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27.秦氏 来日その1

4841文字

まとめるの大変だったけど、人様の情報が8割なので無料閲覧。ワシは呪いの神社仏閣にトドメを指すつもりなので、投げ銭よろしくですm(_ _)m

秦の始皇帝の末裔だと主張する百済人弓月君(融通王)が中心的人物とされる。

『新撰姓氏録』によれば、応神14年(283年)に百済から日本に帰化した氏族であり、秦の始皇帝の末裔だと主張する百済人弓月君(融通王)が中心的人物とされる。
新羅系渡来氏族。聖徳太子に仕えた秦河勝は新羅仏教系統を信奉していたが、これは蘇我氏と漢氏が百済仏教を信奉していたのと対照的である。

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◉秦氏は5世紀頃に、京都西部の桂川流域と東部の深草の鴨川流域に移住してきた帰化朝鮮人(渡来人)の巨大氏族。葛野川(現代の桂川)流域に移住した。
◉秦伊呂具(はたのいろぐ)は古墳時代に朝鮮半島から帰化した皇族、秦氏の子孫の一人で、稲荷山の三カ峰に三柱を創設したのが稲荷伏見大社の起源となる。

有名どころの秦


伏見稲荷大社を創立。
秦伊呂具

松尾大社
701年 大宝元年
遠祖の秦忌寸都理(はたのいみきとり)

太秦に峰岡寺(広隆寺)を創立した、
聖徳太子に仕えた秦河勝


広隆寺

広隆寺 は、京都市右京区太秦にある真言宗系単立の寺院。山号を蜂岡山と称する。蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれる。渡来人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した京都最古の寺院である。国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもある。毎年10月12日に行われる牛祭は、京都三大奇祭として知られるが、現在は不定期開催となっている。

創建当初は弥勒菩薩を本尊としていたが、平安遷都前後からは薬師如来を本尊とする寺院となり、薬師信仰と共に聖徳太子信仰を中心とする寺院となった。

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京都三大奇祭 『牛祭』

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イスラエルの民の金の子牛騒ぎを思い出す。変な事になったのに懲りずにやっていたのか?(;´Д`)モーセがシナイ山に登って、神ヤハウェから「十戒」を受け取りにいったが帰ってこない。我々には神が必要だとモーセが留守の時に麓では民たちが勝手に金で子牛の偶像を作って拝んでいた。帰ってきたモーセはそれを見て怒って、せっかくヤハウェに書いてもらった「十戒」を割ってしまう。

モーセは、イスラエルの民にそれは罪であることを教えた。そしてモーセはまた山に登り、イスラエルの民の罪を軽くするためにヤハウェを上手く慈悲深いお方とおだて、金の子牛を拝んだ首謀者の処刑を3千人に減らしてもらう。これが偶像崇拝騒ぎの創世記。

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モーセは再度山に登ってヤハウェにもう一度「十戒」授かった。罪の断罪が3千人で済んだのは神ヤハウェの憐れみ深いお方であるという話になるのであった。

契約の箱にはモーセの十戒が入っているのだ。神ヤハウェとの契約書。それが日本にあると日ユ同祖論の連中は、嫌〜〜なプロパガンダをするが、ワシは秦氏が日本の外道な支配層らと思っているんだよね。説明はキチンとするとするつもりで長〜〜くなるので、神道や秦氏、天皇の記事は読んでいってね。( ;´Д`)ナガイゾ〜!

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ちなみに、この取手は智天使ケルブ、複数形ケルビム、エデンの園の東に回転する炎の剣とともにケルビムを置いたのは大天使ケルビム。ルネッサンス絵画ではそのまま描写するのではなく、翼を持つ怖い赤子の顔だけの姿で表現されている。これをプット(Putto)という。顔を見せるとバレるので翼で隠しているとかどこかで読んだ。( ;´Д`)

名称定 1


広隆寺の十善戒はモーセの十戒とクリソツ!(;´Д`)

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十善戒
『十地経』(『華厳経』十地品)第二「菩薩住離垢地」で勧められる、菩薩としてなすべき十の良いことをすることの戒め。

身業
不殺生(ふせっしょう) 故意に生き物を殺さない。
不偸盗(ふちゅうとう) 与えられていないものを自分のものとしない。
不邪淫(ふじゃいん) 不倫など道徳に外れた関係を持たない。

