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Only you ~翻弄される男たち~    高崎紫鳳

女がいても生きにくく、
女がいなくても生きにくいとは、
男にとって不幸というものである。

              アルトゥール・ショーペンハウアー


オンリー・ユー

 友人から、携帯電話のアフリエイト・サイトでお金を稼ぐことができるから、このサイトに登録をしてほしいというメールが送られてきた。岡田雄介は、軽い気持ちで、メールに添付されたアドレスをクリックした。すると、画面はにぎやかなフラッシュ画面に変わり、『懸賞サイトに登録して、ガッポリ稼ごう!』という文字が飛び込んできた。
 雄介は、何の疑いもなく画面の指示に従って、プロフィールを登録した。登録を終了してから、トップ画面に戻り、このサイトの画面をスクロールしながら、豪華な賞品や景品、ポイントが貯まってからの換金の仕方などの案内文と利用規約に目を通した。
 雄介は、「こんなんで、金稼げるの…?」と呟き、いつものように、CDをステレオにインストールして、ソファに寝転んだ。グレン・グールドの『ゴールドベルク変奏曲』が流れてきた。今日から三日間、金、土、日と夏休みの休暇を取っていた。そして、休日の朝は、洗濯を済ませてからクラシックを聴くのが習慣になっていた。
 雄介は、妻と離婚してから十三年が経っていた。そして、四十代も半ばになり、すでに再婚も諦めていた。八畳一間の安アパートに暮らし、部屋は整理されていたが、男の一人暮らしゆえ、テレビにミニ・コンポとささやかな家具しかなく、殺風景な部屋であった。雄介は、離婚してから住宅リフォーム会社を転々としていた。札幌の景気も悪く、飛び込み訪問での新規開拓は困難を極めていた。そのため、地方へ出向いての営業活動が多くなっていた。
 この先の自分の人生の事を考えると憂鬱な気分になるので、なるべく先の事は考えず、今をどのように過ごすかだけを考えてきた。時々、虚しくなって、気が狂いそうになるが、現状を脱出する手掛かりはなかった。生きてる張り合いがなく、何の目標もなく、守るべき家族もなく、両親も亡くなっており、下に妹が二人いるが、二人とも嫁いでおり、疎遠になっていた。
何が楽しくて生きてるのだろうか?こんな、愚問を頭の中で繰り返しながら、休みの日は、ダラダラと過ごしていた。

 さっきから、マナーモードにしていた携帯電話が、何度もテーブルの上で震えていたので、雄介は携帯電話の画面を覗き込んだ。メールをチェックすると、同じアドレスがいくつも並んで表示されている。しかし、アドレスに見覚えはなかった。雄介は、そのアドレスの一つをクリックしてみた。
すると、知らない女性から「今すぐ、会えないかしら。二人で楽しいことして遊ぼうよ!サナエ」と書いてあった。雄介は、狐につままれたような気分になった。
「え…、何かの間違いだろう?」
 雄介は、『本文を読む』にクリックした。
「サナエ、もう、淋しくて死にそうなの…。ユースケさん、サナエを救いにきて、そして、楽しい事して遊ぼうよ♪連絡待ってるね!」
そして、彼女の『プロフィール』をクリックした。
「二十歳のフリーター、可愛い系、エッチ大好き、派遣の仕事終わってしまったよ!援希望…?」
 次に、『写真を見る』をクリックすると、あどけない感じの残る、笑顔が写っていた。
「なんで、こんな可愛い娘が、オレみたいなオジサンにメールをよこすのかな…?」
 雄介は不思議な感じがしていた。
 そして、『返信する』にクリックしてサナエという娘に、返事を書いた。
「僕は、四十代半ばのバツイチのオジサンですよ。相手を間違えていませんか?」
 雄介は、素直に自分の事を書いてメールを送信した。
 その後、すぐに次のメールをクリックしてみた。そのメールも、同じような内容であり、次のメールも次のメールも同じように、雄介を誘う内容ばかりであった。そして、トップ画面をクリックすると、『即アポ、すぐ会える!ドリームヘブン』とポップな画面に変わった。画面をスクロールしていくと、掲示板には、男を誘う書き込みが、多数載っていた。
 雄介は、やっと事態が呑み込めてきた。あの、懸賞サイトは出会い系サイトにリンクしていたのだ。それにしても、五人の女の子から、メールを貰うという事は、初めての経験だった。本当に、こんな若い子と、付き合えたら楽しいだろうと、勝手に妄想を膨らませていた。そして、残りの四人にも同じように、正直に自分の事を書いて、それぞれにメールを送信した。メールに嘘を書いて出会っても、お互い気まずい思いをするだけなので、それは避けたいと思った。いまさら、カッコつけても、様にならないと雄介は自覚していた。
「もう、デートなんて、忘れたよ…」
 別れた妻とは、友人の紹介で出会っていた。その時、三回くらいのデートで結婚を決めてしまった。その頃は、注文住宅の営業をしていたため、仕事が忙しく、休みが平日で、出会いがなかったので、安易に結婚を決めてしまった。それが、三十才の時であった。
 これを逃したら、いつ出会えるか分からないという、脅迫観念みたいな、心理状態にあった事は、確かだった。しかし、結婚生活が始まり、程なくして性格が合わないという事に気がついた。焦ると碌な事はないと、その時、身にしみて感じたものだった。それでも、すぐに離婚するわけにもいかず、仕事の忙しさも手伝って、三年間妻をほったらかしにしていたら、年の離れた若い男ができて、家を出ていってしまった。しばらくして、離婚届けが送られてきたので、署名と捺印をして送り返してやった。
 その時は、両親も生きていたので、散々と怒られた。親父からは、「もっと、女房を大切にしないと、ダメだ!」と、目を真っ赤にして、怒っていた。本当に鬼のような形相で怒鳴られたのは、後にも先にも、あの時が初めてだった。
 そんな、親父も三年前に、肝臓ガンで亡くなり、母親も、親父の看病疲れから、体調を崩して、肺炎で亡くなってしまった。本当にあっけなく、二人は他界していった。
「早く、再婚すれよ。男は、女房をもらって、一人前なんだ!」
 これが、親父の口癖だった。しかし、その親父の口癖が嫌で、しばらくは、実家に寄りつかなかった。

 間もなくして、三人の娘から、メールの返信があった。雄介は、そのメールを読もうと、『本文を読む』にクリックしたが、『ポイント不足で表示できません』と、赤い文字が点滅した。そして、『ポイント購入』をクリックすると、自分のポイント残高と、メール利用のポイント一覧表が表示された。
「メール開封30Pt、メール送信30Pt、写真閲覧40Pt、メルアド添付300Pt…、金掛かるんだ」
 しかし雄介は、メールを読みたい一心で、ポイントを買うために、近くのコンビニへ向かった。そこで、五千円を支払ってコンビニ決済で、500ポイントを購入した。そして、すぐに部屋に戻ると、携帯電話を取り出し、サイトにアクセスしてメールを読んだ。
 雄介は、久しぶりの刺激に心がワクワクしていた。久しく感じたことのない胸のときめきと、何とも知れない甘美な誘惑の予感に酔いしれた。
「これは、夢じゃない、夢じゃない…」
 念仏でも唱えるように、雄介はメールの返信を読んだ。その中で、三十二歳の詩織という女性のメールが、雄介の心を捕えた。
「ユースケさん、こんな見ず知らずの女からの突然のお誘いに、軽い女と思われているでしょうね? 私は現在、税理士の仕事をしています。そして、ある会社と顧問契約をしていますが、その会社の社長秘書もしています。そのため、適当な男性との出会いが全く無いのです。私も、出会い系サイトで、相手を見つけることになるとは思ってもみませんでした。こんな、私でよければ、一度会ってください。 詩織」
 雄介は、詩織という女性のメールに心が惹かれた。しかも、プロフィールを見ると、職業、税理士及び社長秘書、年収二千万円。趣味、映画鑑賞とドライブ。乗っている車は、白のアウディ。写真を見ると、端正な顔付きの和風美人。
 雄介は、プロフィールを読んでいるだけで、住む世界が違い過ぎると、腰が引けるのを感じた。こんな、出会い系サイトで相手を見つけるより、きちんとした結婚相談所に登録した方が、安全かつ確実に相手を見つける事が出来るだろうにと、勝手に思った。
 まだ雄介には、自分の価値を見失わない程度の良識はあった。
「オレには、過ぎた人だ。ダメ、ダメ、ダメ…。相応しくない」
「でも、一度くらいハイ・クラスの女と出会ってみたいな~」
 そんな思いが、雄介の頭の中をかき乱した。そして、雄介は詩織に返信メールを書いた。
「私は、四十代半ばのバツイチです。前にも同じことを書きましたが、どう考えても、あなたに相応しい男ではないと思います。しかも、このサイトには間違って登録されてしまい、私も多くの女性からメールをいただき、少々困惑しています。仕事も住宅リフォームで、収入も安定していません。私よりも相応しい方を探してください。 ユースケ」
 メールを送信して、雄介は「これでいい…」と、自分に言い聞かせた。
「何か、もったいないこと、してしまったな~?」
 雄介は、軽い後悔の念に襲われたが、彼女に出会った時の自分を想像しただけでも、身震いを感じた。分不相応は、誰が見ても明らかだ。会った瞬間、惨めな思いをするのは自分自身である。今まで、散々惨めな思いをしてきたので、最後に止めを刺すような行為を自ら進んですることもない。
 もう、自分の先が見えている人間に、不相応な夢と希望は、ある種、残酷である。雄介には、すでに自分を信じる勇気が残っていなかった。窓の外を見ると、辺りはすっかり暗くなっていた。時計を見ると、午後七時を回っている。メールに夢中になって、暗くなったのも気づかなかった。七月とはいえ、午後七時を回ると、さすがに暗くなっている。
 雄介は、部屋の照明を点け、携帯電話をテーブルに置いて、夕食の準備を始めた。冷蔵庫の中を見ると、食べ残しの惣菜と、余った野菜が少々、転がっているだけ。手っ取り早く野菜を刻んで、フライパンで野菜炒めを作った。
 今日一日の出来事を反芻しながら雄介は、ご飯を口に運んだ。すると、遠くの方から打ち上げ花火の炸裂音が響いてきた。今日は金曜日の夜である。豊平川で花火大会が始まったようだった。
 雄介は、半袖姿で外に出ると、近くの中島公園へ向かった。公園に足を踏み入れると、辺りは見物客で溢れていた。豊平館の前では、白いガーデン・テーブルとイスが用意され、生ビールが飲めるようになっている。もう、ビア・ガーデンの季節になっていた。池の周りではシートを敷いて、花火を楽しんでいる家族連れが大勢いる。また、浴衣を着たカップルもそこら中、手を繋いで歩いていた。
 雄介は、昔、妻と一緒に花火大会を見に、二人で豊平川の河川敷を歩いた記憶を辿っていた。
「そんな時も、あったよな…。あの時は、まだ平和な日々を送っていた」
 雄介は,菖蒲池に掛かっている橋の欄干に肘を突き、ぼんやりと花火を眺めた。周りは家族連れやカップル、みんな楽しそうにしている。本当に心から淋しさを実感していた。
「もし、自分に子供がいたら、小学生か中学生になっている。それも、今は叶わない夢か…」
 花火大会は一時間ほどで終わり、雄介は帰宅する群衆に混じって歩いた。微かな火薬の匂いが、緩やかな風に乗って鼻腔をくすぐった。自分は生きてない、実感のない生活に流されている。部屋に戻ると、テーブルの上に置いた携帯電話が、小刻みに震えている。画面を見ると、またメールが多数届いていた。
 雄介は、メールをチェックして、詩織さん以外のメールは、見もしないで削除した。これ以上、他のメールを見てポイントを消費されるのはゴメンだった。
「学習したんだよ~、関心のないメールは見ないぜ!」と、小さく呟いた。
「ユースケさん、メールありがとう。あなたは、とても誠実な人ですね。以前に何度か、医者や弁護士さんの集まる、お見合いパーティにも出席しましたが、何だか気取った人達ばかりで、相手を選ぶ気にもなりませんでした。中には、女性を見下すような振る舞いをする人もいて、とてもガッカリして帰ってきました。でも、ユースケさんは、自分を気取ることも飾ることもなく、とても好感を持ちました。あなたの顔を拝見したい。ダメかしら? 詩織」
 雄介の胸は、高鳴った。心臓の鼓動は早まり、吸う息は息苦しく、こんな気持ちは久しぶりであった。雄介は、高揚する気持ちを静めるため、台所の蛇口の下に頭を持っていった。一気に蛇口を捻ると、勢いよく流れ出る水に頭を曝した。生温い水から、すぐに冷たい水に変わり、暫くすると頭の芯が痺れるくらい、水に曝していた。
「夢じゃないよな…。夢じゃないよな?」
 雄介は、ずぶ濡れになった頭を、乾いたタオルで拭きながら、何度も自分の額を右手の拳で小突いてみた。そして、再び携帯電話を手に取ると、詩織さん宛にメールを打ち始めた。
「こんばんは、詩織さん。本当に私のような男でいいのですか?
なんか、メールを打ちながら緊張しています。可笑しいですよね?詩織さん、あなたは、今まで私が出会ったことのないタイプの女性です。本当に会えるのでしょうか? ユースケ」
 雄介は、深呼吸をしてから、送信をクリックした。この年になっても、まだときめく気持ちが残っていた。そんな自分に、照れくささを感じた。
「先のことを心配しても始まらない。なるようになるさ?」と、呟いた。
 雄介は、夜風に当たるため外へ出た。そして、再び中島公園へと歩いていった。公園内は人影もなく、先ほどの喧騒が嘘のように静まりかえり、豊平館の前に出されていたテーブルとイスは片付けられ、こぼれたビールの痕跡が、僅かに石畳に残っていた。札幌コンサートホール・キタラの前に来ても、人影はなく、ホールの照明も落ち、隣接するレストランも閉まっていた。時計を見ると、午後十一時を回っており、煌々と、街灯の灯りだけが、辺りを照らしていた。そして、ときおり街路樹が微かに揺れるだけで、物音一つしない。
「静かだな…。ここは、市内のど真ん中だよ」
 雄介は、ホール前の階段に腰を下ろし、胸ポケットから、メンソールのタバコを取り出し、百円ライターで火を点けた。煙をゆっくりと吐き出しながら、なぜか頬が弛んでいる。心の底から、大声で笑いたい気分になっていた。
「まだ、詩織さんに会ってもいないのに、何を期待してるんだ?」
 雄介は、この至福にも似た気分をずいぶんと忘れていた。その日の生活に追われているだけの、喜びのない毎日…。
「そういえば、セックスも…、ずいぶんしてないな」と、とめどなく妄想が、雄介の頭の中に膨れ上がっていった。
「早く詩織さんに会いたいな…。でも、本当に会ってくれるかな?」
 そんなことを、いくら考えても答えは出るわけもなく、タバコの火がフィルターまで来て、熱さで我に返った。
「熱っ、何考えてんだ…」
 雄介は、タバコを階段に擦り着けて火を消すと、近くの植え込みに投げ棄てた。そして、立ち上がって、部屋へ戻った。殺風景な部屋のソファに寝転んで携帯電話のメールをチェックしてみると、また十数件のメールが入っている。雄介は、詩織さん以外のメールを躊躇なく削除した。
「本当に、余計なメールが多いね…」
 雄介は、あまりのメールの多さに辟易していた。テーブルの上で小刻みに震えている携帯電話が、イライラを募らせた。こんな時間になっても、お構いなしにメールが送られてくる。
「一体、どうなってんだ?」
 それでも雄介は、詩織さんからのメールは嬉しかった。早く詩織さんに会って、このサイトから退会しないと、頭が変になりそうであった。まだ、メールの来た数は数えていないが、今日だけでも、三十通以上は来ている。削除したメールの数は半端ではなかった。これが、これから毎日続くと思うと、うんざりした気分になった。雄介は、メールの着信拒否も考えたが、それをしてしまうと、肝心の詩織さんからのメールが見られなくなってしまう。とてつもないジレンマに襲われてしまった。
「まいった…。このメールの嵐を何とかしないと、身が持たないよ」
 雄介は、舌打ちしながら、詩織さんからのメールをクリックした。
「ユースケさん、私と会うときは、気を使わないでください。お誘いしたのは。私の方なので、食事代とかホテル代、遊びにかかる費用は全て私が負担しますので、心配しないでください。それから、ユースケさんの好きな食べ物とか、行きたい場所とかあったら教えてください。それと、ユースケさんの顔写真もメールに添付してくれたら嬉しいな♪ 詩織」
 雄介は、すっかりだらしない顔になっていた。費用の心配をしなくてもいいと思うと心が軽くなり、先ほどまでの憂鬱な気分が、嘘のように消し飛んでいた。
「調子いいよな?」
 この年で、デート代も出せないってことは、致命的である。チープなデートで詩織さんを満足させることは不可能であることは、十分承知していた。内心忸怩たる思いもあり、積極的になれない自分に不甲斐ない思いもあった。しかし、雄介は少しスッキリした気分になり、洗面所の鏡に向かって電気シェーバーで、薄らと伸びた髭を丹念に剃り始めた。そして、歯を磨き、石鹸で顔を洗って、髪にムースをつけ、乱れた髪を梳かし、最後に鼻毛を処理して、鏡の中の自分にウインクをした。
「さて、写真でも撮るか…」
 雄介は、携帯電話を持って、カメラのレンズに微笑んだ。シャッターを押してから、携帯画面を見ると、上目遣いの顔が写っていた。何度やっても、同じような写真にしかならない。考えてみると、写真を撮るとき、腕を伸ばして斜め上を見ているので、このような写真にしかならない。
「いいか?そんなにいい男でもないし、真正面から撮った写真は、もっと自信がないしね…」
 雄介は、撮った写真を見ながら、比較的ましな写真を添付して、送ることにした。腕時計を見ると、すでに午前零時を回っている。雄介は、押入れから布団を出して床に敷くと、そのまま寝転んで、ぼんやりと天井を眺めた。そして、いつしか眠りについていた。

