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62.偽神・天皇制は武則天の呆れた詐欺を学んだもの【前編】

人様の文なので無料 3526文字

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中国のウィキに書いてあることが分かりやすい。天皇制の詐欺に関係有るところだけ抜粋してあるが、全部読むよと良い。

武則天は前代未聞ともいえる密告制度(告密の門)を作り上げました。これにより、自分に反対する勢力をあぶりだそうとしたのです。密告されたものは唐王朝に連なる李氏一族であろうと、建国の功臣の子孫であろうと、容赦なく一族皆殺しの憂き目にあいました。

彼女は「酷吏」とよばれる役人たちを登用し、密告にもとづく粛清を実行させました。彼らは法を厳格に適用することで国民を締め付け、反対者を粛清していきます。そして、ついには自分と同族の武一族でも反対する者は処刑されるようになりました。

もちろん、排除される側も黙っていたわけではありません。武則天の天下を覆そうと各地で反乱を起こしました。しかし、反乱に同調するものは少なくすぐに鎮圧されてしまいました。そのため、武則天が生きている間、彼女の政治に反対する者はいなくなります。

古来、中国では絶世の美女のことを「傾国の美女」といいます。楊貴妃は玄宗皇帝に溺愛させ、玄宗に政治を忘れさせました。武則天を寵愛した高宗は彼女の政治関与を許します。思うままに美女を選抜できる皇帝を骨抜きにしたという点で、二人の美は絶対的なものだったのでしょう。

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武則天が自らをなぞらえた弥勒菩薩

そして自ら聖神皇帝と称し、それまで皇帝だった睿宗を皇太子にします。武則天は唐王朝が行っていた道教優先政策を改め、仏教を優先する「仏先道後」に政策を切り替えました。人事面では科挙で採用した優秀な官僚を引き続き登用します。そのため、武則天は独裁的なイメージとは異なり、安定し政治を展開しました。

子殺しで出世した武則天は仏教を篤く信仰

武則天は篤く仏教を信仰した人物としても知られています。唐を建国した李氏は老子の末裔と自称したため、唐王朝では道教が重んじられていました。しかし、彼女はその先例を覆し仏教が道教に優越するとしたのです。

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高宗が建立した奉先寺の大仏(武則天がモデルとされる)

神々は仏(釈迦)の子分としたのが天皇朝廷。神は救われるために仏の教えを必要としている。などと、ひどい嘘を天皇朝廷・比叡山延暦寺は作る・・

そして、彼女は各地に寺を建立し莫大な寄進を行いました。ついには自ら弥勒菩薩の生まれ変わりと称するようになります。弥勒菩薩はシャカの次に現れる仏とされ、56億7千万年後に地上に現れこの世を救済すると信じられました。

弥勒菩薩は釈迦の次に生まれるとされるマイトレーヤー、救世主。キリスト教ではイエスが復活する、まあ、同じ詐欺だ。天皇の神道のアマテラスの天の岩戸もそう。

まず、武則天がなぜ仏教を保護したかについて回答しますが、これは「自らの即位とその後の統治のために仏典・仏教団を利用したから」です。

元は洛陽の薬商であり後に武則天の知遇を得て寵愛された「薛懐義 」という男がいるのですが、この男は後に僧侶となりあの白馬寺の寺主になっています。

知遇人格・能力などを認められて、厚く待遇されること。厚遇。
(薛懐義は、詐欺師としての才能があった。)

このブログ主は言葉が大人というか・・・ワシはズバっと!(;´Д`)

薛懐義(せつかいぎ)(?‐695)
中国,唐の則天武后のころの妖僧。京兆鄠(こ)県(陝西省戸県)の人。本姓は馮(ふう)、名は小宝。洛陽の薬売りから、武后の愛人となり、その勧めで僧侶となった。洛陽の白馬寺を修復してその寺主となり,明堂建立の監督をしたり、《大雲経》に付会した讖文(しんぶん)を作ったりして、武周革命実現のために活動した。武周王朝の成立後、寵愛を失い、明堂に放火して、太平公主に謀殺された。

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白馬寺

この薛懐義が大雲経という経典を偽作して、武則天こそが浄光天女であり弥勒の下生であると大いに宣伝したわけです。
もちろん、これだけが保護の理由では無かったのですが自身の登位に仏典を利用する事と、李氏王族の多くが信仰し、隆盛していた仏教教団を自らの支配下に置くために仏先道後というこれまでと真逆の政策は採られていたのだと思います。