口業
不妄語(ふもうご) 嘘をつかない。
不綺語(ふきご) 中身の無い言葉を話さない。
不悪口(ふあっく) 乱暴な言葉を使わない。
不両舌(ふりょうぜつ) 他人を仲違いさせるようなことを言わない。

意業
不慳貪(ふけんどん) 激しい欲をいだかない。
不瞋恚(ふしんに) 激しい怒りをいだかない。
不邪見(ふじゃけん) (因果の道理を無視した)誤った見解を持たない。
このBlogに秦氏関係のWEBの情報が全部まとまっている感じです。役に立つと思う。

十善戒(じゅうぜんかい)とは、仏教における十悪(十不善業道)を否定形にして、戒律としたもの。江戸時代後期の徳僧、慈雲尊者によって広く宣揚された。日本では真言宗系で重んじられるが、四国遍路の大衆化により宗派を問わず普及してきている。天台宗系では十重禁戒が重んじられる。上のBlogのその文はコチラが元かな?リンク

広隆寺の十善戒とモーセの十戒

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ユダヤ人はヤハウェに奴隷にされた。それをまた人類に押し付けているような・・・これはユダヤ人とヤハウェのみの契約。良いこと書いてあるような気がるのに何が問題なの?と思う人はこれを読んで下さい。

では、十善戒を翻訳する!

身業
不殺生 支配者を殺さない。
不偸盗 支配者に与えられていないものを自分のものとしない。
不邪淫 人口削減のため、不倫など道徳に外れた関係を持たない。

口業
不妄語 支配者に嘘をつかない。
不綺語 支配者(役人)に中身の無い言葉を話さない。
不悪口 支配者や支配者の神に乱暴な言葉を使わない。
不両舌 他人を仲違いさせるようなことを言わない。(議論はしてはいけない。優秀な者は、愚民と話を合わせなさい。)

意業
不慳貪 激しい欲をいだかない。(搾取され貧乏でも欲しがらないこと)
不瞋恚 搾取者である支配者に激しい怒りをいだかない。
不邪見 (支配者の言う道理を無視した)誤った見解を持たない。

◉これは上のリンク先の方の考察。

十善戒は聖徳太子が作ったものではなく、古くからある仏教の教えである。聖徳太子の十七条の憲法は「何々しろ」と書かれているのに対し、十善戒は「何々するな」と書かれている。十七条の憲法が聖徳太子の作だとすれば、十善戒の文面は聖徳太子に似合わない。その十善戒が広隆寺の境内に書かれているのは、聖徳太子以外の何者かの考えがあった事を推察させる。

そうかもしれないが、聖徳太子の十七条と広隆寺の十善戒はセット販売だと思うのだ。(;´Д`) 後で考察するつもり。

上の方のブログから、これは有名なんじゃないかと思うのだが。

◉京都の西に太秦(うずまさ)という所がある。その太秦には伊佐良井(イサライ)という地名がある。
◉「扶桑京華志」(寛文5年 松生元敬著)に「伊佐良井 太秦村ニ在リ。深ノ事ハ知レザル和歌有リ」と書いてある。リンク

翻訳する

「イスラエル、太秦村に在り。深い事は知れざる和歌に有り」(;´Д`)


弥勒菩薩

広隆寺の弥勒菩薩(国宝 宝冠弥勒)は新羅から渡来した者と言われている。秦氏は渡来人である。

もう、言われているなんて状態ではないな・・(;´Д`)

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この画像は、このBlogから・・・リンク 真相は分からんがワシはこの考察を唸ってしまった・・!(・・;)


広隆寺は、603年(飛鳥時代:推古天皇11年)建立。秦河勝が聖徳太子から賜った仏像を本尊として建立した京都最古の寺。その本尊弥勒菩薩像で国宝指定第1号。桂宮院(国宝)は法隆寺の夢殿に似た単層八角円堂。先程の写真の10月の牛祭は京都三大奇祭の一つ。真言宗。

平安京遷都以前から存在した京都最古の寺院で、聖徳太子信仰の寺でもある。

平安京遷都以前から存在した京都最古の寺院で、聖徳太子信仰の寺でもある。

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右は天皇の高御座

松尾大社について

五世紀の頃、秦の始皇帝の子孫と称する(近年の歴史研究では朝鮮新羅の豪族とされている)秦氏の大集団が、朝廷の招きによってこの地方に来住すると、その首長は松尾山の神を一族の総氏神として仰ぎつつ、新しい文化をもってこの地方の開拓に従事したと伝えられております。