 翌朝、雄介は六時頃に、突然、飛び起きた。
「ビックリした…。今日は休みだ」
窓の外は、明るい太陽の光で満ちている。天井に目を移すと、照明が点いたままになっていた。いつもなら、この時間に起きて仕事に出かける支度をしていた。雄介は、すぐに携帯電話を手に取り、メールをチェックした。相変わらず、多くのメールが入っている。しかし、詩織さんからのメールはなかった。
「昨日の夜は、返信してないか…」
 雄介は、来たメールを全部削除して、詩織さんにメールを打ち始めた。
「詩織さん、いつ頃会えそうですか?私は、昨日から三連休に入っているため、明日まで休みです。今日か明日にでも会えればよろしいのですが。それと、私の写真を添付したので見てください。 ユースケ」
 雄介は、送信をクリックすると、「ポイント不足のため、送信できません」という表示に、ガッカリした。
「まいったな…」
 雄介は、財布の中を見ながら、首を項垂れた。そして、布団に寝転んで天井を見つめた。
「分かった。詩織さんの写真を何度も見たので、ポイントが減ったんだ。人の弱みに付け込んで、しっかり商売してるよ…」
 雄介は、布団を押入れに片付けると、重い足取りでコンビニへ向かった。そこで、五千円を支払い、再びポイントを購入した。
「本当に、詩織さんに会えるのかな…」言い知れぬ不安が、雄介の脳裏をかすめた。
 しかし、今は詩織さんの会いたいというメールを信じるしかなかった。雄介は、もう一度、詩織さんにメールを送信した。そして、まもなく返信があった。
「ユースケさん、ごめんなさい。今、社長のお供でゴルフ場に来ているの。また夜にメールします。待っててね♪ 詩織」
 雄介は、空気の抜けていく風船のように、心が萎んでいくのを感じた。
「早朝ゴルフのお供、社長秘書か…」
 雄介は、急に現実に引き戻された気分になり、また、惨めな思いが蘇った。
「ゴルフか…、そんな余裕はないよ」
 雄介は力なくソファに寝転び、自分の軽率さに涙がこぼれ落ちそうになった。
「やっぱり無理だよ…。詩織さん」
「誰がいったい、こんな冴えない中年男に興味を持つの?甘いぞ、ユースケ」
「本当に甘い」
 雄介の心に、怒りにも似た感情が、湧いていた。冷静に考えたら、絶対にあり得ないことが起きている。正確には、まだメールのやり取りだけなので、何も起きていないが、メールのやり取りだけでも奇跡に近いと思った。本当に、たった一日メールのやり取りをしただけなのに、こんなに心が揺れている。自分でも不思議な気がしてならなかった。たぶん、詩織さんに対する期待感が、知らず知らずのうちに、大きくなっていた。
「身の程知らず、お前はバカだよ…」
 雄介は、再びメールをした。
「詩織さん、やはり会うのは止めましょう。詩織さんとは住む世界が違い過ぎます。私は冴えない男です。そっとしておいてください。いい夢をありがとう。 ユースケ」
 雄介は、このメールを送信し終えると、携帯電話をテーブルに置いて外へ出た。気持ちを切り替えるために、部屋を飛び出していた。外は天気も良く、青空がやけに眩しく感じた。電車通りに出て、外回りの路面電車に飛び乗ると、座席に座った。車窓から見える街並みを眺めながら、ゆっくりと揺れながら進む電車に身を委ね、気持ちを整理していた。車内は人もまばらで、時おり人が乗ってきては、スーパーやコンビニの前で降りていく。
 雄介は目的もなく、ただ乗っているだけだった。そして、何気なく外を眺めていると、藻岩山ロープウエイが見えてきたので、その近くの停留所で降りた。五分ほど坂を上って行くと、ロープウエイの入口が見えてきた。その手前の山側には、旧小熊邸を移築した喫茶店があり、そこへ入って行った。古めかしい扉を開けると、中は落ち着いた洋風の造りになっており、漆喰の白壁が懐かしい雰囲気を醸し出していた。
 雄介は、窓際の席に座ると、胸ポケットからタバコを取り出し、火を点けた。程なくして、ウエイトレスが注文を取りに来た。
「ブレンド・コーヒーで…」
 雄介は、外の景色を眺めていた。札幌を一望できるとは言えないが、中央区の街並みはよく見えた。庭に目を移すとラベンダーが咲いており、花の間を蜜蜂が忙しなく飛び回っていた。
「札幌にも蜂がいるんだ。ここは、山に近いしね…」
 雄介は、破れた初恋にも似た感情を持て余していた。そして、この埋めようのない気持ちをコーヒーで満たそうとした。ウエイトレスが、湯気の立ち上るカップを静かに置くと、芳ばしい香りが鼻を誘惑した。
雄介は、コーヒーを一口含むと、舌に広がる酸味と苦みを確かめた。
「ちょっと、濃いかな…」
 雄介は、砂糖をスプーンで軽くすくって入れ、かき混ぜた後に、ミルクを少し入れた。
「このほろ苦い味が、今のオレなんだ…」
 店内を見渡すと、静かに談笑しながらコーヒーを楽しんでいる人達ばかりだ。流れている曲もクラシックで、ショパンのプレリュード第15番「雨だれ」が、静かにゆったりと流れている。年配の人が多く、常連客らしい感じがした。雄介は、冷めないうちにコーヒーを飲み終えると、すぐに店を出た。あまり長居すると、感傷的になり落ち込みそうな予感がしたからだ。せっかくの休みなのに、することもない自分に半ば呆れた。
 雄介は来た道を下り、停留所で路面電車を待っていた。他に待つ客もなく、足元で忙しなく動き回っている蟻を見つめていた。
「オレは、蟻なんだ…。一生、地面に這いつくばって働く蟻なんだ」
 そう思うと、目頭が熱くなった。雄介は、手で涙を拭うと空を見上げた。雲一つない真っ青な空が、どこまでも続いている。札幌の空が、やけに眩しく見えた。
 雄介は、路面電車に乗り、大通りの中心街で降りた。街は多くの若者で賑わっていた。歩道では、ティッシュを配っている消費者金融の女性が笑顔を振りまいている。雑踏の中に居ると、余計に孤独を感じてしまう。部屋に居るよりも、寂しさを感じるのは何故だろう…。
 雄介は、駅前通りをススキノ方面に向かって歩いた。狸小路を過ぎて、国道36号線に出ると、更に中島公園へ向かって歩いた。夜は人でごった返しているススキのも、昼間は人通りも少なく間の抜けた感じがする。路地からは、酒の混ざった異臭が鼻を突き、傍を歩いてもカラスは逃げる様子もない。
「人慣れしてるね…」足元には、常に頭を前後に振って歩いているハトが数羽、人には目もくれず餌を探している。
「何が平和の象徴だ…。オレだって、いつも食い物を探しているよ」
 中島公園の入口まで来ると、イチョウ並木が真っ直ぐ続いている。ここまで来ると、公園を散策している人が多く見られる。雄介は、コンビニに寄って弁当を買い、中島公園を通って部屋に戻った。テーブルを見ると、マナー・モードの携帯電話が小刻みに震えている。メールをチェックすると、数十件のメールが入っていた。その中には詩織さんのメールも含まれていた。
「ユースケさん、いったいどうしたのですか?私、いけないことでもしましたか?ユースケさんに逢うの楽しみにしているのですよ。二人で楽しく遊べるように、お金も用意しているし、プレゼントも買っているのに…。私に会うという約束、守ってください。 詩織」
 雄介は、困惑した。そして、気を取り直してメールを打った。
「詩織さん、心配かけてすいません。やはり、詩織さんに会いたいです。心から会いたいです。それで、いつ会えますか?私は、明日まで休みなので、明日会えれば嬉しいです。ユースケ」
 雄介は、もう迷うまいと心に誓った。別に結婚するわけでもないし、詩織さんの気まぐれにお付き合いするのも、いいかと思えた。
「そのうち、オレに飽きたら…、ポイ捨てだろう?」
 雄介は、釈然としない思いはあったが、割り切って会うことにした。遊びに付き合ってプレゼントまで貰えたら、御の字である。雄介は、買ってきた弁当を食べ始めた。ノリ弁当の上に載っている魚のフライが、安い油のせいか、ギトッとした食感に食欲が減退した。
「本当に、もう少しましなモノが喰いたい…」
 雄介は弁当を残し、そのまま冷蔵庫へ放り込んで、ソファに寝転んだ。天井を見つめながら、何とも言えない気持ちになっていた。そして、夕方になり、やっと詩織さんからメールが届いた。その間、雄介は携帯電話が震える度に、メールをチェックし、詩織さん以外のメールは、読みもしないで削除していた。
「ユースケさん、私と会ってくれるのですね。本当に嬉しいです。もし、私とユースケさんが会って、お互いの気持ちが合えば、私の部屋の鍵を持ってくれますか?まだユースケさんにお会いもしていないのに、こんなお願いをするなんて失礼ですよね? 詩織」
 雄介は、携帯画面に釘付けになった。
「嘘だろ…、部屋の鍵を持ってくれますか?」
 雄介は、詩織さんの真意をつかみかねていた。
「見ず知らずの男に、しかも会ってもいないのに、部屋の鍵…?」
 雄介は素直に喜べない気持ちの方が強かった。
「甘い罠…?」
 雄介はソファに寝転ぶと、そのまま眠ってしまった。そして目が覚めると夜になっていた。部屋は暗く、時計を見ると午後八時を回っている。雄介は携帯電話を手に取ると、サイトにログインしてメールを送った。
「ところで詩織さん、明日は会えませんか?まずは、一度会わないことには、話が前に進みませんよね。もし会えるなら、詩織さんの都合に合わせますので、時間や場所をお知らせください。 ユースケ」
 メールを送信し終えると雄介は、またソファに寝転んだ。すると、出し抜けに固定電話が鳴り受話器を取った。すぐ下の妹の恭子からだった。
「お兄ちゃん、元気にしてた?さっき従姉弟の山田真希ちゃんから電話があって、アキ叔父さんが、もう危ないから意識のあるうちにお見舞いにきてくれないか?って言うの。それで…、来れそう?」
 雄介は、叔父に可愛がってもらった記憶が蘇った。子供の頃、夏休みで留萌に行ったときは、必ず海に連れていってもらった。その時の楽しい思い出が、つい昨日のように思えた。それと叔父は若い頃、交通事故に遭っており、その時の輸血が原因でC型肝炎に罹っていた。三年前までは、まだ元気にしており、肝炎が悪くなったと云う話しはしていなかった。
「それで病院はどこ?あと…、どれくらい持ちそうなの?」
 雄介は、矢継ぎ早に聞き返した。
「そうね…、持って一週間?旭川の赤十字病院にいるの。末期の肝臓ガンで体力もないから、手術も無理だって…」
 雄介は、深いため息をつき、天井を見つめた。
「わかった。明日の朝、岩見沢駅に九時頃着くように行くから、迎えに来てくれ」
 雄介は受話器を置くと、すぐに近くのスーパーへ行って、菓子折りを買ってきた。そして、その夜はメールのチェックもせず、まんじりともしないで物思いに耽っていた。叔父は亡くなった母の弟で、三十年前に死んだ祖父にそっくりな顔をしている。その祖父も肝臓ガンで亡くなっていた。
「おじいちゃんと同じガンか…。そういえば、死んだ親父も肝臓ガン、そのおじいちゃんは胃ガン、両方ともガン血統だよな…」
 雄介は、自分の行く末を暗示しているようにも思えた。
 翌朝、雄介は六時に起きると、直ぐに身支度をして昨日準備したカバンの中身を確認してからソファに座った。あまり寝付けなかったせいか頭がぼんやりして思考が鈍かった。そして、朝食を摂る気にもなれず、思い出したように携帯電話を手に取り、メールをチェックした。
「ユースケさん、こんばんは!明日も社長の接待ゴルフのお供があります。なかなか休みが取れず、近々平日の夜にでもお会いしませんか?スケジュールの都合がつき次第、連絡をします。ユースケさんに、早く会いたい詩織より」
 雄介は、軽く舌打ちをすると、携帯電話をマナー・モードにして、カバンの中に放り込んだ。そして、八時頃部屋を出ると中島公園から地下鉄に乗り、札幌駅で降りた。地上に出ると、八時半のJR「ホワイトアロー7号」に乗って岩見沢に向かった。列車は三十分程で岩見沢駅に着き、駅舎を出ると恭子が車で迎えに来ていた。
「お兄ちゃん、会うの久しぶりね!ちゃんと食べてるの?」
 妹のくせに、話し方は母そっくりである。
「何とか食べてるよ!ところで、このまま旭川?」
「葉月も一緒に行くから、これから迎えに行くの」
 雄介が車に乗り込むと、助手席には中学2年になった甥の由和が座っていた。
「おじさん、こんにちは」
「ヨシカズ、ちょっと見ないうちに、ずいぶん大きくなったな…、何センチあるんだ?」
「もう少しで、百七十センチになるかな…」
 雄介は後部座席から、すっかり大きくなった由和を眺めていた。
「もう、体ばっかり大きくなって大変よ!服や靴のサイズが直ぐに合わなくなるの」
 そう言うと恭子は車を発進させた。車は十分程走ると、葉月の家の前に着いた。家の周囲は田んぼばかりで、所々に家が点在している。玄関前では葉月がタバコを吸いながら待っていた。
「お兄ちゃん、お久しぶり!」
 葉月は屈託の無い笑顔で車に乗り込み、雄介の隣に座った。
「葉月も元気か?」
「もう忙しくて大変よ!モモちゃんは、パテシエになるため、秋にはフランスへ留学するって言うし…、お金のかかる事ばっかりよ!」
 葉月は二十歳で結婚したため、子供は大きくなっていた。長男の純一は自衛隊へ入隊し、札幌の真駒内駐屯地で、戦車隊に配属されている。そして、長女の桃子は、札幌の調理師専門学校へ通い、次男の健太は高校2年で、岩見沢緑陵高校へ通っていた。
「お前も大変だな…」
「そうね…、後もう少しの辛抱よ」
 葉月は、農協系列の配置薬をしており、岩見沢近郊に一千軒の顧客を持ち、約三ヶ月のローテンションで回っていた。収入は、雄介よりも遥かに良かった。
 恭子は、葉月の乗車を確認すると、すぐに車を発進させた。のどかな田舎道から国道12号線に出てしばらく走ると、美唄の手前から右折して三笠インターから道央自動車道に入った。そして、本線に合流すると、車を一気に加速して100キロのスピードを維持しながら走っていた。車窓からは、空知平野の田園風景が遠くまで続いている。稲穂が緑から黄色に色づき始めていた。
車の中では、それぞれが勝手な事ばかり話していた。恭子は北村温泉でフロントの仕事をしているが、リストラで人が減ったため、シフトの労働時間も長くなり、休みの日数も減ったとぼやき、葉月は顧客回りで、車に乗りっぱなしだから腰が痛いと、ぼやいていた。そして、由和は携帯ゲームに没頭しており、時々奇声を発しながら夢中になっている。雄介は、車窓からの風景を眺めながら妹達の会話を聞き流していた。そして、膝の上に載せたカバンの中から、何度も微かに携帯電話のメール着信の振動が伝わってきた。
車は一時間程で旭川に着き、旭川鷹栖インターから降りて市内を走り、赤十字病院へ着いた。受付で叔父の病室番号を聞いてから、妹達と一緒にエレベーターに乗り、三階の病室に入った。雄介にとって、三十年ぶりの従姉弟達との再会であった。妹達は、たまに会っているらしく、軽く会釈すると真希を手招きして、すぐに病室から出ていった。姉の真希は、妹の葉月と同い年であり、弟の貴志は二歳年下で、叔父とそっくりな顔立ちをしている。
「タカシ、会うの三十年ぶりかな…?じいちゃんの葬式以来だね」
 そう言った瞬間、雄介はしまったと思った。
「本当に、そうだね…、ユーちゃんも、昔とあんまり変わらないね」
「そんな事ないよ…。最近は、疲れも取れないし、年取ったよ」
 雄介は、力なく笑い、病室の窓に目をやった。窓辺の桟には強い夏の日射しが照りつけ、青空の向こうには入道雲が見える。そして、ベッドには寝たままの叔父が、点滴の管を左腕に付けたまま、静かに横たわっていた。
「タカシは、今、何してるの?」
「高校卒業してから、ずっと鳶だよ…。最近は、現場も少なくなって、大変だよ」
 貴志は、そう言って苦笑いすると、叔父の方に目をやった。Tシャツの半袖からは、筋肉質の日に焼けた二の腕が伸びていた。
「アキ叔父さん…」
 雄介が呼びかけると、叔父はゆっくりと目を開けた。すると、焦点が定まらないらしく、やや暫くしてから雄介の手を握った。目を潤ませ、何か言葉を言ったようだが、声が小さく聞き取ることは出来なかった。そして叔父は、雄介の手を握ったまま、再び目を閉じた。
 雄介は、その場に居た堪れなくなり、叔父の手を静かに離すと廊下に出て、近くの長椅子に腰を下ろした。
「もう、一週間持つかどうか…」
 貴志は、雄介の隣に座って、ポツリと言った。
「そうか…」
 雄介は、込み上げる思いを押し殺して頷いた。
「姉貴が、喪主になるよ…」
 雄介は、貴志の顔を見ると、少し間を置いて聞いた。
「ところで叔母さん…、その後どうしてるの?」
「お袋は、親父と別れた後、しばらく実家の釧路に住んでいたけど、八年前に両親を交通事故で亡くしてから、旭川に引っ越してきて、姉貴の近くで暮らしているよ」
「そうなんだ…、それでアキ叔父さんの容態は知ってるの?」
貴志は、やや俯くと。
「まだ、言うタイミングが掴めなくてね…。姉貴も、お袋の我儘に振り回されっぱなしで、大変なんだ。今日も、お袋の目を盗んで、看病に来てるし…」
「色々あるんだ…」
 雄介は、落胆している貴志の横顔を見ながら、廊下を行き来する患者や看護師の姿に目をやった。病院特有のアルコール消毒液の匂いが鼻を突き、息が詰まりそうになった。誰もが大なり小なりの問題を抱えている、何だか自分の抱えている問題が一番小さく思えてきた。
「ユーちゃん、遠いところ来てもらってありがとう」
 目の前に、少しやつれた様子の真希が立っていた。雄介は、カバンの中から菓子折りを取り出して真希に手渡した。
「疲れてるみたいだね…」
「最近、ゆっくり眠れなくて…。夜になると、パパの息が荒くなるの、痰が絡むのね…」
「看病も大変だよな…。とにかく、気をしっかり持って、色々協力するから」
 雄介は、真希を励ます適当な言葉が思い浮かばず、当たり障りのない言葉を発していた。真希は、高校卒業まで日本舞踊を習っていたせいか、凛とした佇まいが身についている。十代の頃は、日本人形みたいだと勝手に思っていたが、今は、昔の面影を残しながらも、目尻の皺を見ると、お互い年を取った事を思い知らされる。
「真希ちゃん、これからの事だけど…」
 真希の横に葉月が立っていた。
「葬式よね…。こんなところで話すのも何だけど…、お墓のある留萌でするのが良いかなって…」
「それが一番よね。ここですると、後が大変だから…」
「まだ、生きてるんだから、そんな話しするなよ」
 雄介は、長椅子から立ち上がると、エレベーターの方へ歩いて行った。現実的な話しには加わりたくなく、早くその場からたちさりたかった。エレベーターで一階まで降りると、待合室の片隅で新聞を広げ、記事を目で追っていた。相変わらず殺人事件や幼児虐待が詳細に書かれていた。このような記事も、当たり前になり心が動かない自分に、ハッとした。
「悲しい事件ばかりだ…」
 雄介は、皆が下りてくると、新聞を元の場所に戻し玄関ホールへと歩いて行った。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
後ろから葉月の声がした。
「別に…、帰るぞ」
 雄介は、重い気持ちを引きずるように外へ出た。病院の駐車場に向かい恭子の車の前で、たばこに火を点けた。そして、おもむろにカバンから携帯電話を取り出し、来ているメールをチェックした。おびただしい数のメールから、詩織さん以外のメールを削除して、彼女のメールを開いた。
「ユースケさん、連絡が無いので心配しています。何かありましたか?何とかスケジュールを調整しています。もう、社長のお供は疲れました。ワンマンだし『秘書はあなたの妻でありませんよ!』って、言ってあげたいくらいです。早くユースケさんに会って、癒されたいです。 詩織」
 雄介は、ため息をつくと、虚しさが込み上げてきた。この埋めようのない気持ちを持て余していると、3人がようやく戻ってきた。
「お兄ちゃん、仕方ないでしょう。そうそう会えないから、嫌でも打ち合わせしないと…」葉月は、仏頂面で雄介に言い放った。
「分かってるよ…」
 雄介は、力なく返事をして車に乗り込んだ。車内では気まずい雰囲気が漂い、由和のゲーム機の音だけが、喧しく鳴り響いていた。帰りは、高速道路ではなく国道12号線を走っていた。しばらく石狩川を右に見ながら走っていくと、深川辺りから田園風景がひろがっている。時々フロントガラスをトンボが掠めていく。
「もう、秋か…」
 雄介は、後部座席でウトウトしながら、いつしか眠っていた。
「お兄ちゃん、着いたわよ」
 葉月の声で、目が覚め車を降りた。腕時計を見ると、午後5時を回っていた。
「お兄ちゃん、あの二人より落ち込んで、どうするの?」
 葉月が車の窓から顔を出して、叫んでいた。雄介は、無言のまま小さく手を振って、岩見沢駅の中へ入って行った。構内の電光掲示板を見ると、まもなく札幌行きの「ライラック18号」が到着する時刻になっていた。
「午後6時過ぎに、札幌か…」
 雄介は、酷く疲れたような気分になっていた。次に、叔父の葬儀あると思うと気が重かった。駅のホームは、帰宅のサラリーマンや学生で溢れており、定刻通り電車が着き、人が降りると、座席を求めて一斉に動き始めた。雄介は、後ろから押されるように電車に乗り込み、運よく窓側の空いている席に座る事ができた。電車はすぐに動きだし、車窓を眺めていると、街並みはすぐに無くなり、田園風景が広がっている。今日は久しぶりに、人の生死を考えてしまった。この年になると、慶事よりも身内の不幸が多くなる。両親を亡くした後は、父方や母方の叔父や叔母が鬼籍に入り始めた。親戚が一同に集うのも、葬式くらいになってしまった。
 雄介は、カバンから携帯電話を取り出すと、再びメール・チェックをした。
「ユースケさん、いったいどうしたの?このままだと、会えなくなってしまいますよ。私が、苦労してスケジュール調整をしているのは分かりますよね?ユースケさんに会うために、服も新調しました。部屋だってきれいにしてるし、ベッドカバーも新しい物に替えました。私、ユースケさんに会うのに真剣なんです。この気持ちを分かってください。 詩織」
 ずいぶん、ヒステリックな文面になっていた。雄介は、メールを打つ気になれず、車窓から見える風景を、目で追っていた。列車は定刻通り午後六時に着き、雄介は、重い足取りで、駅構内から地下鉄構内へと歩いていき、地下鉄南北線の真駒内行きに乗って、中島公園駅で降りた。
 部屋に着くと、雄介は冷蔵庫を開け、昨日の食べ残しの弁当を食べ始めた。冷えたご飯は味気なく、ぽろぽろした飯粒が、箸の間からすり抜けて床へ落ちていった。雄介は、落ちた飯粒を見つめながら、溢れ出る涙を抑えきれなかった。
 しばらくして、気を取り直すと雄介は、詩織にメールを打った。
「詩織さん、心配かけました。叔父がガンで危篤状態にあり、最後のお見舞いに行ってました。もう、一週間も持たない感じです。ユースケ」
 そして、すぐ折り返し詩織からの返信があった。
「ユースケさん、ごめんなさい。返事がなかったから、取り乱したりして…。叔父さま、大丈夫ですか?ユースケさんが落ち着いたら、またメールください。私のことは、後回しにしてください。詩織」
 雄介は、詩織の奥ゆかしい文面に、彼女の優しさを感じた。本当に、今時、珍しい女性であると、しみじみ実感した。