登位 位につくこと。即位すること。・・・に、仏教団を利用した。
日本の天皇・朝廷・比叡山延暦寺では『仏先神後』・・・闇の手口は同じ・・・。
でっ、明治維新後は仏を無くし神だけ残し、おのれ自身、天皇が日本の最高神だとした。


武則天は、道教を第一に保護していた唐王朝に対して、仏教を保護した

Q. 景教(ネストリウス派キリスト教)を保護していましたか?

ベストアンサー ナイト67さん 2021/11/4 16:59
まず、武則天がなぜ仏教を保護したかについて回答しますが、これは「自らの即位とその後の統治のために仏典・仏教団を利用したから」です。

元は洛陽の薬商であり後に武則天の知遇を得て寵愛された「薛懐義 」という男がいるのですが、この男は後に僧侶となりあの白馬寺の寺主になっています。
この薛懐義が大雲経という経典を偽作して、武則天こそが浄光天女であり弥勒の下生であると大いに宣伝したわけです。
もちろん、これだけが保護の理由では無かったのですが、自身の登位に仏典を利用する事と、李氏王族の多くが信仰し、隆盛していた仏教教団を自らの支配下に置くために仏先道後というこれまでと真逆の政策が採られていたのだと思います。

こうした経緯があったのですから、武則天にとってマニ教や景教は利用したり保護する理由は少ないと思いますので、景教が史実以上の大隆盛を極める事は少なかったのではないでしょうか。

大秦景教流行碑が残っていたり、武宗の廃撃を受けた後の景教徒が元代まで残っていた事も事実ではあるのですが、中国にキリスト教が根付かなかった事も事実ではあります。

民族観・宗教観や精神的な風土の違いなどが理由なのでしょうが、清代中期にあのイエズス会が布教を狙ってなお果たせなかった現実を見るに、中国及びアジアがキリスト教国化する事は困難であったように私は思います。


武宗は、唐朝の第18代皇帝。穆宗の五男。

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開成5年(840年)に即位した武宗は道教に傾斜して宮中に道士を入れ、道教保護の一方で教団が肥大化していた仏教や、景教などの外来宗教に対する弾圧を行なう。

会昌の廃仏(かいしょうのはいぶつ/えしょうのはいぶつ)は、中国唐の武宗期に行われた廃仏事件。また、仏教と共に、長安を中心に盛んであった「唐代三夷教」(マニ教・ゾロアスター教・ネストリウス派キリスト教)も排斥された。「会昌」は、その時の年号。中国史上の対仏教弾圧である三武一宗の廃仏の1つであり、第3回目に当たる。

趙 帰真(ちょう きしん、? - 846年)は、唐代武宗時期の道士。左僕射の李徳裕と共に、会昌の廃仏で武宗に関与した人物である。武宗の崩御の後、宣宗が即位し、復仏を宣言すると、趙帰真は、捕縛されて斬殺された。


ナイト67さん 2021/11/5 6:33
景教は元々は、「波斯(ペルシャ)教」とも呼ばれたように西域の人々・商人たちが信仰していたもの
です。
富裕な人が多くその喜捨によって寺院が建ったのです。

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良い情報もらったーーー!!
景教ことネトウリウスキリスト教は、「波斯(ペルシャ)教」、商人たち。これはその寺院。

◎ナイト67さんは上のブログ主なんじゃないのかな?同じ文だけど、オブラートが取れていら。それと武則天のブログ記事にはない、マニ教も景教も的確な答えだし。


大方等無想大雲経

【大雲経】より
…中国、北涼の曇無讖(どんむしん)によって漢訳された《大方等無想大雲経》6巻の略称。国王の仏教保護を説くこの仏典には、浄光天女が王位をつぐ、という一節があった。…

コトバンクの「。…」これメッチャ好き。知っていても言えない時に付いている感・・・。

【大雲経】

中国、北涼の曇無讖(どんむしん)によって漢訳された《大方等無想大雲経》6巻の略称。国王の仏教保護を説くこの仏典には、浄光天女が王位をつぐ、という一節があった。唐の則天武后の愛人、薛懐義(せつかいぎ)は、洛陽の僧法明ら9人と共同で、この経に付会した讖文をつくり、〈太后は弥勒仏の下生なり,まさに唐に代わって帝位に即くべし〉と宣伝し、689年(永昌1)7月にはこの経を全国にわかち、いわゆる武周革命の端緒を開いた。

大雲寺(中国)

中国唐代、則天武后によって設置された仏教寺院。大雲経寺ともいう。日本でも奈良時代に国分寺が全国に設置されたが、これを模したとするものもある。

なお、大雲寺は、実はウイグルのマニ教徒の寺院であるとする説もあるが、強い異論もある。

つづき



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