平安京誘引
時代と共に経済力と工業力を掌握した秦氏は、大和時代以後朝廷の財務官吏として活躍し、奈良時代の政治が行き詰まると長岡京へ、次に平安京へ遷都を誘引したのも秦氏の膨大な勢力によるものであったことが定説となっております。

神殿の造営
文武天皇の大宝元年(701)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勅命を奉じて、山麓の現在地に神殿を営み、山上の磐座の神霊をこの社殿に移し、その女の知満留女(ちまるめ)を斎女として奉仕し、この子孫が明治初年まで当社の幹部神職を勤めた秦氏(東・南とも称した)です。

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松尾社と平安遷都
上代において秦氏を始めとする山城・丹波の住民から、農産業、土木工業の守神と仰がれた当社は、平安時代以降、朝廷の守護神とされるに至りました。桓武天皇は延暦3年(784)11月、都を長岡京(現在の京都府長岡京市)に移されると、勅使を派してこれをご奉告になり、まもなく平安京に都を移されると、当社と賀茂神社とを皇城鎮護の社とされ、賀茂の厳神、松尾の猛霊と並び称されて、(天皇の)ご崇敬はいよいよ厚く加わるに至りました。


賀茂神社

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この輪っか絶対通るなよ!ワシは一度通ってしまったことがある記憶が薄っすらと・・!( ̄▽ ̄;)

今から1270数年前の奈良時代、日本初の馬の国営牧場の地に、日本の災厄を封じ、人々の幸せを祈るため、聖武天皇は陰陽道の祖と仰がれる吉備真備に命じて、陰陽道の技にて、日本の「気」の集まる(日本のパワースポット)(の)地に天平8年(736に創建されました。

日本の災厄を封じ、人々の幸せを祈るため・・・って。秦氏は、始皇帝のまだまとまっていない状況証拠から、ユダヤだと思っているが。奴らの話はいつも逆だ!

◉世界貢献=グローバリストのユダヤ人への貢献。
◉テロの危機=自分たちユダヤ人のための侵略戦争。
◉世界平和=ユダヤ人の平和。故にゴイムから力を奪い殺す。

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秦氏の厄災を封じだ。真実の神や神々の封印。中国の陰陽道の技にて、日本の「気」の集まるパワースポット地に736年に創建した。そしてバカみたいに神社仏閣作っていった。のだと思います!


やっぱり!
吉備真備は遣唐使で唐(中国)に渡っている!(;´Д`)

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天照大御神

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皇祖神とされる。『記紀』においては、太陽神の性格と巫女の性格を併せ持つ存在として描かれている。天岩戸の神隠れで有名な神で、神社としては三重県伊勢市にある伊勢神宮内宮が特に有名

大国主命が造り上げた葦原中国(あしはらのなかつくに)の国譲りを受けて、孫の漣漣芸命を天降りさせて統治させる。皇室の祖神(祖神神)の一柱。

神宮なのでは「天照座皇大御神(あまてらしますすめおおかみ)と唱えられている。大嘗祭を行う女神ともされる。


天照座皇大御神は宇迦之御魂神じゃないかと思うよ、
ワシは、この顔で女神でも有るし、コレも秦氏!(;´Д`)

天の岩戸開きはイエスの復活臭くて・・・。


【天皇制の闇、大嘗祭/安倍一派はなぜこだわるか/「特別な国」意識に“神”が不可欠】

「神になる儀式」
天皇「一世一代の秘儀」と言われている「大嘗祭」の目的はどこにあるのか。それは、誰も見ることができない秘儀を通して、新天皇がその祖先とされる「天照大御神」と交わりを結ぶことを目的とした儀式である。

戦前の民俗学者、折口信夫はこの秘儀の本質が「天皇が神と一体となり」「神となること」にあるとの見解を発表した。前回の「大嘗祭」の前、さすがに宮内庁は“天皇が神になる儀式ではない”と折口説を否定した。

これはゴマカシにすぎない。現に、戦前の国定教科書はこう書いていたのである。「大嘗祭は……大神と天皇とが後一体におなりあそばす御神事であって、わが大日本が神の国であることを明らかする」ものである(『初等科修身四』1943年)。

つづく


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