 それから四日後の朝、恭子から叔父が亡くなったと連絡が入った。
「お兄ちゃん、今晩留萌で通夜よ!三時までに岩見沢に来れる?」
 雄介は、仕事へ出掛ける準備をしていた。
「わかった…、行くよ」
 雄介は、会社に電話を入れ、叔父の葬儀で二日間休む事を告げた。再び、岩見沢に着くと、恭子は車で迎えに来ていた。助手席には、恭子の夫が座り、後部座席には由和が乗っていた。車に乗り込むと、恭子の夫が、軽く会釈をした。
「お兄さん、久しぶりですね、我々も、こういう機会が増えてきますね」
 恭子の夫、茂は岩見沢市役所の出納係りにいた。生真面目な男で、物静かな人物である。恭子とは、お見合い結婚で、この男と一緒になった理由が分からなかった。
「恭子、ハッチは?」
「葉月は、旦那の車で行くって、モモと健太も来るみたいよ?」
 雄介の横では、相変わらず由和が、ゲームに興じていた。
「ヨシカズ、本当にゲーム好きだな。こんなところですると、目悪くするぞ!」
「おじさん、話し掛けないで、気が散るから!」
「お兄さん、すいません。躾がなってなくて。ヨシカズ、そろそろ止めなさい!」
 由和は、渋々ゲームを止め、ゲーム機をカバンにしまった。車の中では、大した話題もなく、雄介は、座席に持たれて眠っていた。留萌の葬儀所へ着くと、すでに葉月の家族が着いていた。受付には、葉月の夫が陣取り、真紀と貴志に指示を飛ばしていた。
「兄貴、来るの遅いぞ!身内はもっと、早く来ないとな」
 葉月の夫、正樹は長距離トラックの運転手をしていた。言葉は悪いが、面倒見の良い、親分気質の男であった。体格もよく、口髭がさらに人を威圧する迫力を持っていた。
「マサ!ここよろしく頼むわ」
「兄貴、早く香典だしな」
「そんなに、急かすなって!」
 雄介は、苦笑いしながら、内ポケットから香典袋を取り出した。通夜には、百人近い弔問客が訪れていた。叔父は生前、留萌の市立病院で、長年、臨床検査技師をしていたので、来る人達は、やはり昔の同僚や病院関係者が多かった。午後七時になり、通夜はしめやかに執り行われた。
 深夜になり、弔問客が帰り、ごく近い身内の者が残った。祭壇の前で真紀は、放心状態になっていた。頭を垂れ、ロウソクの火を見つめながら、何度もお線香を香炉に立てていた。真紀の夫、和夫は、会場の後ろの片隅で、缶ビールを飲みながら真紀の背中を見つめていた。貴志は、別室で缶ビールを飲みながら正樹と談笑していた。そして、恭子と葉月と子供たちは、親族の控え室で寝ていた。真紀の娘二人も、そこで一緒に寝ていた。雄介は、茂ととりとめのない話をしていた。
 次の日の朝、葬儀社の人が数人来て、祭壇の前で、親族を前にして湯灌を始めた。白い衣装に身を包んだ男性が、額に汗をしながら、手際よく叔父の体を拭き、白装束へ着替えさせた。最後は、伸びた髭を剃り、口と鼻に詰め物をして、顔の表情を整え、櫛で髪を梳いて終わった。叔父の肌は黄疸で黄色くなっていたが、安らかな顔をしていた。
 棺に叔父を入れた後、めいめいが花や想い出の品を入れ、蓋をした。火葬場へ着くと、すぐにセレモニーが始まり、二時間ほどで灰になって出てきた。遺骨を骨壷に入れる時、雄介は再び涙が溢れてきた。
「あっけないよ…、アキ叔父さん」
 その後、遺骨を持って葬儀場へ戻り、繰上げ法要を済ませて、葬儀は終わった。
 雄介は、夜遅く札幌へ戻り、ぐったりとしていた。シャワーを浴びた後、布団を敷いて大の字になった。疲れで頭の中が、真っ白になっていた。
「明日も、休もうかな…」
 このままの気分では、仕事に戻れないような気がした。雄介は、そのままぐっすり眠り、目が覚めると、朝の八時だった。
「寝坊だ…、まいったな」
 雄介は、携帯電話を手に取ると、会社に電話を入れた。
「すいません、もう一日休みます。手伝いが残っていて…、明日から出ます!」
 雄介は、すぐに携帯電話のメールをチェックした。相変わらずメールの数は多いが、詩織からのメールはなかった。
「詩織さん、昨晩、叔父の葬儀から戻りました。本当に心配をかけました。取り急ぎ連絡まで。ユースケ」
 雄介は、詩織にメールを送信した後、再び横になった。この一週間の気疲れが、どっと出たような感じがした。昼頃になり、やっと詩織からの返信があった。
「ユースケさん、お帰りなさい。お疲れ様でした!叔父さまの事は、お気の毒でしたが、心からの冥福を祈ります。私も、月末まで税理士としての仕事が忙しく、スケジュールの調整が難しい状態です。でも、この埋め合わせは、必ずしますので、私の事信じて待ってください。毎日、メールします。詩織」
 雄介は、この詩織のメールを読んで、力が抜けていった。
「いったい、いつになったら、詩織さんに会えるんだ?まるで、生殺しだ…」
 雄介は、携帯電話をテーブルに置くと、力なくソファに寝転んだ。この、焦燥感と飢餓感が一緒に襲ってくるような感覚は、初めてのものだった。何かに取り憑かれたような感じが、いっそう不快感を増した。
「思考が停止している…」
 以前見た映画…、アル・パチーノ主演の、『インソム二ア』を思い出した。不眠症からくる、判断ミス。夢と現実がシームレスに繋がっていく、混濁した意識。
「もしかして…、架空の相手にメールを?」
 雄介は、否定すれば否定するほど、思いは真っ暗闇に、突き落とされていった。テーブル上の携帯電話は、そんな思いとは関係なく、いつもメールを受信しては、震えていた。
「詩織さん、早くオレに会ってくれ、…でないと気が変になりそうだよ」
 雄介は、嘆願するような思いで、携帯電話を恨めしく見つめた。そして、携帯電話を手に取ると、詩織にメールを打ち始めた。
「詩織さん、お願いがあります。いつも、大量にメールが送信されてきます。でも、安心してください。詩織さん以外のメールは見ないで削除しています。もう、頭がおかしくなりそうです。そこで提案ですが、直接メール頂けませんか?あまりのメールの多さに、仕事が手につきません。ご一考お願いします。ユースケ」
 夜になって、詩織からメールが届いた。
「ユースケさん、それは私も同じです。私の方にも多くのメールが寄せられています。中には、非常に卑猥な内容や、読むに耐えないものなども含まれています。条件は同じですよ!ユースケさん、私を信じてください。何とか会えるように、頑張っていますので。ところで、ユースケさんは、何色が好きですか?会うときの服の色を決めたいな♪詩織」
 雄介は、詩織のメールを読んで落胆した。
「この女、ちっともオレの事わかってない。…もう、いいや」
 諦めにも似た気持ちが、雄介の心を支配した。
「何が、服の色だ!誘ってきたのは、お前の方だろ!すぐにでも会いたいって…、嘘ばっかり、書きやがって!」
 雄介の怒りは頂点に達していた。そして、すぐにメールを打ち始めた。
「詩織さん、もう、限界です。私は、このサイトから撤退することを決意しました。もう一度お願いします。直接メールのやり取りをしましょう。ユースケ」
 まもなくして、詩織からのメールが入った。
「ユースケさん、私を困らせないで!お互いのメール交換は、会ってからって言ったはずです。お願いだから、私を信じて。もう、この体をユースケさんに委ねる、心の準備はできています。ユースケさんに会うときは、ホテルの予約をしてもいいと思っています。私の疲れた心と体をユースケさんの優しさで包み込んでください。詩織」
 雄介は、困惑していた。先程までの怒りは、いくぶん収まっていた。
「どうしようかな…、来月まで、この状態で待つの?」
 雄介は、洗面所で顔を洗った。鏡には、どんよりとした顔が写り、目の下の隈が、疲れた様子を一層引き立たせた。でも、何としてもメールの着信を止めたい。この思いは変わらなかった。雄介は、詩織への返信は止め、まんじりともしないで、床に着いた。
 翌朝、雄介は、目覚まし時計の音で目が覚めた。仕事に出る仕度をして、三日ぶりにリフォーム営業に復帰した。日曜日の朝は、街の中の車も少なく、静けさが心地良かった。会社に着くと、さっそく、今日回る場所の選定を始めた。
「岡田、ずいぶん疲れた顔してるな。大丈夫か?」
 上司の杉山課長が、声を掛けてきた。
「何とか、大丈夫です。この一週間、有給使った分、頑張りますよ!」
 雄介は、空元気を出して、努めて明るく振舞った。
今日は、南幌町の新興住宅街を営業で回ることになった。午前十時に現場に着くと、一軒一軒、住宅を訪問して歩いたが、ほとんど、インターホン越しに断られていた。この、厳しい現状を受け止めながら雄介は、休むことなく訪問を続けていった。いつしか、全身から汗が吹き出していたが、このモヤモヤした思いも一緒に、全て汗と一緒に流れ出てほしと願った。
営業活動は、午後七時まで続き、最後の一軒まで回ったが、いいアポは取れず終いだった。そして、部屋に帰ってきた時は、午後九時を回っていた。雄介は、そのままシャワーを浴び、成果は出なかったが、いい汗をかいたと、久しぶりの爽快感に浸っていた。
 この一週間、自分はどうかしていたと、冷静さを取り戻していた。雄介は、自分に出会い系サイトは似合わないと、感じた。それでもやはり、詩織からのメールは気にかかっていた。思い出したように、カバンから携帯電話を取り出すと、やはり多くのメールが着信していた。
「ユースケさん、どうしていますか?せっかく会えそうなのに、詩織は淋しいです。私と真剣に向き合ってください。二人が困難を乗り越えて、やっと会えた!これって、大きな喜びになると思うし、固い絆にもなると思います。この思いはユースケさんに届かないのでしょうか?今日も、やっと仕事が終わりました。これから、会員制のエステに行ってリフレッシュしてきます。今度は、ユースケさんの体を私がリフレッシュしてあげます。詩織」
 詩織からの、メール着信時間は、午後八時を少し超えていた。雄介は、詩織にメールを返信した。今まで、熱病のように感じた詩織への思いが、以前よりは弱くなっていた。
「詩織さん、お疲れ様です。僕は、もうダメです。これ以上、このサイトに留まるのは、不可能です。分かってください。僕の、メルアドを添付しますので、ここにメールをください。ユースケ」
 すると、すぐに詩織から、メールの返信があった。かなり、慌てふためいた様子が窺えた。
「ユースケさん、私をどこまで苦しめたら気が済むの?必ず、スケジュールの調整をしますから、私を見捨てないでください。私はユースケさんに会う事しか考えていません。早く、二人が定期的に会える関係になって、私の全てを知ってほしいのです。お願いです、私の希望を摘み取らないでください。詩織」
 雄介は、この詩織のメールに動揺を隠せなかった。悲痛に近い文面に、自分自身が悪人になったような気がした。
「まいったな…、オレはどうしたらいいんだ?詩織さんを悲しませるのは、オレの本意ではないし…」
 雄介は、頭を抱え込んだ。メールのやり取りだけで、こんなに悩む事になるなんて、思ってもみなかった。しかし、現実は自分の忍耐力も、限界を超えていた。のべつメールを着信している携帯電話に、嫌悪感が芽生えているのも事実であった。
 そして、雄介は、ある決断をした。本当に詩織が会いたいのなら、送ったメールアドレスにメールをくれるはずだと思った。
 雄介は、携帯電話を手に取ると、メール設定を呼び出し、暗証番号を打ち込んで、メールフィルターを呼び出した。画面を着信拒否の欄にスクロールして、『ドリームへブン』のアドレスをクリックして設定を終えた。
 その後、あれほどうるさく震えていた携帯電話が静かになった。雄介は、胸を撫で下ろし、携帯電話を手にとって、しげしげと携帯画面を見つめた。
「やっと、静かになった。気が休まるよ…」
 雄介は、携帯電話をテーブルに置くと、深々とソファに身をあずけた。
「後は、詩織さんからのメールを待つだけ…」
 雄介は、精神的な落ち着きを取り戻し、タバコに火を点け、満足そうな笑みを浮かべた。もう、絶対に出会い系サイトは、やるまいと心に誓っていた。

 それから三日経ち、雄介は定休日で、ゆっくりと寛いでいた。しかし、あれほど来ていた詩織からのメールは一通も来ていなかった。
「メール来ないな…、詩織さん、警戒してるのかな?そんなはず、ないと思うけど…」
 雄介は、気持ちが落ち着かなかった。自分の決断は、間違っていなかったと、何度も頭の中で、確認した。そして、ポイント購入代も二万円近くになり、出費がかさんでいた。
「何だかな…、これで終わったら、寂しいよ詩織さん?」
 雄介は、気を取り直して、昼ごろ街に出た。中島公園から大通りに向かって歩きながら、夏の暑さを実感した。アスファルトは、太陽の熱で揺れている。歩く人も、ハンカチで汗を拭きながら、空を見上げて、肩で息をしていた。
「夏真っ盛りだね!喉が渇いたな…」
 雄介は、ファストフード店に入ると、カウンターでハンバーガーとアイスコーヒーを注文した。アルバイトらしい女の子が、愛想よくテキパキと注文した物をトレーに載せ、雄介に手渡した。
「ごゆっくり、どうぞ!」
 雄介は、トレーを持って二階席へ移動し、窓際の席に座った。外を見ると、街路樹は緑の濃さを増し、枝が時おり風に揺れていた。
「やっぱり、ここは涼しいね…、生き返ったよ」
 雄介は、持ってきた文庫本を開くと、ハンバーガーを頬張りながら、時おりアイスコーヒーをストローで啜っていた。
 しばらくすて、雄介の隣の席に、若い三人組の男が座った。身なりは、カラフルなタンクトップにずり落ちそうなジーンズ、いたるところに穴が開いている。黒く日焼けした肌にはタトゥーが見え、耳や鼻にはピアスが光り、大きなキャップを被っている。三人共、似たり寄ったりの格好をしていた。
そして、雄介は、何とはなしに、彼らの会話を耳にした。
「このサイト、ヤバクネー!書き込みスゲーよ…、しかも、超カワ!」
 三人の若者は、携帯電話を覗き込んで、盛り上がっていた。
「即アポ、即エッチ、OK!」
「お前ら、アホか!全部、やらせ、やらせなの!」
 雄介は、この会話に聞き耳を立てた。彼らの話しから、出会い系サイトの話しをしているようだった。
「実は、オレのダチ、出会い系のサクラで稼いでるんだ」
「マジ、マジ…、そんな仕事あんの?」
「男のくせに、サクラやってんだよね…」
「それ、マジ笑える!女と思って、メールしてくるんだろ?」
 雄介は、文庫本から目を離し、彼らを横目で見た。
「そいつ、文章かくのやたら上手いんだ!知らなかったら、マジ騙されるって!」
 雄介の首筋から、冷や汗が垂れ、喉の渇きも、やけに増した。
「詩織さんは、違う。そんな人じゃない…」
 雄介は、氷だけになったグラスをストローで尚も啜っていた。わずかにあった、融けた氷水も吸ってしまった。文庫本に目を戻しても、文字を追う目線が定まらない。
「それって、儲かるの?ラクそうだし、紹介してよ!」
「お前に、人に合わせて文章を書く、才能あるの?笑って、ごまかすなって!」
 三人は、大いに盛り上がって、大声で笑っていた。
「それでは、お前らに、悪質出会い系の見分け方を教えようか?」
 リーダー格の男が、得意げに話し始めた。雄介は、聞きたくないと思いながらも、彼らの話しに、つい吸い込まれていた。
「一つ、写メが、かわいい!二つ、即アポ、即エッチ、ありえません!三つ、会えそうで、会えない。引き伸ばしのテクニック最高!これで、哀れな犠牲者は、ポイントを貢ぐ!」
 雄介は、この三つが微妙に当てはまっていることが、気になった。
「でも、詩織さんは違う、絶対に違う!文章に品もあるし、がさつな表現もない…」
 雄介は、必死に彼らの話しを否定しようとした。
「最後に、サイト名を教えようか?」
「マッテました!モッタイぶるなよ…」
 雄介の鼓動は、いつしか早くなっていた。そして、おもむろにタバコに火を点け、煙を吸い込むと、いきなりむせ返った。タバコを挟んだ指が、微かに震えている。
「よ~く、聞け!ラブハンター、らぶらぶ・キューピット、ステディ、ドリームへブン!この四つには気をつけろ!」
 雄介は、最後の『ドリームへブン』という言葉に、耳を疑った。信じていたものが、脆くも崩れ去った瞬間である。目が虚ろになり、救いを求めるように、天を仰いだ。
 そして、いつしか目から溢れるものがあり、開いた文庫本に、大粒の涙が染み込んだ。夏の陽射しが、グラスの氷に反射して、雄介の顔に揺れている。まったりとした時間だけが、いやにゆっくりと過ぎていった。
「オレは、真夏の花火だ…」

