってマラッカに逃れた。ヤジロウとザビエル、二人を引き合わせたのは、1546年に薩摩半島最南部の山川にやって来たポルトガル船船長商人のジョルジュ・アルヴァレスである。仕事を終えたジョルジュはマラッカへ帰る際、ヤジロウを乗船させ、ザビエルを紹介した。

ヤジロウが以前何をしていたのかは不明確であるが、フロイスの『日本史』では八幡(海賊)であったと書かれており、海賊や貿易など海に関わる仕事だったと考えられている。

インドのゴアはココ

ザビエルの導きで(インドの)ゴアに送られたヤジロウは、1548年の聖霊降臨祭にボン・ジェス教会で、日本人として初めて洗礼を受けた。洗礼により彼は「パウロ・デ・サンタ・フェ(聖信のパウロ)」の霊名を授かった。その後、彼は同地の聖パウロ学院でキリスト神学を学んだ。

ヤジロウはザビエルから、日本でキリスト教の布教をした場合を問われ、スムーズに進むだろうと答えた。ヤジロウの(人殺しで逃げてきた)人柄と彼の話す日本の様子を聞き、ザビエルは日本での活動を決意した。

1549年4月19日、ヤジロウはザビエルに従いインドのゴアを離れ、同年8月15日に鹿児島に上陸。ここに日本におけるキリスト教布教の第一歩を記した。

その後のヤジロウの生涯については不詳である。上記の記述によればザビエルの離日後、ヤジロウは布教活動から離れて海賊の生業に戻り、最後は中国近辺で殺害されたという。また、フェルナン・メンデス・ピントの『東洋遍歴記』、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』によれば仏僧らの迫害を受けて出国を余儀なくされ、中国付近で海賊に殺害されたという。


ヤジロウが洗礼を受けたインドのゴアのボム・ジェズ教会にはフランシスコ・ザビエルの遺体が保存されている。


ゴア

インド西岸の貿易港。1510年にポルトガルに占領、植民地にされ、その植民地支配の拠点として長く続いたが、第二次世界大戦後の1961年にインドよって接収された。

旧ゴアは東方世界においてキリスト教化の中心地であった。1510年からしばらくの間は、キリスト教化は行われず、現地の慣習を観察していたが、1540年代に入って、植民地政府の支配権が明確になってからはキリスト教への改宗運動が高まった。このとき多くのヒンドゥー教寺院が破壊された。1517年にはフランシスコ会が、続いてドミニコ会、アウグスティヌス会、イエズス会がゴアに来航した。1542年には最初のイエズス会士としてフランシスコ・ザビエルがゴアを訪れている。

ゴアとポルトガルの首都のリスボンの間には喜望峰経由の定期航路が開かれ、多くのポルトガル人をアジアに送り出し、アジアの富をポルトガルに持ち帰った。1534年にはローマ教会の大司教座が設置され、ローマ教会において全アジアを管轄する中心となり、17世紀初頭のゴアはモザンビークから長崎に広がるポルトガル海上帝国の首府として「東洋のローマ」と呼ばれる黄金時代を迎えた。当時のゴアの人口は20万人に達し、市内には壮麗な教会や修道院、総督府などの建物が立ち並んで、ヨーロッパの都市にも引けを取らなかったとされる。その一方で、ゴアに住むインド人はキリスト教への改宗を強制され、また異端審問所も設置された。

異端審問所

九州鹿児島のフランシスコ・ザビエル銅像、記念碑

鹿児島が日本におけるキリスト教(布教の)発祥の地であることを記念し、ザビエル来航450周年にあたる1999年、鹿児島市のザビエル公園(鹿児島市東千石、カトリック鹿児島カテドラル・ザビエル教会向かいに設置されたザビエル、ベルナルド、ヤジロウとの群像。

マラッカの象とクリソツだ!(゚ω゚)

作った造形師が同じでは?

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