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白村江の戦いの真実

玄界灘を渡り、朝鮮半島に攻め行った大和王権。
結果は大敗北。
しかし、よく考えて欲しい。
玄界灘、東シナ海を超えて大軍を送ったのは大和王権側である。

NHKなどの再現VTRで、度々、小舟で立ち向かい、唐の大型船団に
ボコボコにされる映像ばかりで、これはもう自虐史観そのものだ。

では、どのような経緯で大和王権が大軍を派兵するに至ったのかを
追うことにしよう。

白村江は赤丸あたり⇧

当時、もはや「倭国」ではななく「日本」でもない時期。
大和王権の中心には、「中大兄皇子」が居た。
その母、「斉明天皇」の時代、弟に「大海人皇子」皇太弟の地位。
この二人の兄弟は、実の兄弟かどうかなど、後の叔父甥による皇位継承争いなど、血生臭い噂が絶えない。

第37代「斉明天皇」は、重祚している(最初は皇極天皇:第35代)、この間、実際に政治を行っていたのは、息子の「中大兄皇子」(後の天智天皇)

では、当時の斉明天皇政権を振り返ってみよう。
この人は、天皇の中でも波乱に満ちた方であろう。
有名な「乙巳の変」(いっしのへん)、飛鳥時代645年(乙巳の年)に起こった、蘇我入鹿を宮中で斬殺した事件。
蘇我宗家を滅ぼした大事件、この時の天皇が、斉明天皇で実行犯が、中大兄皇子と中臣鎌足(亡くなるその日に藤原姓を天智天皇より賜った)。
これは、中大兄皇子が起こしたクーデターであって、だまし討ちにされたのは蘇我入鹿であり、その父の蝦夷。
中大兄皇子にとって、蘇我本宗家が邪魔であり、排除するチャンスをずっと伺っていたと想像する。
ただ、蘇我本宗家も横暴であったとされる。
聖徳太子の息子である山背大兄王に軍勢を差し向け、上宮王家を滅亡させたと伝わるが、これも勝者の歴史書である日本書紀に記された虚像かもしれない。
中大兄皇子は体制を刷新し改革を断行した、俗に言う大化の改新である。

斉明天皇は、朝鮮半島への軍事介入を考えるようになる。
その発端は、百済の王子「扶余 豊璋」(ふよ ほうしょう)が、当時日本に住んでいた。(便宜上、日本と記す)
これは、一種の人質のような身分であったかもしれない。

義慈王時代の660年、唐と新羅の連合軍(唐・新羅の同盟)によって百済が滅亡した後も、鬼室福信(きしつ ふくしん)たち、百済王家の者たちが抵抗を続け百済復興を願い、日本に軍事支援を求めてきている。
それと同時に、鬼室福信は、大和王権に豊璋の帰国を要請し許され、百済最後の王となった。

ところが、帰国した豊璋は、恩人である鬼室福信の謀反を疑い処刑してしまう。
その四ヶ月に、白村江の戦いが起こる。
もし、有能で海戦にめっぽう強い鬼室福信が健在であれば、勝敗も変わっていたかもしれない。
さらに言えば、鬼室福信は王族の血筋であるので、扶余豊璋などを祭り上げずに、自ら国を率いれば、日本との連合で百済復興がなったかもしれない。
「たられば」論は、歴史の常、だからこそ面白い。

ChatGPT:白村江の戦い風:画像


白村江の戦い!

664年5月に、郭 務悰(かく むそう、生没年不詳)が、中国唐代の官吏。
白村江の戦い後に日唐関係修復交渉のため、3度(あるいは4度)倭国(日本)を訪問している。
2,000人にも及ぶ、倭国軍(大和王権軍)の捕虜を連れて、戦勝国の大使が捕虜交換と国交修復のために来日している。
しかし、この使節団は入京を許されなかった。
戦勝国の大使が、戦敗国の大王に会えない!
こんな事があるだろうか?
わかりやすく言うと、第二次世界大戦敗北後に乗り込んで来たマッカーサーを、港に留め置き拝謁どころか、入京さえ許さないような事が、現実にあり得るだろうか?

それから5か月後の同年10月に、郭務悰らを送り出す勅が発令され、中臣鎌足が僧侶の智祥(ちじょう)を派遣して、物を郭務悰に与えている。
その3日後、智祥は郭務悰らに饗応されており、12月に帰国の途についている。

そう、ここにも真実が隠されている。
白村江の戦いで敗れたのは事実、しかし唐や新羅はそうは考えておらず、国交修復を願い出てきているとい証拠だと考える。

この後、都は近江大津宮に遷都(667年)しており、中大兄皇子は、この宮で正式に即位し天智天皇となった。
この宮で、近江令や庚午年籍(こうごねんじゃく)など律令制の基礎となる施策を実行。

この遷都も、唐・新羅連合軍が攻めて来る恐れがあるので、奈良飛鳥よりも防衛に適した、滋賀近江で守りを固めたと考えられる。
同時に、九州や中国地方各地に、水城や山城を築かせた。

古代の都イメージ:GPT

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