スレイブ・トゥ・ラブ

 ハンガーに掛けている喪服から、微かに線香の香りが漂っていた。
今日は、交通事故で亡くなった妻の七回忌の法要だった。佐藤源一は、一人マンションの居間で寛ぎながら…、亡き妻の想い出を辿っては、ため息を漏らしていた。
久しぶりに会った親戚からは、「再婚しないのかい?」と、散々聞かれる始末で、返答に屈しては、苦笑いを浮かべ、その場から逃げるという行為を繰り返していた。
「四十過ぎのいい男が、いつまでも一人で居るもんじゃない!」と諭され、父親からも再婚を促されていたが、その父も二年前に脳梗塞で亡くなり、今は仏壇の遺影になってしまっている。
 源一には子供がなく、妻が卵巣炎を患っていたため、子供ができなかった。その事を申し訳なさそうにしていた妻の薫の様子が目に浮かぶ。「もし、娘がいたら…」という、仮定の話をしては、悲しい笑みを浮かべて、「コーヒー淹れるね」と言って、台所に立つのが常だった。
 一度だけ、「養子をもらおうか?」と言ってみた事があった。すると「あなたの子供でないから、いらない…」と言われて終わり。その時は、妻の心境を訊くこともせず、会話は途切れたままになっていた。それから、間もなくして妻は、雨の日の夜、近くのコンビニへ買い物に出かけた帰り、交差点を渡っている時、前方不注意の右折車に撥ねられ、あっけなく逝ってしまった。命の儚さを感じた、初めての出来事だった。相手をどんなに責めても、妻は返らない。この消失感は、今も続いている。埋めようのない大きな穴が空いて、そこを冷たい風が吹き抜けていく。その感覚が、ふとしたことで蘇る。
 源一は、道庁勤務の産業振興課の職員で、二年前に函館から札幌に転勤になり、主幹という立場になっていた。そして、今のマンションへ引っ越してきたが、彼の部屋は、生活感の無い寒々とした白い壁に、マイルス・デイヴィスのポスター、その下にオーディオが鎮座している。毎夜ジャズを聴きながらバーボンを飲むのが日課になっていた。
「オレは、このままアル中になって、野垂れ死にかな…」
 そんな事を心配しても始まらないと思っては、琥珀色の液体を喉に流し込む。
「何が楽しくて生きてるのかな?」と、答えの見つからない自問自答を繰り返しながら、眠ってしまう。エンドレスに続く、終わりのない夢、ループしたような毎日に、変化の兆しが見当たらない。
 そんな、ある金曜日の夜、同僚から携帯電話にメールが入った。
「たまに、羽目を外して遊ぶのも大事だよ。ステキなプレゼントを贈るよ!」
観光局の今村からだった。彼とは同期で性格も趣味も違っていたが、妙に馬が合い、腐れ縁のような関係が続いていた。メールには、URLが添付されており、「何だろうと?」と思いながら、それをクリックしてみた。
すると、怪しい雰囲気の画面に変わり、『大人の出会いをあなたに!セレブな夜』と表示され、美しい女性がウインクをしていた。
「もしかして…、出会い系サイト? 今村のヤツ!」
 源一は、この手のサイトは初めてであり、今まで関心も無く気にも留めていなかった。画面を見つめながら、スクロールをしていくと、登録画面が表れた。少し戸惑いながらも、プロフィール作成画面を上から順番に埋めていった。活動地域、年齢、性別、ニックネーム、自己紹介と必要な項目を埋めていくと、設定完了になり、女性の登録一覧の画面に替わった。彼は、しばらく眺めていたが、あまりの数の多さに、驚きを隠せずにいた。しかし、絞り込みの機能を使えば、好みの女性が、安易に探せる事に、後から気がついた。
源一は、疲れたせいもあり、女性へのアプローチはしないで、サイトからログアウトして、携帯電話をテーブルに放置したまま、ジャズを聴きながら、バーボンを飲んでいた。そして、いつの間にかソファに寝転んでうたた寝をしていた。
すると、携帯電話から発せられるメールの着信音で、目が覚めた。知らない女性からのメールで、「誰だろう?」と思いながら、メールを開いてみると…。
『ゲンさん、お願いがあります。私の話を聞いてください!』
源一は、見ず知らずのメールに戸惑いながら、働かない頭のまま、本文を開いた。
「いったい誰なの?」と、しばらく事態を飲み込めないでいたが、時期に出会い系サイトである事を理解した。「これが、そうなんだ?」
源一は、本文に目を落とした。
「ゲンさん、突然のメールとお願いに、どうか引かないでください。私は恥ずかしい事を告白いたします。実は、私はセックスで一度も気持ちよくなった事がありません。そこでゲンさんにお願いがあります。謝礼を払いますので、私を気持ちよくさせてください。とても恥ずかしいお願いですので、これは秘密という事でお願いします。 美千代」
源一は、画面に釘付けになったまま、体がこわばっていた。今までの人生の中で、一度もお願いされた事のない内容であった。美千代の登録写真を見ると、アイドル並みの容姿で、何度も目を擦りながら、写真を食い入るように見つめていた。
「ウソだろ?これは、ありえない…」
源一は、「騙されないぞ!」と、何度も心の中で呟きながら、画面から目をそらす事はなかった。彼は狼狽していた。そして、メールを何度も読み返しては、幾度となくため息を漏らした。
「何かの間違いだろう? ありえない…、とにかくありえない。源一、上手い話しには乗るなよ!」と、努めて冷静に考えようとしたため、せっかく飲んだバーボンの酔いが醒め、虚脱感だけが、彼の体を襲っていた。
源一は、しばらくしてから、テーブルに放置してあった携帯電話を手に取り、再びメールを開いて画面を見ながら、返信をクリックして、美千代にメールを打った。
「美千代さん。僕は、四十三歳の妻を亡くした、中年男です。何かの間違いではありませんか? ゲン」
しばらくすると、美千代からの返信があった。それまで源一は、サイトに登録されている女性の一覧表を見ながら、気になった女性のプロフィールと顔写真を見ながら、あらぬ妄想に耽っていた。
「ゲンさん、私はこのサイトで、男性を検索した結果、あなたを選んだのです。ゲンさんのセックス経験を私に傾けてほしいのです。このお願いは、若い子ではダメなのです。最近の男の子は、アダルトビデオの見過ぎのせいか、過激な事ばかりしようとします。そんなセックスは望んでいません。以前、私も何人かの男性とお付き合いをしましたが、誰も私を満足させてくれませんでした。とにかく、ゲンさん私のセフレになってください。本当にお礼はしますので、お願いします。 美千代」
 源一は、美千代の切実なお願いに、戸惑いを覚えた。妻を亡くしてから七年、久しくセックスから遠ざかっていたためか、下半身の疼きが目覚めてしまった。
「参ったな…、本当なんだろうか?」
疑問だけが、頭を駆け巡り結論が出ないまま、美千代のプロフィールに目を通した。
『札幌在住、アパレル会社経営、二十七歳、代表取締役。父から引き継いだ会社を年商十五億まで、成長させました。誰か、私の秘密のお願いを真剣に聞いてくれる人のみを対象にしています。冷やかし半分のメールはお断りします。』
源一は、なぜ自分が美千代のお眼鏡に適ったのか、理解出来ずにいた。しかも、謝礼までくれるという申し出にも驚きを隠せなかった。普通は、自分が買うという立場は理解できるが、自分が買ってもらうという立場は、考えの範疇になかった。
「謝礼か…、オレの金額はいくらなんだろう?」
源一は、自分の下衆な考えにうろたえた。しかし、気を取り直して、謝礼の件をメールに書くことにした。
「美千代さん、謝礼の件ですが…、そんな事は微塵も考えていません。 ゲン」
気持ちとは裏腹なメールを送ってしまった。本来なら、自分が払ってもおかしくない立場である。自分よりも年下の娘から、謝礼をもらう訳にはいかない。男の沽券に係ると、妙なプライドが頭をもたげていた。
「ゲンさん、そのようなプライドは捨てて下さい。これは、私からのお願いなので、ゲンさんに謝礼をするのは、当たり前です。いくらなら、お受けしてもらえるか、ゲンさんの素直な気持ちを金額にして、お知らせください。 美千代」
「素直な気持ちね…」
源一は、酔いの醒めた頭で、高過ぎず安過ぎずの金額で三万円という金額が頭に浮かんだ。本来なら、彼女に支払ってもおかしくない金額であった。
「美千代さん、何か気が引けますが、三万円でお願いします。男にとって夢のような話ですが、僕をからかってないですよね? ゲン」
源一は、メールを送信してから、もう一度バーボンをグラスに注いで、ジャズを聴き始めた。JBLのスピーカーからは、エディ・ヒギンズ・トリオの奏でる「My Funny Valentine」が流れてきた。今は、秋の深まる十月の半ば…。
「バレンタインか…、これって、バレンタイン?そんな訳ないか…」
普段、職場とマンションとの往復ばかりで刺激のない毎日が何年も続いている。平凡と言ってしまえばそれまでだが、自分の選んだ道だから、いまさら変える気もないが、こんなに早く妻に先立たれるとは、まさに想定外だった。その為か、自分で自分を持て余している。不器用なせいか、適当に息抜きをしたり、遊んで憂さ晴らしをしたりとか、器用に出来ないのが、源一の悩みのタネでもあった。そんな性格を見抜いていた今村からのプレゼントが「出会い系サイト」とは、奴の目論見の鋭さに舌を巻く思いがした。
源一は、ジャズを聴きながら、いつしか寝落ちしていた。朝になり目を覚ますと、シャツが汗で肌に張り付き気持ちが悪かった。彼は、着ている物をその場で脱ぎ捨てると、そのまま浴室へ行き、熱いシャワーを頭から浴びた。髪をシャンプーし、ボディソープで体を洗うと、鏡に映った自分の下腹部をまじまじと見つめた。
「元気がないな…、お前も刺激がほしいか?」
そして、下腹部を上から見ようとしたら、出っ張った腹しか見えず、苦笑いしか出なかった。
「こんなオヤジ体形で、彼女に逢うつもり?」
源一は、バスタオルで体を拭きながら寝室へ行き、バスローブを纏って居間に戻った。カーテンを開け、窓を全開にして朝の空気を部屋に招き入れた。火照った体に心地よい冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、ソファに寝転んだ。
「このまま死ねたら…、妻に会えるかな? あいつの所へ行けたら…、いいのに」
改めて、妻への愛情が残っている自分に、驚くとともに切ない気持ちに、戸惑いを覚えた。
「もう七年か、もっと一緒に居てくれたらな…」
源一は、妻の薫と結婚した当時を想い返した。彼女と出会ったのは、三十三歳の時であった。叔母が持ってきたお見合い写真を見て会う事を決め、その時は断る理由も無く、三歳年下の物静かで大人しい薫に好感を持ち、半年間の交際を経て結婚へ至った。実質の結婚生活は、わずか三年足らずであった。結婚の決め手は、何気ない会話から、お互いジャズが好きであることが分かり、共通の趣味ということで、デートはジャズの聴ける店が中心であった。
「あの三年間は、何だったのだろう…」
源一は、夢でも見ていたような気分を味わいながら、テーブルの携帯電話を手に取り、メールをチェックした。知らないメールが何通もあり、その中に美千代からのメールも混じっていた。
「ゲンさん、私は今、秘書に頼んでスケジュールの調整をしています。何とか早めに会えるように努力をしています。早くゲンさんに抱かれたい…。この乙女心を分かってください。すぐにでも、あなたの元へ飛んでいきたい気持ちです。こんな私を淫らな女なんて思わないでね。 美千代」
源一は、「純情可憐な乙女が、出会い系で相手を探すってか?」と、突っ込みを入れた。そして、ためしに他のメールも開いてみた。
「ゲンさん、アタシは十八歳の処女だよ!もらってほしいの。 アンナ」
源一は、唸った。「中年オヤジに抱かれたい処女っているの?」
「ゲン、遊びにおいで! 未亡人だから、昼間は暇で退屈なの、住所とマンションの部屋番号を教えるから、連絡よこしな。 スナックのママ」
「ゲンさん! 私のボーイフレンドになってくださらない? セフレは数名いますが、皆忙しいと言って、かまってくれません。それで私は一週間処女のままです。寂しい思いをしています。 エリカ」
源一は、他のメールを読まずに削除した。虚しい気分が、この殺風景な部屋を支配した。
「どいつもこいつも、盛りの着いた雌猫だね! 便利な機械を手に入れて、セックスで釣りをしている女たち! 信じられないよ…」
源一は、携帯電話の電源をオフにすると、ジャズを聴き始めた。このムシャクシャした気分を一掃するため、マイルス・デイヴィスのアルバム『BITCHES BREW』のCDをプレイヤーにセットした。ベース、ピアノ、パーカッションの静かな演奏から、突如閃光のようにマイルスのトランペット・プレイが炸裂する。この抑えがたい情動を音の洪水に身を任せ、浄化されていく気分を堪能した。しばらくして、この高揚した気分をクールダウンさせるために、ゲイリー・バーナクルの憂いを含んだサックスを聴くことにした。CDを交換して、「Walking In The Rain」が流れ始める。イラついた心が徐々に解きほぐれていった。
 源一は、普段着に着替えると、マンションを出た。久しぶりに街へ出て、その辺を散歩する事にした。地下鉄琴似駅から大通りへ出て、大通公園のベンチに腰を下ろした。秋も深まり、色づいた葉が緑の芝生を覆い、夏の喧騒は嘘のように過ぎ去り、時おり冷たい風が、頬をかすめて行く。
「冬も近いか…」
 源一は、しばらくベンチに腰掛けながら、芝生の上で遊んでいる幼い子供と、それを見守る夫婦の姿を、何気なく眺めていた。子供は、母親の周りを走り回りながら嬉々としている。その傍らで父親は芝生に寝転んで様子を見ている。その、何の変哲もない光景が、やけに目に染みた。亡き妻の薫が、そこに重なって見えており、記憶の断片に刻みこもうとしている自分がいた。
「家族か…」
 源一は、ベンチから立ち上がると、本屋へ向かった。日の出ビルの地下へ潜ると書店があり、音楽雑誌の新刊本を手に取って、新譜情報をチェックするのが、毎月の日課になっていた。その後は、タワーレコードへ向かい、色々と新譜を試聴しながら購入するCDを物色した。最近は、女性ジャズ・ボーカルを買う事も多くなり、源一はダイアナ・クラールのアルバム『The Look Of Love 』を手に取ると、レジへ持って行った。彼女のやや鼻にかかったハスキーボイスが、気に入っている。
 その後、部屋に戻った源一は、テーブルに放置していた携帯の電源を入れた。画面を見ていると、メールの着信が勢いよく始まり、二十通近いメールが表示された。
「何なの?」
源一は、美千代のメールを読もうとしてクリックをした。すると、『ポイント不足で表示できません』との表示。
「ポイント不足ね…」
源一は、ウンザリした気持ちをどうする事もできず、画面を下にスクロールしながら、「めんどくせー」と、叫んでいた。すると、『クレジットカード決済』という表示が出てきたので、財布からカードを取り出し、カード番号を打ち込んでポイントを購入した。
「ほんと、面倒くさい。しっかり商売してるよ」
 源一は、美千代との関係をどうしようか、迷っていた。
「まだ、会ってもいないのに…、どうかしてるよね?」
 源一は、人寂しい境遇にも慣れたつもりでいたが、休日は自分を持て余している。この現実を、否定もできず悶々とした気分を紛らわせるのに、いつも苦労をしていた。
「薫…、もう七年だよ。許してくれるよね?」
 源一は、仏壇の遺影を見ながら呟いた。
「ゲンさん、おはよう。
 何とかスケジュールの都合がつきそうだよ。そこで、ゲンさんに聞きたいことがあるの。当日は、どんな服装で行こうか迷っているの? 好きな色とか、服装のリクエストがあれば、それに従います。それから、もっと重要なことだけど、ホテルはどこがいいかな?
あ~、その前に、食事はどこがいいかな? それと、費用の心配はしないでね! 私が、全部みますので! ゲンさん、返事まってます。 美千代」
 源一は、大きなため息をついた。
「何だ…、このピクニック気分は! 服装? ホテル? 食事? もう、勝手に決めろよ!」
「大変なのに、捕まっちゃったな~。勘弁してほしいわ」
源一は、美千代に返信した。
「美千代さん。全て任せますので、思う存分自分の好きなようにやってください。僕は、従うだけです。 ゲン」
そして、直ぐに美千代から返信があった。
「ゲンさん、怒ってる? もし、気分を害させる事を書いてたらゴメンなさい。でも、私の真剣な思いは汲み取ってくださいね。私の父はとても厳格で、つい最近まで実家で両親と一緒に暮らしてました。だから、外泊も禁止で門限も決まっていて、完璧な箱入り娘でした。今までお付き合いした人も、この厳格さに呆れて逃げ出してばっかり…」
 源一は、メールを読みながら、深いため息をついた。
「今時、あり得ないって思うでしょう? そんな訳で、両親が留守の時に彼氏を部屋に呼んで、いたしてましたが…、お互い焦りながら事に及ぶので、いつもいきなりだから、気持ち良かったなんて、なくて…」
「参ったね~」
 源一には、嫌な予感が渦巻いていた。
「ゲンさん、私の切なる夢を叶えてください。私を気持ちよくさせてください! お願いします。 美千代」
源一は、美千代の事情は呑み込めたが、「なぜ、オレなの? しかも、もし父親に見つかったら…、オレはいったい?」
 背筋に悪寒を感じながら、源一は呟いた。
「やばいね~。回避できないかな…。でも、メールで従うって、約束してるし」
 首の辺りが妙に涼しく感じたが、このスリル感が源一の思考を冒険へと誘っていた。
「ここで、降りたら男じゃないし! ゲンどうする?」
「降りたら…、負けでしょう?」
しばらく、自分の中で自問自答しながら、答えは決まっていた。
「オレって、律儀だからな~。これは、父親に似た性格だから、しょうがない」
 源一は、ソファに座って、先ほど買ってきたダイアナ・クラールのCDをかけた。ほどなくして、美千代からのメールが届いた。
「ゲンさん! 大丈夫ですよね? 私との約束、守ってくれますよね? 今、ゲンさんの気持ちが分からなくて不安です。私の所には、変なメールや厭らしいメールがたくさん来ています。信じられないくらい卑猥なメールばかりで、ショックを受けています。 美千代」
 源一は、美千代に対する思いが膨らんでいる事に、妙な感じがしたが、美千代の切実な思いも感じていた。
「美千代さん、心配しないでください。約束は守ります。自慢じゃないけど、約束を破ったことが無いのが、自慢なんです」
 源一は、ちょっと気取った自分に驚いた。
「いつものオレじゃない感じ…」
「美千代さん、僕以外のメールは読まずに削除してください。僕も美千代さん以外のメールは読まずに削除しています。早く会えるのを楽しみにしています。 ゲン」
 源一は、美千代にメールを送信すると、他のメールにも目を通した。
「ゲンのバカ! 私はあんたを信じて待ってたんだよ。連絡くらいよこしなよ! スナックのママ」
「ゲンさん、他のセフレと縁を切ったら、私とお付き合いしてくれますか? 私のセフレは、会社の社長さんとか、既婚の医者、テレビ局のディレクターなど色々いますが、あまり未練もないので、すぐにでも縁を切ります。連絡待ってます! エリカ」
 源一は、複雑な気分に襲われた。
「どうかしてるよ…、この国の女は」
 源一は、メールを削除すると、コーヒーを淹れるために台所に立った。コーヒーメーカーにフィルターをセットし、粗挽き豆を入れると、冷蔵庫から「京極の名水」と書かれたペットボトル取り出して注ぎ、スイッチを入れた。そして、ソファに座っていると、コーヒーの香しい匂いが部屋中を満たした。
 妻が生きていた頃は、ジャズを聴き始めると、薫が台所に立ってコーヒーを淹れていた。そして、横に座って聴いている。それが当たり前の日常風景であった。あまり会話もなかったが、それでお互いが満たされていると思っていた。ただ、そう信じていただけかも知れない? そんな思いが脳裏をかすめた。
「つい、感傷的になってしまうな…」
そんな生活も今は昔、源一はマグカップにコーヒーを注ぐと、ソファに腰を下ろした。スピーカーからは、ダイアナ・クラールの艶やかなボーカルが響いている。「The Look of Love」の歌詞を読んでいると、美千代の事が脳裏に浮かんだ。
「もしかしたら…、こんな気持ちなのかも?」
 源一は、妻の薫と美千代に挟まれた、倒錯したような感覚に見舞われた。
すると、エリカという女性のメールが入ってきた。
「ゲンさん! 今、全員のセフレと縁を切ってきました。一人だけ私と縁を切りたくないって、ダダっ子みたいな社長さんがいましたが、きれいさっぱり縁を切りました。みんな私のこと、都合のいい女だって思っていたことは、分かっていました。自分が抱きたい時だけ抱ける女。それって、男にとって天使みたいな存在ですよね? …でも、私は堕天使! 今は、ゲンさん一人の天使になりたいの! 連絡を待ってます。 エリカ」
写真を見ると、目線を外してややうつむいた横顔で写っている。憂いを含んだ淑女といった雰囲気である。この文面に源一は、頭を掻きむしった。
「読むんじゃなかった…」
 源一は、コーヒーを飲みほすと、この女たちの果てしない欲望と、刹那的な行動に救いようのない不安感だけを覚えた。
「知らない相手に、自分の思いを伝えることって、どんな意味があるんだろう?」
源一は、自分がこれからしようとしている事に、一抹の不安と湧き上がる欲望の渦の狭間で、揺らいでいた。
「賽は投げられている。後戻りするのか?」
 不安と期待が、自分の心を試している。臆病な顔が出てきては、ブレーキを掛けようとする。
「今は、アクセルを吹かす時だろ?」
 源一は、自分の本音がどこにあるのか、考えあぐねていた。
「自分の欲望に忠実に生きる。それとも禁欲を続けるのか…」
 そんなことを押し問答していると、同僚の今村からメールが入った。
「今、何してる? もしかして、お楽しみ中かな? あのサイトは、必ず出会えるから頑張れよ! それと、結果も報告すること。楽しみにしてるよ!」
「何が、報告だよ! いい気なもんだね。人の気も知らないで…」
 源一は、携帯電話をテーブルに置くと、ソファに寝転んだ。すると、笑いが込み上げてきた。
「オレは、いったい何を悩んでるんだ? まだ、何も起きてないのに…」
しばらく横になっていると、美千代からのメールが入った。
「ゲンさん! スケジュール決まったよ。来週の金曜日の夜はいかがですか? 時間もたっぷり五時間取れました。まずは、ゲンさんを送り迎えする時間と、二人で食事をする時間を入れたら五時間は必要ですよね? その辺を秘書に言って時間を作りました。そして、ホテルも予約しました。スマートなシティホテルだよ。名前は『ロテル・ド・ロテル』隠れ家的なオシャレなホテルですよ。もちろんスイートです」
 何とも、美千代の嬉しそうな気持が伝わってきた。
「ここは、以前泊まった時、とても気に入ってしまったの。やっぱり、好きなホテルに泊まって、ステキな思い出を作りたいの。早く、金曜日が来ないかな~ 美千代」
 源一には、無邪気な美千代の顔が浮かんだ。しかし、素直に喜べない自分もいた。
「もし、エリカが美千代より先だったら…、エリカに会ってただろうな?」
「ほんのチョットした差なんだよね…」
 明暗という言葉が、浮かんでは消えていった。しかし源一は、この差の意味を考える事はなかった。逆にエリカの気持ちを考えて、まんじりともしない、夜を過ごしていた。
 深夜になり、エリカからのメールが入った。
「貴方からの連絡を、ずっと待ってます。こんな事…、初めてです。やはり、私のような尻軽女は嫌ですか? 多くの男に抱かれた女は、ダメなんですね? 私は貴方によって、新しく生まれ変わりたいだけなんです。無理なお願いだと承知はしています。もう、一人の人に尽くしたいのです。単なる慰みだけの女で、終わりたくないのです。どうしたら、貴方の気持ちを振り向かせる事ができますか? エリカ」
 源一は、エリカの切ない気持ちを無視していいものか? 複雑な思いに胸が重くなっていた。
「いったい、どうしたらいいんだ?」ぼんやりと天井を見つめながら、闇の深さに沈んでいった。
 朝になり、目覚まし時計で起こされると、すぐに源一は携帯画面を見た。やはり、美千代からメールが来ていた。
「ゲンさん! 私たちの関係って、これ一回きりの関係で終わるのかな? もし、これで終わってしまったら、悲しいと思わない? 私は、これで終わってしまうのは、何か違うと思ってます。もっとお互いをよく知っていければ、きっといい関係が続いていくと信じています。ゲンさんも、私と同じように考えてくれたら…、嬉しいな! 美千代」
 源一は、恐れていた方向へ流されている事を実感した。
「まだ、会ってもいないのに…」
ベッドから起き上がると、源一は浴室へ行きシャワーを浴びた。眠気が取れず、まだ頭がぼんやりしている。そして、何気にレバーを水に切り替えた。一瞬で眠気が吹っ飛び、その冷たさに背筋が伸びて、鏡に映った充血した眼が、自分を覗いていた。
 月曜の朝は、休みの余韻が残っている。そのせいか、今ひとつ元気が出ない。満員の地下鉄に揺られ、改札口から吐き出されるようにして地上に出ると、朝の冷気をコートの襟もとから感じた。

 源一は、机に座って、コーヒーを飲みながら、スケジュールを確認していると、今村が側に来て、薄笑いを浮かべていた。
「佐藤! 目が赤いね…。楽しんだな?」
今村は、期待に満ちた様子で、源一の言葉を待っていた。
「そんなに、赤いか?」
「眠ってない感じが、溢れてるね!」
今村は、目を輝かせながら、言った。
「あのサイト…、いいだろ?」
 源一は、もったいぶりながら、今村の得意そうな顔を、下から仰ぎ見る感じで見つめた。
「まだ、会えてないよ!」
「そうか、まだか…。お前は奥手だし、慎重だからな~」
「うるさいな~。オレは、お前と違ってシロウトだよ!」
「わかった! 後で、極意を伝授するよ」
 今村は、そう言い残してフロアを出て行った。
源一は、朝から出会い系の話しで盛り上がるのはどうかと、職場の雰囲気を気にしていた。お堅い役所でする話題ではなかった。経験上、プライベートな話題が、周りに知れ渡るのは、都合が悪い。それで、転勤を余儀なくされた同僚も見ている。地方が長くなり、出世コースから外れた奴もいる。

 昼になり、源一は食堂でサンマ定食を食べていた。そこに今村が、生姜焼き定食を持って、隣に座った。
「何か、あったのか?」
「まだ、メールでやり取りしてるだけ…」
「まず、会う事が先決だよ! とにかく、会う約束を取れ!」
今村は、低い声で囁くように言った。
「今、二人から…、熱心なアプローチがあるんだ。とりあえず、一人に絞ったけどね…」
「えっ! 何で絞るの? 二人に会えば!」
「だって」
「お前ねぇ、お見合いでもするつもりなの?」
 源一は、今村の言葉で、自分の考えの古さに気づいた。
「会ってから、どうするか? 会わずにあれこれ考えてもしょうがないよね?」
 源一は、自分が心配性である事が、証明された感じで、バツが悪かった。
「あまり、構えるな! 構えると相手も構えて、ぎこちなくなる」
 今村の具体的なアドバイスに、とにかく耳を傾けた。
「とりあえず自然体で行けよ! 特にお前は、自分を作ると、すぐに嘘だとバレルから、素の自分を見せて、相手を安心させる事だ!」
「オレって、危険に見える?」
「どちらかと言うと、野暮ったい方だな…」
「ずいぶん、ハッキリ言うね!」
 今村は笑いながら、みそ汁をすすった。
「二人に会ってから、いい方に決めればいいし、両方ともダメな場合もあるから、とにかく会ってくれる人には、会う事!」
「そうなんだ…」
 源一は、堅苦しく考えていた自分に呆れた。
「お前は、一人で居る事に慣れてしまっている! 違うか?」
「時たま、寂しいけどね…」
「世の中、寂しい人間で充ち溢れているよ。自分に気を引くために、過激なメッセージで、相手を振り向かせる。これが、常套手段! メッセージ通りの人間とは限らないからねぇ」
 源一は、今村の言葉に、深く頷いた。
「確かに、過激なメッセージに引いてたような…」
「だから、会って確かめる、だろ?」
 源一は、亡き妻の事が、頭から離れない事も告白した。
「実は先日、妻の七回忌があったばかりなんだ…」
「それで? 妻に悪いって…」
「うん! 何か、引っ掛かる」
 源一は、今村の顔を見た。
「困ったね? せっかく会ってくれそうなのに、替わりにオレが行くか! 写真見せろよ」
「待てよ! お前が会ってどうする?」
「佐藤! チャンスって、都合の悪い時にやって来ると思わないか? 何故か、都合の悪い時に限って、いい話が舞い込んでくる」
 源一は、今村の言葉に強く頷いた。
「きっと、本気でチャンスを掴みたいか、試されている。オレは、そう思う」
 源一は、薫に出会ったのも、素直に会う事を優先させた結果である事を思った。
「早く、写真見せろよ!」
 源一は、背広の内ポケットから携帯電話を取り出すと、サイトを呼び出し、美千代の写真を今村に見せた。
「ホントに…、可愛い娘だ! お前に持ったいないね! オレが行くから、心配しなくていいよ」
「待ってくれよ、譲る気はないよ!」
「お前じゃ無理だよ! 落とせない。オレに任せろ」
 源一は、眉間にしわを寄せ、今村を睨んだ。
「もう一人の方は? 絞ったんだろ」
 源一は、エリカの写真も今村に見せた。
「こっちも、そそるね…。両方とも、佐藤には、荷が重いわ! 悪い事は言わない、オレに任せろ!」
「二人とも、オレが会う。今村、アドバイスありがとう!」
 今村は、首を斜めにしてお道化た笑いを浮かべた。
「ケントウを祈る」
 食器トレイを持って、席を立った今村は、源一に背を向け手を振りながら去っていった。
「とりあえず、二人に会うか」
 源一は、今村に背中を押された事に、感謝した。
「あいつらしいな…」

 残業が終わり、午後八時に部屋に帰ってきた源一は、背広を寝室のクローゼットに掛けると、下着姿のままソファに座った。携帯電話を見ると、多くのメールが入っている。
「面接じゃあるまいし、そんなに会ってられないよ」
 源一は、そう呟くと、エリカのメールを開いた。
「やはり、貴方を諦めないといけないのかしら? このサイトは、会えるという評判から登録したのに、残念でなりません。貴方のプロフィールから、真面目そうな雰囲気が伝わってきたのでメールをしましたが、私の見当違いでしたね? 一度でも、貴方からのメールを読みたかった。 エリカ」
 源一は、自分のプロフィールに、公務員である事、妻を亡くして独り身であること、ジャズが趣味であることなど、自分を誇張することなく、素っ気ない自己紹介になっていた。ただ、道庁の職員である事は、伏せていた。誰が見ているか分からないので、最低限の用心だけはしておいた。
「メールしてみるか…」
 源一は、エリカにメールを返信した。
「エリカさん、初めまして。実は、あなたの告白に躊躇してました。自分のような人間が、エリカさんの目に留まった事が、不思議でなりません。とても平凡な男です…。写真を載せないのも、公務員という立場からとご理解ください。イケメンで無い事は、確かですので期待しないでください。こんな私ですが、会ってもよいと、お考えでしたら、連絡ください。 ゲン」
その後、源一は美千代のメールを開いた。
「ゲンさん、元気にしてますか? 私は、仕事を精力的にこなして、スケジュールが狂わないように頑張ってます。今週の金曜日が待ちどおしいです。それまでに、買い物やエステ、美容室と、会う為の準備で忙しい毎日になりそうです。 美千代」
 源一は、張り切っている美千代のメールに圧倒されるものを感じた。果たして、安易な気持ちで二人に会っていいものか? 再び、迷いに襲われた。そんな思いとは関係なく、エリカからの返信があった。
「ゲンさん、メールありがとう。何か、涙が溢れてきました。ここで、貴方にお詫びをしなければいけません。貴方に送った告白は、実は全て嘘でした。写真は、本物ですが、たくさんのセフレはでたらめです。確かに、多くの人から愛人になって欲しいと誘われましたが、ぜんぶ断ってました。自分の地位や名誉、お金の力で私を自由にしようとした男たちには、魅力は感じません。あなたのような素朴な人に出会いたいと思いサイトに登録しましたが、プロフィールが嘘ばかりで、うんざりしてました。そして、サイトを止めようと思った時、あなたのプロフィールが目に付いたのです。私は、最後の賭けに出ました。あなたの反応を見る為、作り話をしてふるいに掛けようとしたのです。あなたのプロフィールに偽りがなく、思った通りの人柄であれば、すぐに飛びつくことはなく、最後のメールで返信が来ると思っていました。あなたは、私の見込んだ通りの人でした。こんな私ですが、貴方に会える事を楽しみにしています。 エリカ」
 源一は、一本取られた感じに一抹の不安を覚えた。
「これは、大変な事になりそうだ…、どうする?」
 源一は、今村のアドバイスを思い返した。奴の言ってたことが呑み込めてきた。二人とも本気である。
「まずは、会おう。会ってから…、それから考えよう」
 混乱しそうな頭の中をクールにする為、源一は冷蔵庫から氷を出して、グラスに入れ、いつものようにバーボンを注いだ。そして、オーディオのスイッチを入れ、キース・ジャレットの「THE KOLN CONCERT」をセットした。ソファに身を沈め、グラスを鼻に近づけ香りを楽しんでから、口に含んだ。リモコンでプレイをオンにすると、憂いを含んだピアノの音色が流れてきた。薫が好きなアルバムだった。自然に遺影の方へ目が行っている。薫は、今の俺を見て、何を思うだろうか? 遺影の中で微笑む彼女は、無理に笑っているようにも見えた。
 そんな事を思うと、昔の苦い思い出も蘇ってきた。薫と結婚して二年目になり、子供が出来ない事で、二人で産婦人科に通って告げられたシーンが思い出された。
「卵巣炎が慢性化してますね。今は、治療が優先ですよ! 子供は、その後ですね…」
 そんな事があってから、薫から笑顔が消え、会話も少なくなり、そんな自宅に帰るのが辛い時期でもあった。そして、年の瀬が近づき忘年会で隣に座った女子職員が、甲斐甲斐しく鍋の料理を取り、ビールを注いでくれる様子に勘違いしてしまった。勝手に盛り上がり、二次会で彼女を誘ってこっそり別な店に行ったのが、運の尽きであった。年が明けて、二人は噂になっていた。噂に尾ひれが付き、ホテルに行った事になっている。しかも、噂は妻の耳にも入ってしまった。その上、女子職員は噂で傷つき、二月で退職していった。源一は、転勤を言い渡され、三月には函館にいた。
「何もせず、酔っ払って帰ってきただけなのに…」
噂の真実よりも、噂が出たことに重きが置かれていた。
「やっちまったな~、でも、オレはお前を信じるよ」
「今は、独り身だから関係ないか?」
「あいつは、遊び人なのに、女を連れ歩いている姿を見たことはないし、噂も聞いた事がない…。なぜだろう?」
 源一は、今村の遊び方を研究しなければと思った。
 そして、美千代へメールを返信した。
「美千代さん、そんなに根を詰めないでください。もっと、肩の力を抜いて会いませんか? 僕は、逃げませんよ。 ゲン」
メールを送信すると、源一は携帯の電源をオフにしてテーブルに置いた。エリカと会う約束もする、美千代にも会う。どんな風になるのか、見当もつかなかった。
「なるようにしか、ならない!」

 次の日の朝、携帯の電源を入れると、いつものようにメールがたくさん入っていた。そこには、美千代の返信がなく、エリカの返信があった。
「ゲンさん、今週の水曜日の夜に会いませんか? 食事でもして、貴方の事がもっと知りたいです。その時、私の事も話しますね。 エリカ」
何とも簡潔なメールだった。とても落ち着いており、美千代のような浮ついた感じはなく、この二人の落差に、戸惑いを覚えた。源一は、エリカにも惹かれている自分に驚きを隠せなかった。

 夜になり、帰宅してから美千代のメールを開いた。職場では、メールを読むのは禁止にしている。同僚に気づかれるのを恐れていた。出会い系をしている事がばれたらと思うと、気分が優れない。再び、あの悪夢が蘇える。
「もう、噂はカンベン!」
「ゲンさん、今日は買い物をしてきたよ。もちろん、服も買ったし、ゲンさんへのプレゼントも。明日は、エステに行ってきます。金曜日が直ぐにきますように! 美千代」
 源一は、無邪気な美千代のメールに、微笑ましさを感じた。しかし、なんて返信しようか文面が思いつかなかった。
「美千代さん、僕も会えるのを楽しみにしています。 ゲン」
「何て、素っ気ない…」
 源一は、メールを送信すると、直ぐにエリカのメールを開いた。
「ゲンさん。いよいよ明日の夜ですね。新札幌駅そばのホテル・シェラトン札幌の七階にある『Padma』というレストランでお会いしましょう。私の名前で予約を取っているので、受付で名前を伝えると、案内してもらえます。時間は、午後八時で取っています。 エリカ」
源一は、直ぐに返信をした。
「エリカさん。明日、会えるのを楽しみにしています。たぶん、仕事帰りなので紺のスーツで行きます。目印に、胸ポケットに白いチーフを入れてます」
 メールを送信すると、急に落ち着かない気持ちになった。胸は高鳴り、そわそわした気分が、滑稽に思えた。初めて薫に会う時も、こんな感じになっていたことを想い出した。
「何だかな…、妙な感じだ」
源一は、バーボンに手を伸ばしたが、『Four Roses』の黒ラベルを見つめると、瓶を棚に戻した。
「たまに、アルコールを抜かないと、本当にアル中になるな…」

 源一は、叔母に連れられて、パークホテルのレストランで薫に会った。お互い緊張して、下を向いたまま沈黙が続く、叔母が必死に話題を提供しては、場を盛り上げようとしていた。そんな叔母の姿が目に焼き付いている。しばらくして叔母からは、途中で無理だと半ば諦めて席を立ったと聞かされた。薫と付き合うと報告した時の叔母の驚きようは、今も忘れない。二人っきりになると、薫が「源一さんの趣味は、何ですか?」と、消え入るような声で尋ねてきた。
「ジャズを聴く事です」と、素っ気ない返事に、下を向いていた薫が顔を上げ、初めて笑顔を見せた。
「私も、ジャズ好きなんです!」
 その一言と、薫の笑顔につられて源一も笑顔になり、ジャズの話しで盛り上がると、意気投合という言葉を実感した。
源一は、帰り際に「結婚を前提にお付き合いしてください!」と、口走っていた。
「ハイ!」という返事に、天にも昇る思いで駆け出し、隣の中島公園で飛び上がっていた。
「そんな事もあったな…。あれから十年か~」
でも、今は時計の針が止まったまま。そんな思いで薫の遺影を見ると、頬をつたわるものが雫となって、テーブルクロスに染みこんだ。

 水曜日の夕方、定時で仕事を終えると源一は、行きつけの理容院へ足を運んだ。ちょっと薄くなった髪よりも、午後になると濃くなる髭の方が気になっていた。
「佐藤さん、いつもより半月早いですね~」
「今日は、これから人と会うんで、髭の方が気になってね…」
「いい人に、会うんですか?」
 店主は笑いながら、剃刀を砥ぎ始めた。
「ま~、そんな感じかな」
 久しぶりに、心躍る感じがしていた。どんな人だろうと、思いを巡らせながら、シートに持たれ、目を閉じて熱い蒸しタオルの感触を味わいながら、眠気に襲われた。
 源一は、髭剃り後に塗るクリームで目が覚めた。
「あれっ、眠ってた?」
「何か、気持ちよい寝顔でしたよ」
店主の笑顔に、源一も笑顔になり、鏡の自分を見つめながら、スッキリした顔に満足した。そして、おもむろに白いチーフをカバンから取り出し、胸ポケットへ差し込むと、コートを着込んだ。
「ありがとう! 行ってくるよ」
「行ってらっしゃい!」
 店を出ると、源一は地下へ下りて行った。地下街は、帰宅するサラリーマンで溢れている。地下鉄東西線の新札幌行きに乗り、終着駅の新札幌まで立っていた。多くのサラリーマンと共に地下鉄を降り、地上へ上がると辺りは暗く、街の明かりが眩しく、目に映った。
源一は、シェラトン・ホテルを見上げると、エントランスから入り、エレベーターの場所を案内で確認すると、素早く乗り込んだ。
「周りを気にして、どうする?」
 源一は、自分の行動がおかしく見えた。エレベーターは七階で止まり、すました顔で降りると、右の方向にレストラン『Padma』の看板が見えた。店を前にすると、緊張感が走り、ぎこちない口調で、ボーイに声を掛けた。
「待ち合わせで、来たんだが…、エリカという名前で予約が入っている」
「お待ちください!」
ボーイが確認しに行っている間、源一は手持ち無沙汰に立っていた。。
「三浦恵梨香様で、予約が入っています。案内をしますので、コートをお預かりします」
 源一は、コートを脱いでボーイに手渡した。店内を見渡すと、窓際の奥の席に背を向けて座っている、セミロングの女性の姿が見えた。店内には、ビル・エヴァンスの曲が流れていた。ボーイに案内され、奥の窓際の席へ着くと、写真よりもひと際美しい女性が、微笑んでいた。
「初めまして…、佐藤源一です」
「こちらこそ、初めまして、三浦恵梨香です。あらっ、立ってないでお座りください」
 源一は、強ばった顔に笑顔を付けて席に着いた。
「食事は、コースを頼んでます。その方が、ゆっくりお話ができるので…」
「そうですね」
 源一は、緊張感から頭が真っ白になり、目の前のグラスの水を飲んで、落ち着かせようとした。
「源一さん、公務員って書いてありましたが、職場はどちらですか?」
「え~、道庁の職員で産業振興課です」
 源一は、慌てて背広の内ポケットから名刺入れを取り出し、彼女に渡した。
「恵梨香さんは…」
 彼女もバッグから名刺入れを出すと、源一に手渡した。白くて長い指先が、妙に色っぽく見えた。名刺には、『Lotus Dental Clinic』代表取締役・歯科衛生士と書かれていた。
「父から引き継いだ歯科医院なんです。名前も私の好きな蓮にしたんですよ。それで、プロフィールには、歯医者さんと書いていました」
源一は、エリカのプロフィールを読んでいなかった。自分の中では、セフレの多い寂しい女というイメージが強くあり、彼女の職業には関心がなかった。
「あなたのような方だと、ファンも多いのでは?」
 源一は、にこやかに返答した。
「確かに、私のファンは多くいますね…、愛人にならない?というお誘いも多いです」
 彼女は笑いながら、源一を見つめた。確かに、自分では役者不足だと思いながら、優雅な雰囲気を醸し出すエリカに見とれていた。コース料理が運ばれてくる中、エリカの話に耳を傾け、ときおり公務員の仕事を話しては、大変さをさりげなくアピールしていた。
「ところで源一さんは、お独りなんですよね…?」
「七年前に、妻を交通事故で亡くしてから…、ずっと独りです」
「これからも、お独り?」
 エリカは、ずばり確信に迫る問いかけをしてきた。
「そうですね~、いい出会いがあれば…」
「ですよね~。そうでないと、登録しないですよね」
 エリカは、窓の外に目をやり、遠くを見つめた。
「私も、三十代後半…、何か焦ってる感じなの」
上目遣いのエリカに、源一はヘビに睨まれたカエルのような気分になった。
「恵梨香さんなら、きっといい人が現れますよ!」
 源一は、自分の言葉に絶句した。
「何、言ってるの? オレは…」
 エリカの顔が一瞬曇り、デザートのアイスクリームを口に運んで、再び窓の外を眺め始めた。
「恵梨香さん、僕なんかで…?」
「そうね…、せっかく出会ったんだし、お付き合いしてみる価値はあると思うの」
 エリカは、メモ用紙にメールアドレスと携帯番号を書くと、破いて源一に渡した。
「もう、サイトは退会します。このアドレスにメールをくださいね。それと   明日は、学会の会合があるので、これで失礼します。もう、お会計は済ませてあるので…。もし、良かったら今度はドライブにでも誘ってください」
そう言い残すとエリカは席を立ち、歩いて行った。席に残された源一は、しばらく夜景を見ながら、半分解けかけたアイスクリームをスプーンで集め、口に運んだ。そして、夜景にも飽き、腕時計を見ると、午後十一時を回っていた。

 地下鉄の最終便に乗り込むと、源一はまばらな人影を目で追った。
「さすがに、この時間になると、人はいないね…」
 源一は、エリカのとの会話を反芻しながら、自己嫌悪に陥っていた。
「ぜんぜん…、リード出来なかった!」
 お前には、荷が重いという今村の言葉が胸に突き刺さっている。
「お見通しって感じ…」
「とりあえず、次はドライブの約束をしないとね~」
 源一は、これもエリカの配慮であることに気づくと、気が滅入った。
「オレは、お釈迦様の掌で遊んでいる悟空か?」
 地下鉄琴似駅で降りると、源一は重たい足取りで階段を上り、地上に出た。静まり返った街は、眠りについている。客待ちのタクシーを見ると、シートを倒した運転手の足裏がフロントガラス越しに見える。
「みんな疲れてるな…」
 源一は、マンションの部屋の鍵を開け、明かりを点けて入った。冷え切った部屋の空気に凍えながら、浴室のバスタブにお湯を入れ始めた。そして、崩れるようにベッドに倒れ込むと、汗の匂いのしみ込んだシーツが鼻を刺激した。
「シーツも洗ってないな…。いつからオレは、こんな臭いベッドで寝てるんだ?」
 コートを脱ぎ、背広を脱ぎすてワイシャツのボタンを外すと、源一は突き出た腹に目をやった。
「お前は、太っ腹だね」
 そう呟くと、源一は裸になって、お湯の溜まったバスタブに身を沈めた。
「冷え切ったオレの体を温めてくれるのは、お前だけか…」
 源一は、バスタブを撫でながら、溢れる涙をお湯と一緒に流した。

 朝になり、携帯電話を見ると、いつものようにたくさんのメールが入っている。そこには、エリカのメールはなく、美千代からのメールが複数入っていた。
「ゲンさん! 今日はエステに行ってきました。このすべすべの肌は、ゲンさんのものだよ! 美千代」
「ゲンさん! どうしてメールくれないの? 少し不安になってきました。ちゃんと会えるよね! 美千代」
「ゲンさん! 本当にどうしたの? 大丈夫ですか? 連絡ください! 美千代」
 源一は、美千代の必死なメールに、健気さを感じた。
「美千代さん、ゴメン! 昨晩は、取引先との打ち合わせが長引いてしまって、連絡できませんでした。明日、会えるのを楽しみにしています。 ゲン」
 朝から嘘のメールを送った源一は、心の中に染みのように残った。
「これくらいのウソは、可愛いもんだね…」

 昼になり、源一はトイレの個室に入り便器に座って、メールをこっそり見ていた。美千代からのメールを確認するために、禁を破ってしまった。
「ゲンさん! 私は、この空白の一日でげっそりと痩せました。な~んて、ウソです! でも、真剣に心配したんだよ。この穴埋めは、明日、たっぷりしてもらいます。 美千代」
「たっぷり穴埋めねぇ…」
 源一は、込み上げてくる笑いを必死にコラえながら、個室から出た。洗面台の鏡には、だらしなく緩んだ顔が、自分に笑いかけている。蛇口を捻って水を出すと、おもむろに顔を洗いハンカチでぬぐうと、いくぶん緩んだ顔がマシになった。昨日の出来事を隅に追いやり、明日への期待感を膨らませ、午後の仕事をこなしていった。

 秋は、日が落ちるのも早く、庁舎を出た頃は辺りも暗く、北大植物園の葉の落ちた樹木が寒そうに立っている。源一は、温もりを求めている自分自身を持て余しながら、それとオサラバする日を待ちわびていた。
「いよいよ明日は金曜日…、美千代と会うのか」
 部屋に帰ると源一は、備え付けのガスストーブのスイッチを入れた。ほどなくして温風が部屋を満たし、それからコートを脱いで、クローゼットに掛けた。これから、明日の確認をするために、美千代のメールを開いた。
「ゲンさん。今日は美容室に行ってきました。これで明日の準備は出来ましたよ。明日は午後七時に、どこへ迎えに行けばいいか教えてくださいね。 美千代」
「明日は、地下鉄琴似駅の一番出口に来てください。紺のスーツで立ってます。目印に白のチーフを胸ポケットに入れていますので、分かると思います。 ゲン」
 メールを送信してから、源一は気がついた。
「恵梨香さんに会った時と、同じ服装だ…」
紺のスーツ以外は、チャコールグレーと、黒しかない。源一は、クローゼットに収まっているスーツを眺めながら、色気のない自分に落胆した。
「気の利いたスーツはなしか…」
 今まで服装に気を使った事がなく、薫の買ってきたスーツにワイシャツとネクタイで過ごしてきた。普段着はポロシャツにチノパンツと、地味な色合いのモノしかない。
「今さら、コーディネートしても始まらないか…、美千代に愛想つかされるかもね?」
 源一は、いつものようにバーボンの瓶を手に取ると、ソファに落ち着いた。
「今日も禁酒だな…、三日も飲まないなんて、何年ぶりだろう?」
瓶を棚に戻すと、オーディオのスイッチを入れ、CDラックを眺めながら、ドナルド・フェイゲンの「The Nightfly」をインストールした。モノクロのジャケットは、ターンテーブルの前でシャツ姿のフェイゲンがタバコを右手に、マイクの前で語るDJを決めている。
「かっこいいな…、こんなシンプルなのに」
スピーカーからリード・ナンバーの「I.G.Y」が流れ、レゲエ風のノリがソフィティケイトされたジャズにアレンジされている。彼のセンスは、音の細部にまで行き届いている。
 源一は、テーブルの上にある破けたメモ用紙を拾い上げ、携帯電話のメモリーにエリカのアドレスを打ち込んだ。
「恵梨香さん、こんばんは! 佐藤源一です。昨晩は、ご馳走になり、ありがとうございました。とても緊張していたせいか、失礼な振る舞いをしてしまい反省をしています。ところで、ドライブの件ですが、どこへ行きましょうか? それと、誠に申し訳ないのですが、私は車を手放しておりますので、当日はレンタカーを借りて迎えにあがります。次の日曜日あたりは、天気も良さそうなので、どうでしょう?」
 メールを送信すると、源一は台所へ行き、コーヒーの準備をした。先日、行きつけの『カフェ・ベーシック』で、マスターに勧められた豆をコーヒーミルで粗挽きにした。自家焙煎された豆は一粒一粒が光っている。あの気難しいマスターは、生豆を麻袋から出すと、米を洗うように豆を洗い、汚れを落とす。水を切った後は腐った豆を選り分け、じっくり豆をローストし、そこから煎り過ぎて焦げた豆は取り除き、熱を冷ました後、大きなガラス瓶に移される。一度、焙煎中の店に寄った時は、コーヒーの香りが店内を満たし、至福の空間に迷い込んだ気分を味わった。
「あそこのコーヒーの味は出せないが…、豆は一緒だからね」
 源一は、コーヒーメーカーから漏れ出した香りに心を震わせ、マグカップにお湯を通して温めると、冷えないうちにコーヒーを注いだ。そんな時間を過ごしていると、メールの着信音がなり、エリカからの返信があった。
「こんばんは! こちらこそ、気を使わせてしまい。申し訳ない気持ちになっておりました。久しぶりに、会食以外の食事を楽しむ事ができました。それで、ドライブの件ですが、車は私が出しますので、心配しないでください。紅葉を観に、支笏湖でも行きましょう。時間は、午前九時ころはどうでしょうか?」
 源一は、メールを読みながら、舌打ちした。
「彼女のペースは、揺るぎないねぇ…。今村だったら、どうするのかな?」
「車の件は、承知しました。大通りの道銀ビルの駅前通り側で、午前九時に立ってます」
 メールを送信すると、源一は釈然としない気持ちをコーヒーと一緒に飲み込んだ。明日、美千代に会う事が、今は大事である。そう考えながら、二杯目のコーヒーを注ぎに立った。ざわついた気分が、落ち着かない自分を不快にさせた。

 金曜日になり、源一は定時で仕事を終えると、午後六時には部屋に戻っていた。約束の時間までには、約一時間ほどある。緊張感から、汗が滲んでいた。
「今回は、自分がリードする」
 そう呟くと、シャワーを浴びる為、浴室へ入った。湯けむりで曇った鏡を手で拭うと、濃くなった髭をおもむろに剃った。そして、心臓に手をやると、心拍数の早さを実感した。
「とにかく自然体でいこう…、構えるなよ!」
 源一は、微香性のコロンを腕や首筋に摺り込むと、いくぶん落ち着きを取り戻した。
 この香りは、薫の好きな匂いだった。そして、約束の時間が近づき、十分前に部屋を出ると、地下鉄琴似駅の一番出口の前に立った。辺りはすっかり暗いが、街の明かりと行き交う人と車で賑わっている。そんな風景に溶け込んでいた源一の前に、一台の白いベンツが止まった。すると、後部座席の窓が開き、弾ける笑顔が飛び込んできた。
「ゲンさん! 美千代です」
 運転手が、降りてドアを開けると、美千代は右座席へ移動し、源一を手招きした。
「早く乗って」
 源一は、舞い上がりそうになる自分を抑えるため、腹筋に力を入れて車に乗り込んだ。
「美千代さん、佐藤源一です!」上ずった声に、美千代は微笑んだ。
「佐伯美千代です。緊張してますか?」
 この問いかけに、源一は脂汗が出ている感触を背中に感じた。
「なんか、暑くないですか?」
 美千代は、こらえきれずに、大きな声で笑った。
「思ってた通りの人ですね!」
「二人とも、お前には荷が重いよ」と言う今村の声が、源一の脳裏をかすめた。
「なんてこったい…。自分よりも十歳以上若い娘に、気後れしている」
 源一は、気まずさからハンカチを取り出し、滴る汗を拭った。
「これから、予約しているレストランへ行きますね」
 車は、二十四軒手稲通りを中央区へ向かい、環状通を右折して円山方面へと走って行った。そして、旭山記念公園へと続く道を右折すると、登坂をひたすら上がって行った。美千代は、ポーチから口紅を取り出すと手鏡を見ながら口元を直し、源一を見つめた。艶やかな水を含んだような唇に、源一は息を呑んだ。
「もう少しで、『まさき』と言うレストランに着きま~す」
 車は、大きめの一軒家の前に止まると、窓からは札幌の夜景が一望できた。運転手は二人を下ろすと、直ぐにいなくなってしまった。
「ゲンさん! やっと二人になれたね」
 美千代は、源一の左腕に自分の腕を絡ませると、レストランのドアを開いた。
「予約をしていた佐伯です!」
 落ち着いた雰囲気の店内は、清楚で品の良い陶器や小物がさりげなく置かれ、うるさくない程度にクラシックが流れている。一軒家をリフォームしたらしく、珪藻土の白壁と濃いブラウンの腰板が、品よく調和していた。
「どう? 落ち着くでしょう。ここは私のお気に入りなの。落ち込んだ時は、ここのシェフの料理で慰めてもらうのよ」
 窓際の席に案内されると、温かいお茶が出てきた。美千代は、源一を見つめながら、楽しそうに自分の事を語っていた。しかし、源一は上の空で、新婚の頃、薫と二人で食べ歩いた記憶を辿っていた。
「ゲンさん! 私の話し…、聞いてる?」
「聞いてるよ…」
 美千代は、口を尖らせ不機嫌な顔をした。
「窓ばっかり見てないで、私を見てよ!」
「窓ガラスに映ってる、君を見てたんだ…」
 源一は、美千代を見つめる事が照れくさくて、直視できなかった。
「ゲンさんて…、シャイなのね。それが、いいのかな~」
 美千代は、窓ガラスに映っている自分の顔に息を吹きかけ、指で「へのへのもへじ」と描いた。
「君にそっくりだね…」
 すると美千代は、直ぐに紙ナプキンで窓ガラスを拭いて消してしまった。この何気ない仕草や茶目っ気のある笑顔に、源一は懐かしいものを感じた。しかし、この若い女社長の肩に、どれだけの重荷が掛かっているのだろう?と、考えてしまった。いつもの仕事のクセが出ている自分に、うんざりした。
「何か、違うな…」
 源一は、目の前で嬉しそうにしている美千代を見ると、「来てよかった」と、しみじみ思えた。すると、程なくして料理が運ばれてきた。一品目は刺身の盛り合わせ、続いて手の込んだ煮物など、和食の贅沢な一品料理が七品も出てきた。器から盛り付けまで、どれから手を付けようか、迷うような美しさと気品に満ち溢れていた。
「ゲンさん!早く食べよう」
 美千代に、促されるように源一は、箸を進めて行った。昔は、取引先の接待で、このような料理を食べていたが、今は時代が替わり、接待される事が禁止になり、同僚と行く居酒屋がささやかな楽しみになってしまった。
「ゲンさん! 美味しかった?」
「何か…、食べ過ぎて、眠くなってきたよ…」
「ちょっと待って! メインは、これからでしょう!」
 美千代の殺気立った視線に源一はたじろぎ、目配せをして作り笑いを浮かべた。
「ゲンさん! 次はメイン会場で~す」
 美千代は、会計を済ませると、源一の手を引っ張り店の外へ出た。外にはタクシーが止まっており、二人が出てくると直ぐにドアが開いた。美千代は、源一をタクシーに押し込むと、続いて乗り込み行き先を告げた。
「狸小路二丁目の『ロテル・ド・ロテル』まで」
  タクシーは坂を下り、札幌の夜景も見えなくなると、程なくしてススキノのネオンが目に入ってきた。ススキノ交差点を過ぎ、三丁目の一方通行を左折すると、すぐにホテルに着いた。
「ゲンさん! ボーっとしてないで、降りて」
 源一は、美千代に引っ張られるようにタクシーから降りると、ホテルの入口へ進んだ。あまり大きくなく、うっかりすれば、見過ごすような佇まいが印象的であった。フロントで美千代は、チェックインの手続きを済ませると、鍵を受け取りエレベーターで最上階のスィートルームへ源一を案内した。
「ここが、私のお気に入り…」
 案内された部屋は、シンプルで清潔感が漂い、源一は期待感で、既に眠気も吹き飛んでいた。高鳴る鼓動を感じつつ、窓際のカーテンを開けると、またたくネオンが妖しく煌めき、背後に近づいた美千代が、背中に顔を押し付け、腕を腰のあたりに廻してきた。
「ゲンさん! 緊張してる? 私もなの…」
 美千代の胸の柔らかさに、しばらく忘れていた感触が記憶の中に蘇った。
「いい部屋だね…」
 源一は、美千代の腕を解くと、浴室へ向かい浴槽にお湯を張り始めた。
「汗かいたから…、先に入るよ」
「ゲンさん! 一人で入るの?」
 源一は、洗面台の鏡を見つめながら、ひたすら歯を磨いた。
「ねぇ…、聞いてるの?」
「美千代さんも入る?」
 口の周りを白くした源一がドアの隙間から顔をだした。まるで、ひょっとこのように見える。美千代は、緊張感から放たれ、ベッドにダイブをすると、笑い転げた。そんな、様子にお構いなく源一は、髭を剃っている。すると、裸になった美千代が素早く浴槽へ滑り込んできた。
「ゲンさん! まだなの?」
 源一は、大きく深呼吸すると、シャツとブリーフを脱ぎ、右手で下腹部を抑えて、バスタブをまたいだ。湯船から顔を出している美千代は、下から源一を仰ぎ見ている。そして、右手を退かして軽くキスをした。小悪魔のような微笑みの下には、小ぶりだが形の良い乳房が桜色に染まっていた。
「こんな誘惑に勝てる男は、いるだろうか?」
 源一は、浴槽に浸かると、お湯は溢れた。すると美千代は、身をよじって背中を向け、すらりと伸びた右足が、源一の股間を刺激した。
「…チョット待って」
 不意打ちにも似た行為が、源一の理性を壊した。美千代の背中に胸を併せ、腕を回すと掌に収まった乳房の感触が、遠い記憶を呼び覚ました。
「何で、薫を想い出すのだろう?」
 源一は、美千代の耳たぶにキスをした。甘い香りと白いうなじが懐かしく、目を閉じて抱きかかえた。
「ゲンさん! 苦しいよ」
 その言葉で、我に返った源一は、腕を緩めた。美千代は、火照った体をバスタオルで包み、ベッドへと向かった。源一は、ゆっくり立ち上がると、体から吹き出した汗と湯気をバスタオルで拭いた。
「早く来て…」
美千代の甘い声に誘われて、源一はベッドに横たわるヴィーナスに目を奪われた。
「生きてて良かった…」
 素直にそう思えた。こんな瞬間が、自分に訪れる事はないと、半ば確信めいていた事が脆くも崩れ去り、「夢なら、醒めないでくれ!」と、願っている自分がいた。
 源一は、美千代の横に体を寄せ、抱き寄せた。直に伝わる体温と脈打つ鼓動に感覚が麻痺していく。自然に手が乳房を求め、膝が閉じられた太ももを割っていく。覆いかぶさった源一の耳元で吐息が激しくなる。
「きて…」
 源一は、体を起こすとぎこちない手つきでスキンを付け、美千代の薄っすらとした茂みに顔を埋め、舌を這わせた。鷲掴みにされた頭の指先に力が込められ、痙攣した白い生き物を見ながら、露になった下腹部にとどめを刺す行為に移った。美千代の額から滴る汗と、苦しそうな眼差しを見つめながら、フィニッシュに向かって、機関車が黒煙を吐き出しながら山を登坂する光景が浮かんだ。そして、汽笛が鳴り響いた瞬間、白い蒸気が勢いよく吹き出し、緊張が走ると、背中に廻された腕の力が抜けて行った。美千代を抱いたまま横になり維持された連結器はそのままに、安らかな顔を見ると、初めて満足感に浸った。
「なんだ…、このホッとした安堵感は?」
 源一は、壁を乗り越えた自分を誇らしく思えた。そして、天井を見つめながら、この充足感を求めていた自分を慰めた。
「ゲンさん! ありがとう…」
 胸に顔を埋めていた美千代の声がした。連結器が解かれ、ベッドから離れて浴室へと消えて行った。シャワーの水音が、終わりの合図となり、スキンを外して備え付けのティッシュに包むと、呟いた。
「満足したかい?」
 ふと、薫の顔が思い浮かぶと、背中に残された美千代の爪痕が、ひりついた痛みと共に、長く残った。間もなくしてバスローブを纏った美千代が現れ、ベッドの端に座った。
「今度、いつ会えるかしら?」
 余韻に浸っていた源一は、言葉に詰まった。
「来週は、出張があるので…」
 とっさに出た源一の言葉に、美千代は疑いの眼差しを向けた。
「そうなの? 私は、週二回くらいのペースで逢いたいのに…」
 少しうつむき加減で、上目遣いで見る美千代の様子は哀願に充ちていた。
「ゴメン…、時間作るよ」
 美千代は、しょぼくれた源一の一物を握ると、耳元で囁いた。
「浮気はしないでね…。私の赤鬼さん」
 美千代は、バッグから手帳を取り出すと、素早くメールアドレスと携帯番号を書いて、源一に手渡した。
「サイトは卒業ね! ゲンさんも卒業してね。泥棒ネコに、気を・つ・け・な・い・と・ね!」
 美千代は、スッキリした表情で服を着ると、タクシーチケットを源一に手渡した。
「明日は、朝から会議なの! メール待ってます」
 部屋に取り残された源一はトイレに立ち、尿道に残った精液を溜まった尿と一緒に水に流した。
「日曜日は、恵梨香さんとドライブか~、運転しないから楽だね」

 帰宅した源一は、久しぶりのバーボンを手にして、ボトルに頬ずりをしながら、タンブラーに氷を入れ、ナッツのつまみを用意した。オーディオにスイッチを入れると、CDラックからエディ・ヒギンズ・トリオの「HUNTED HERAT」を引き出しセットした。優しいピアノの旋律が、心地よく源一の心を包み込んだ。朝方までバーボンを楽しんだ源一は、いつしかソファで寝ていた。
 そして、肌寒さから目を覚ますと、既に時刻は夕方になり、カーテンを開けると、窓の外は薄暗く、夕焼けの赤い雲が太陽を飲み込んでいた。源一は、ぼんやりとした意識の中で見た夢を思い返した。夢の中では「お湯の入った浴槽の中で、眠っている自分を上から見ている」というものだった。意味の分からない夢に戸惑いを感じつつ、顔を洗いに洗面台の鏡を見た。背中の痛みに異変を感じて、着ていたワイシャツを脱ぐと、染みついた血痕が昨日の夜を記憶していた。
「まだ、頭がクラクラする。飲み過ぎたね…」
 源一は、頭痛薬を飲むと、そのままコーヒーを淹れた。
「このまま美千代との関係が続くのだろうか? しかも恵梨香もいるし…」
 血の付いたワイシャツをゴミ袋に入れると、源一は明日のドライブの事に意識を切り替えた。エリカの様子を見た限りは、美千代のような展開は考えられなかった。何度かデートを重ねた結果、流れの中で…。
「たぶん、無理だね…。オレは呆れるような言動を何度もしてるし…、このドライブが、最後か?」
 源一は、無邪気な美千代が自分に合っているような気がした。しかし、こんな不器用な男が二人の女性を相手にしていること事態が、奇跡に思えた。今更ながら、今村の粋な計らいに感謝した。
「月曜日は、今村に成果を話すか?」
 まんざらでもない気分に、源一は満足した。いくぶん治まった頭痛に、気を好くしてクローゼットの中を物色すると、明日の装いを決めようとした意気込みが、敢え無く撃沈した。代り映えのしないポロシャツに色の褪せたジーンズとパンツ類に愕然とした。
「買い物に行くか…。恵梨香さんは、決めてくるからな~? たぶん」
 源一は、近くのデパートの紳士売り場で、服を見ながら決めあぐねていた。それを見かねた店員が、近づいてきた。
「何か、お探しですか?」
「明日のドライブに着ていく服を見てるんだが…」
 困った様子の源一をしり目に、店員は源一の雰囲気を見ると、手早く服を選びだし、テーブルの上に広げた。淡いピンク系から、派手な柄物と無難な紺系統のポロシャツが示され、鏡に映った自分を見ながら選んだのは、無難な紺系統であった。決断をしない源一を促した店員の一言は。しごくまともであった。
「自分のイメージに合ったモノを選んでください」
 源一は、紺のポロシャツに合わせてベージュのチノパンツも買って、部屋に戻った。結局、クローゼットに有ったポロシャツとパンツと同系統となってしまい、殻を破れない自分に愛想をつかした。そして、ヴィンテージ物の黒皮で背中に大きなロゴがある、VANジャケットを引っ張り出した。ここ数年着ていなかったが、袖を通す事にした。
「これが自分だから…、背伸びしても始まらない」
 源一は、一緒に買ってきたハンバーガーを食べながら、空のバーボンを指で弾いた。

 日曜日の朝になり、六時に起きるとシャワーを浴び、伸びた無精髭を剃った。青みがかった顎を手で撫でながらスキンクリームを塗り、コロンをつけた。出かけるまでの間、テレビを点けて天気予報を見たり日経新聞を読んだり、時間つぶしに勤しんだ。源一は、金曜日の疲れを引きずっていた。萎んだ風船が力なく空間を彷徨っている。そんな感覚が離れない。
 源一は、約束の場所に二十分も早く着き、抜けるような青空の下、まばらな人影と、ゆっくりと走り去る車を飽きもせず眺めていた。すっかり色づいた街路樹から、舞い落ちる葉。ときおり吹く風が、装いを変えた街並みに馴染んでいく。
「源一さん! お待たせ」
 恵梨香さんの声が聞こえた。目の前には白いアルファロメオが止まっており、淡いピンクのポロシャツに身を包み、大きめのサングラスが源一を見ている。
「横に乗って」
 源一は、車に乗ると、シートベルトを締めた。
「ステキな車ですね」
「これは、『ジュリエッタ』という車種なの…」
「名前もいいですね。恵梨香さんにピッタリですよ!」
 車は、国道230号線を走り、南区の川沿から左折して国道453号線に入ると、紅葉した森の中を進んで行った。
「いい天気ですね…」
「きっと、支笏湖もきれいよ!」
 サングラスを額に上げたエリカが、源一の横顔を見た。途中コンビニで、淹れ立てのコーヒーを買い、少し開けた窓から、やや冷たい風が吹き込んでいた。
「音楽でも流しましょうね! 源一さん、選んでくださらない?」
 源一は、後部座席にあるCDの入ったプラスチック製のカゴを膝に置くと、CDを物色した。
「これがいいかな?」
 源一は、クレモンティーヌの「COULEUR CAFE」をセットした。ボサノバのリズムが鼻にかかったフレンチ・テイストにマッチしている。
「源一さん、彼女も聴くの?」
「そうですね…、ジャズやボサノバはよく聴きますよ」
「何か…、意外!」
 源一は、エリカの驚いた表情に、内心「一本!」と叫んだ。
「何か、趣味が合いそうね…。音楽の趣味って、合う人がいないのよ」
 源一は、思わず妻の事を口走りそうになったが、慌てて呑み込んだ。
「また、失言をするところだった」
「後、シャーデーとか、エリカ・バドゥも好いですよ…」
「初めて聞く名前ね…」
「ネオ・ソウル系ですね…、夜バーボンをやりながら聴くと、最高ですよ」
 源一は、好きな音楽の話になると饒舌になった。
「今度、ゆっくり聴かせて…。今から楽しみだわ! ところで、バーボンは何がお好き?」
「いつも飲んでるのが、『FOUR ROSES』の黒ラベルです…」
「さっそく、手配しようかしら」
 車は、カーブの多い下り坂を軽快に走り、支笏湖のほとりに着いた。透明感のある湖は深い藍色をたたえ、静かな波が打ち寄せては去っていく。湖畔を散策する二人連れやウッドデッキのベンチでもの思いに耽っている人など、朱色に染まった湖畔は、癒しの場になっていた。貸しボート屋の、シーズン終了の張り紙が風に吹かれて千切れ、桟橋に係留されたスワンボートも寂しく佇んでいた。
 源一とエリカは、車から降りて水辺をゆっくりと歩いた。時たま二人の手がぶつかると、エリカの方から手を握ってきた。
「何か、寒いわね…」
 気の利いた言葉の見つからない源一は、エリカの腰に手を回すと、引き寄せた。
「温泉でも行きましょうか? 近くに丸駒温泉や伊東温泉なんかもありますよ」
 エリカは、やや困った表情を浮かべると、口を開いた。
「そこじゃなくて…、『第一寶亭留 翠山亭』を予約してるの」
 源一は、エリカを見ながら、苦笑いした。
「ずいぶん、高級なホテルですよ」
「それが? 私も、たまに贅沢をしたいの!」
 エリカは小走りで車に戻ると、エンジンを掛けた。してやったりの顔が、こちらを見ている。源一は、寒気を感じながら、車に乗り込んだ。
「まさかな…、まさかだよな~、日帰りだよな?」
 予測してない展開の兆しに、源一は不安に駆られた。
「準備してないし…、おまけに、体力も回復してない」
 軽やかなハンドルさばきで、車はホテルに着き、エリカはフロントに小走りで駆け寄った。鍵を受け取ると、源一を手招きした。
「個室露天風呂を予約したの。二人でゆっくりしましょうね!」
 満面の笑みを源一に向けると、血の気の失せた気の毒な男が立っていた。
「日帰りですよね?」
「難い事言わないの! 行くわよ」
 源一は、腕を絡ませたエリカの力に引きずられ、部屋に入った。和風の室内の先に見える露天風呂が、秋の風情を際立たせた。中に入り、ガラス越しに露天風呂を見ていると、ガラスには、浴衣に着替えているエリカの姿が見えた。なにも着ない素肌に浴衣を纏い帯を締めて、源一の横に立った。
「あら…、もみじが湯に浮いてる。底にももみじが…、風流ね」
 源一は、衣服を脱いで下着の上から浴衣を着こんだ。程なくして仲居が部屋に現れ、夕食の案内をした。
「部屋に準備してもらえますか?」
 仲居は、承知すると室内電話で厨房と連絡を取り、部屋から出て行った。
「水入らずって、いいわね…」
「そうですね…。夫婦水入ら……」
「まただ」
 エリカは、苦笑いしながら言った。
「早く私も、そうなりたいの」
 真剣な眼差しが、源一に注がれている。その目線を外し、部屋から露天風呂へ出た。股間に手をやると無反応な息子に、同情を禁じえなかった。
「無理だな…。どうやって、切り抜けようか?」
「源一さん、食事が来たわよ。早く座って」
 エリカの期待に満ちた声が、無慈悲なお経のようにも思えた。豪華な和食のお膳が運ばれ、花の咲いたような美しさに、見とれるしかなかった。
「これは、デジャヴ?」
 二日前の再現が目の前で起きている。嗤いたい気分が源一を支配した。
「見てるだけで、腹いっぱいになりそうですね…」
「ちゃんと食べてね。秋の旬も盛りだくさんよ」
 エリカは、小声で「いただきます」と言って、箸を取り美味しそうに食べ始めた。
「源一さん! 遠慮しないで…」
 箸を取り、刺身に薬味を点けて、口に運ぶ。源一は、胃に負担の少ない物から手を付けていった。エリカは、瓶ビールの栓を抜くと、グラスに注いで源一へ渡した。
「あまり飲み過ぎないでね…」
 冷えたビールを飲むのは、久しぶりだった。飲み会の乾杯で、一口飲んで止めるのが源一の流儀でもあった。
「沁みるね! 胃がびっくりしてる…」
 この宴が一時間ほどで終わると、お膳が下げられ、布団が敷かれた。エリカは、明かりの調光を下げて、源一の肩に頭を預けた。エリカの温もりが浴衣の上から、ほんのりと伝わる。
「お風呂…、いただきましょうか」
 浴衣を脱ぎ、一糸纏わぬ姿で部屋を出たエリカは、湯の中から手招きをした。源一は、しぶしぶ裸になると、元気のない息子を握りしめ湯に入った。
「月が見える。下弦の三日月ね…」
 華奢に見えた背中とは裏腹に、張りのある大きめの胸が、源一に近づいてきた。エリカは手を取ると、胸に誘った。エリカは源一の目を覗いている。
「遠慮しないで…、今日は私を楽しんで」
 耳元の吐息が、くすぐったく抱き寄せた体が熱い。エリカの腕が源一の背中に廻った。
「あらっ…? 何の痕かしら…」
 背中を覗くエリカの顔が、みるみる歪んだ。
「あの~、飼ってるネコが、背中の上で爪を立ててしまって…」
 苦しいウソを虚しく月が聞いている。
「あっ…、まだサイトにいるの?」
「もう、辞めてますよ!」
 エリカは、不意に源一の股間を握った。無防備な息子は、うなだれたまま為すすべもなく、手に収まった。
「どうしたの? 私って、魅力ないのかな~」
「もしかして、EDとか?」
 源一は、頭を掻きながらエリカの手を取った。
「実は、金曜日の夜から飲み過ぎて、この有様です」
 エリカから、落胆の声が響いた。
「だらしないわね~。体調管理がなってないわ!」
「もう、ダイナシ!」
 エリカは、源一に抱きつくと、背中の爪痕に自分の爪を立てた。苦痛に耐える源一の顔を見ると、湯から上がり無造作に浴衣を着て、布団に潜ってしまった。源一は、タオルで背中の血を拭い、月を見上げて火照った体を冷やした。
「自業自得…、分かってますよ」
 湯から上がった源一は、帰り支度をして部屋を出た、フロントには急用の為、連れを残して帰る事を告げた。手配されたタクシーが着くと、足早に乗り込んで千歳駅へと向かった。

 月曜日の朝を迎え、いつものように携帯画面を見た。あんなにうるさく入っていたメールの着信は無く、当然エリカのメールも美千代のメールもなかった。
「美千代、心配してるかな?」
 源一は、ポーチから紙を取り出すと、携帯電話の登録画面を呼び出し、美千代のメールアドレスを登録した。
「美千代さん、おはようございます! ゲンです。昨日は二日酔いでダウンしてました。後で、会える日を連絡します」
 また、ウソのメールを送信した。源一は度重なるウソが、苦痛になっていた。
「もう、ウソが破綻して…、二人とも失うのかな?」
「十分楽しんだし…、潮時かも?」
 ラッシュの地下鉄に揺られ、重い足取りで庁舎のフロアに着くと、いつものようにコーヒーを飲みながら、仕事の段取りをした。すると、今村が近づいてきて、机の端に尻を載せた。
「お疲れモードだね?成果…、出たかな~」
「後で話すよ…」
「了解で~す」
 今村は、あっさりと出て行った。どこから話せばいいのか、頭の中が混乱している。成果としては、手応えが在り過ぎるくらいだった。しかし、今後の展望が見えないのが、課題である。そう、勝手に結論を出して、昼休みは食堂できつねうどんを注文した。猫背になって、うどんをすすっていると、背中を叩く今村の手に、身をよじって痛さを痛感した。
「背中…、どうしたの?」
「爪痕…」
 しかめっ面の源一は、小声で呟いた。
「スゴイ、成果を期待しちゃうね!」
 心から楽しんでいる今村の顔が、近づいてきた。
「どっちの爪痕?」
「両方!」
「えっ、両方? スゴイ、スゴイ、見直したよ…」
 真顔になった今村が、ウインクをした。
「今夜、付き合えよ」
「分かった」
 源一は、トイレの個室で便座に座り、メールを開いた。
 「ゲンさん、こんにちは! 今、仕事中かな? 来週の火曜日だけど、実は私の誕生日なの、一緒に過ごしてくれるよね? 二人で過ごす誕生日、お願いがあるの! 私を生クリームでデコレーションしてくれる? オ・ネ・ガ・イ!」
 源一は、流れる冷や汗に、目を閉じた。
「マジ? パテシエになれって…」
 個室から出ると、鏡を見た。すると、目には隈ができ元気がない。
「ちょっと、休みたいな…」
 精気を吸われたゾンビみたいな顔が、力なく笑った。
夕方になり、再びトイレの個室でメールを開くと、今村から待ち合わせ場所が来ていた。狸小路のバー『とんぼ』で会う事になった。しかし、その前に源一は、モンジェリーという自宅マンション近くのケーキ屋に電話を入れ、バースデイ・ケーキを注文した。

 庁舎を出て五丁目の一方通行を狸小路へ向かって歩いた。やや冷たい風が、襟元を過ぎて行く。ライトアップされた赤レンガ庁舎が、光に浮かんでいる。大通りのビル群を過ぎて狸小路に入ると、めっきり増えた中国人と韓国人が大声で話しながら、拡がって歩いている。日本人は、関わらないように気を付けながら、通りの隅を歩いていた。
「何だかな~」
 源一は、巧みに避けながら、人の波を進んだ。三丁目にあるバーに着くと、タバコをふかして座っている今村が、マスターと談笑していた。
「待たせたな~」
「オレも、ついさっき着いたばかり」
「何にする? オレはハイボール!」
「同じものを…」
 マスターは、手際よくハイボールを作ると、二人の前にグラスを差し出した。そして、棚からスティーリー・ダンのCD「AJA」を抜き取ると、素早くプレイヤーにセットした。天井のBOSEのスピーカーから「Black Cow」が流れ、ドナルド・フェイゲンのややしゃがれた声が店内に響いた。
「聞こうか…」
「何から、話すかな~」
 源一は、この一週間の出来事を時系列で話した。
「思った以上の成果だね…。出来過ぎだね~」
「でも恵梨香さんは、愛想をつかしてるから、美千代と続いていくと思うよ」
「甘いね…、あの爪痕の意味を考えた?」
「嫉妬かな~?」
「あれは、マーキングだね!」
「マーキング?」
 怪訝な顔をした源一が、今村の目を凝視した。
「他の女に、渡さないという意味かもね?」
「そうなの…?」
「恵梨香って女は、勝気そうだね」
 今村は、二本目のタバコに火を点けると、ゆっくりと煙を吐き出し、そして、口をすぼめた頬を人差し指で軽く小突くと、小さい輪が飛び出て、大きな輪となり形を崩していった。
「佐藤! 一皮剥けたな? お前に都合のいい方を選べよ。二人同時進行は、オレでも無理だよ。『二頭を追う者は…』わかるだろ?」
 今村は、ハイボールを飲み干すと、席を立った。カードで支払いを済ませると「Good Luck」と言って、ドアの外に消えた。一人残された源一は、バーボンに切り替えマスターとの音楽談議に酔いしれた。

 深夜、タクシーで部屋に帰ると、吐き気と頭痛が源一を襲った。上着を脱いで、トイレの便器に膝まづき、何度も嘔吐を繰り返す。そして、寒気と悪寒が走った体を温めるため、服を着たまま浴槽に転がり込むと蛇口を捻った。お湯が注がれる中、いつしか源一は寝落ちしてしまった。湯が胸元まで来た時、苦しさで目が覚めた。
「もう、ずぶ濡れ…、重いね~」
 源一は、浴槽から出ると濡れた衣服を脱ぎすて、お湯を止めた。
「このまま浴槽で、ド座衛門か…」
タオルで体を拭きながら、ソファに座ると、自然に薫の遺影に視線がいった。
「薫、怒ってるの? オレ、どうしたらいい?」

 函館に転勤になった事を告げた時、悲しい顔で噂を聞いた事を告げられた。オレの釈明に無反応の薫は、今でも忘れられない。
「彼女とは、何もなかった。オレを信じてくれ!」
薫の背中を抱きしめると、直ぐに振りほどいて振り向いた時の目を忘れない。怒りに充ちた眼を見たのは、初めてだった。
「子供を産めない、私が悪いのよね!」
「そんなこと…」
 沈黙の時間は長く、重い時を刻む時計の音が、狭いアパートの居間に響いた。
「オレを捨てるのか?」
 そんな問いかけにも応えず、無言で寝室に消えた薫の背中も忘れない。嗚咽の止まらない、長い夜。居間のソファで一夜を過ごし、底冷えの朝を迎え、出勤した二月の十日。それから一週間も口を利かない日々が続いた。源一は、試しに離婚届を食卓テーブルに置いたが、次の日に丸められた紙が、ゴミ箱の中にあった。
「別れる気はないらしい…?」
 いくぶん救われた気分になったが、引っ越しの手配を進めていると、虚しい気持ちに襲われた。しかも、源一は、まだウソをついていた。確かに彼女とは、何もなかったが、ホテルの前まで行って拒否された事までは話せなかった。自分のプライドを護りたいという気持ちが先に立ち、薫を思いやる気持ちが足りてなかった。あの時の薫の気持ちを考えると、体を切り刻まれるような、痛みが走る。
「素直に、謝る事が出来なかったね…」
「今さら、謝っても…、遅いか?」
 遺影の中で微笑む薫を見つめながら、まんじりともしない夜が更けていく。最後まで、「許してあげる!」という、言葉をもらえなかった。この事実が、源一に重く圧し掛かっていた。

 水曜日の夜になり、部屋でコーヒーを飲みながら、エリカのメールを読んでいた。あれから体調が優れないため、バーボンは控えている。
「源一さん。こんにちは! 体調は、いかがですか? 取り乱した姿を見せてしまい、ごめんなさい。誰にでも、体調が悪い時って、ありますよね。そんな時に限って、ヘマな事をしてしまう、間の悪さ…。私も反省しました。自分の思いを一方的に押し付けてしまった事を…。源一さん、もしよかったら、もう一度、私にチャンスをください! あなたのお好きなバーボンを用意しました。お薦めのCDも楽しみにしています。私の部屋の住所は、名刺の裏に書いてます。ご都合の好い日をお知らせください。連絡待ってます」
源一は、「マーキング」という言葉を思い出した。
 そして、財布に入れたエリカの名刺を取り出し、裏を見た。端正な手書きで厚別区上野幌…。
「ベニータウンか…、丸紅で開発分譲された、閑静な住宅街ね…」
「ここに、行くの?」
 源一は、地図を見ながら交通手段を考えた。
「地下鉄で大谷地まで行って、タクシーか? へえ~、行くつもりなんだ…」
「せっかくのお誘いだぞ! 断るのは…。 本当に、いいのか?」
 源一は、自問自答しながら、メールを送信した。
「恵梨香さん、こんばんは! 僕こそ、恥をかかせてしまって、申し訳ありませんでした。もう、愛想をつかされたと、半ば諦めていました。体調はまだですが、回復傾向です。金曜日の夜には、大丈夫です。それでは、お薦めのCDをみつくろって、伺います」
 源一は、来週の美千代との約束を考えて、間を取った。背中の爪痕の傷も癒え始め、痛みも消えていた。
「そろそろ、過去を乗り越えないとね…」
 都合の良い、言い訳をしてる自分に、いくぶん興ざめしながら、薫の遺影を裏に向けた。
「もう、いない! いないんだよ…」
 そして、美千代のメールも読んだ。
「ゲンさん、こんにちは! 今週会えなくて、寂しい日々を送ってます。まだ、体の奥にあなたが残ってます。この、残り火が消えなうちに、会いたい! 早く会いたい! 火曜日を忘れないで…」
 源一は、思った。「体がもたない…。どうする?」
 そして、今村の言葉が、再び蘇った。
「二頭を追う者は…、分かるだろ?」
「わかんない…。っていうか、まだ、わかりたくない!」
 心の葛藤を弄んでいる。その顛末を、先延ばしにする事を望んでいる自分がいた。

 金曜日の夕方、定時で帰宅して、昨晩用意したCDを紙袋に入れ、出かける用意をした。先日と変わり映えしない服装をコートに包み、近所にあるケーキ屋『モンジェリー』で店長お勧めのケーキを買い、地下鉄に乗った。メールには、午後八時ころ大谷地駅に着き、タクシーで行くと伝えてあった。この時間帯は、いくぶんサラリーマンの乗車も少なく、シートに座る事ができた。
 大谷地駅に着き、少し軽やかな足取りで、階段を駆け上がり、客待ちのタクシーに乗ろうとすると、クラクションが鳴った。そして、音の方へ目をやると、点滅したウインカーの車から、エリカが身を乗り出し、手を振っていた。
「源一さん! こっちよ」
「わざわざ、迎えに来たんだ…」
「恵梨香さん、すみません! お手数をかけて…」
 源一は、助手席に乗ると、数分でエリカの自宅に着いた。エリカは源一を下ろすと、直ぐに車を車庫に入れ、玄関から出てきた。
「こちらから、どうぞ」
 広々とした玄関に入ると、ほんのりお香の匂いが、源一を誘った。リヴィングに通されると、大理石の床に、北欧ブランドの家具が配置され、スッキリした佇まいに、目を奪われた。
「明日は、休み?」
「え…、休みです」
 エリカは、源一の買ってきたケーキを皿に載せてテーブルに置くと、続いてブランデーグラスにタンブラー、炭酸水の入った瓶を載せたカートを押してきた。そして、後ろ手に持っていた『Fore Roses』のシングルバレルをテーブルに置いた。
「ゆっくりしてね…」
「これ飲んだら、腰立たなくなる…」と、源一は思いながら、エリカの顔を見た。
「今日は、いい顔ね?」
「これを前にしたら、みんないい顔になりますよ!」
 エリカは、困った顔つきをしながら、源一の持ってきたCDを袋から出した。壁際には、イタリアのスピーカー『ソナス・ファーベル』のアマティ・オマージュが置いてある。
「このスピーカーで聴かせたいア―ティストとなると…」
「シャーデーが、いいと思います」
 エリカが、そのCDをセットすると、ほどなくして「Smooth Operator」が流れてきた。ちょっと切ない、サックスの響きにエリカは、目を細めて遠くを見つめるような仕草をした。しかし、直ぐにブランデーグラスにバーボンを注ぐと、源一に渡し、グラスを回して香りを楽しみ、「乾杯!」と言った。
「源一さんて、不思議ね…。野暮ったいと思ったら、曲のセンスはいいし…」
 源一は、返す言葉もなく、バーボンを飲みながら、曲を聴いていた。
「源一さん、曲が終わったら、寝室に来て!」
「…ハイ」
「今日は、大丈夫でしょう? これ以上飲むと、前と同じになるので…」
「おっしゃる通りです…」
 源一は、股間を見つめながら、呟いた。
「息子よ、出番だ!」
 エリカは、浴室でシャワーを浴び始めた。源一はケーキを頬張ると、クリームの程よい甘さを堪能し、グラスにバーボンを注いで、二杯目を楽しんだ。
「めったに飲めない、シングルバレルに失礼でしょう?」
 しかし、さすがに三杯目は遠慮した。
「これ以上飲むと、息子も酔っ払ってしまうね?」
 すると、バスローブを纏っとエリカは、源一にもバスローブとタオルを渡し、寝室の鏡台の前で、肌の手入れを始めた。源一は、既にシャワーを浴びていたので、軽く浴びると、歯を入念に磨いた。そして、エリカの待つ寝室へと向かった。既にエリカは部屋の照明を落とし、ベッドの上に熟した肢体を晒し、うつ伏せでもの思いに耽っていた。
 源一は、バスローブを脱ぎ捨てると、エリカの背中に跨り、肩を揉み始めた。
「そこ…、そこなの~」
 次は、肩甲骨の内側を親指で強く刺激をすると…。
「ダメよ…、そこは、そこは…、ダメなの!」
 そして、腰えくぼにキスをすると、声にならない声が漏れ、桃から滴るものをすくうと、源一は息子に塗り、侵入を試みた。枕に埋めた顔から吐息がこぼれ、源一は構わず、腰の角度を微調整しながら、ゆっくりと前へ進んで行った。エリカは苦しさに耐えかね、腰を上げ腕を伸ばして、四つん這いになった。
 源一は、収穫した桃を優しく両手で掴み、なおも静かに前へ前へと進んでいった。すると突然、腕が崩れ落ち、続いて落ちそうな桃を静かに置くと、素早くスキンを着け、仰向けになったエリカの腰を抱えて、再び侵入した。そして、真下に見える二つの頂が揺れ、ベッドのきしむ音が、子守歌のように聞こえた。
 源一も、吹き出す汗を拭おうともせず、オールを漕ぐセイリングのごとく、最後のゴールを目指し、飛びそうになる意識を必死にコラえながら、瞬間を迎えた。ゴールの後は、エリカの上に崩れ、二つの頂が源一の顔を支えた。
「源一さん、重~い」
 この言葉で、源一の意識は呼び戻され、起き上がるとベッドの端に座りなおした。大きく肩で息をしながら、力を出し切った息子をいたわるように、そっとスキンを取ると、枕元のティッシュ箱から紙を取った。
「どこまでも紳士ね…。もっと乱暴かと思った?」
 源一は、無言で立ち上がると浴室へ消え、シャワーで息子のケアをしてからリヴィングへ移動した。再びオーディオのスイッチを入れると、CDをエリカ・バドゥに交換し、バーボンをグラスに注いだ。
「もう、終わり…?」
「恵梨香さん、まだ病み上がりなんで…、勘弁してくれますか?」
「何か…、もの足りないのよね~」
「二回戦の元気は、無いですよ」
「そう~」
 源一は、リモコンを操作して、ソファにへたり込んだ。エリカ・バドゥーの「Other Side of The Game」が流れ、ゆったりとしたストリングスから力の抜けたボーカルが部屋に響き、口に含んだバーボンの甘みが、口いっぱいに拡がった。
 そして源一は、責任を果たしたと言わんばかりに、エリカをベッドに置き去りにしたまま身支度をして、家を出た。
「この虚しさは、どこから来るのか…」
 帰りの地下鉄の中、ぼんやりともの思いに耽り、答えの出ない自問自答が、疲れた脳をいっそう疲れさせた。部屋にたどり着くと、ベッドに潜り込み、汗の匂いが眠りを誘った。
 土曜の昼に目覚めると、いくぶんへこんだお腹から、切ない声がした。
「何か…、食べるか? 結局、ケーキを食べて終わりだったしね…」
 源一は、冷蔵庫から食パンをふた切れ出し、無造作に細切れのチーズを掛けてトースターへ入れた。その間にコーヒーを淹れ、簡単な昼食とした。その後、携帯のメールを開くと、美千代からのメッセージが、多く入っていた。どれも、「早く会いたい!」という内容ばかりで、火曜日の誕生日が、待ち遠しくて仕方がない。そんな様子が手に取りように伝わってきた。
 源一は、夕方買い物へ行き、クリームの入ったチューブを買ってきた。食パンの上に絞り出す練習をしながら、火曜日に備えた。その様子をメールに書いて送ると、美千代から驚きの返信があった。
「ゲンさん、ありがとう! 感激してます。火曜日、楽しみです。例のホテルで会いましょう」
「こっちの方が、何か楽しいよ」
 源一は、心躍る自分に、後ろめたさを感じながら、後ろ向きの遺影に目をやった。
「まだ、怒ってるのかな? もう、七年だよ…」

 ついに火曜日の夜を迎え、源一と美千代は、ホテルで会った。美千代の持ってきた紙袋の中には、ほどよくカッテイングされたリンゴやミカン、イチゴやブルーベリーなどのフルーツ類が幾つもあり、更に生クリームの入ったチューブが三つもあった。それを、ベッドに美千代は拡げていた。
源一は、持ってきたバースデイ・ケーキをテーブルで開けると、カラフルなローソクを立て、火を点けた。ケーキには『Happy Birthday Michiyo !!』と、書かれていた。
「ゲンさん、ありがとう!」
 そして源一は、持ってきたCDラジカセを操作して、バースデイ・ソングを流した。美千代は、源一を抱きしめ、ケーキのローソクを吹き消すと、二人でクラッカーを鳴らし、シャンパンの音が弾けると、大声で「乾杯!」と、叫んだ。
 源一は、CDをブライアン・フェリーの「Boys and Girls」に替えた。すると、ダンサンブルなホワイト・ソウルが流れ、体が自然に揺れ出し、気分が盛り上がってきた。
「ゲンさん、始めて!」
 美千代は、衣服を脱ぐと、ベッドに横たわった。
「どうしても、デコレーションするの?」
「今日は、わたしの誕生日よ!」
 源一は、おぼつかない手つきでフルーツを掴んでは、首の下あたりから貼りつけていった。
「ヒンヤリしてる…」
 そして、小高い胸には、生クリームをらせん状に付け、ラズベリーやブルーベリーなどを豪華に盛り付けた。生クリームを体中に施し、最後は、『へのへのもへじ』を描いてカラフルなローソクを年の数だけ立てて完成した。
「ゲンさん! ローソクに火を点けて」
「それから、食べる前に写真を撮ってね。私の頭の所にデジカメがあるでしょう?」
 源一は、カメラマンになった気分で、あらゆる角度から美千代を撮った。遠くから全体を映し、近づいたり離れたり、炎に揺れる幻想的な空間が、二人の感覚を麻痺させていった。
「ゲンさん! 私を食べて…」
 服を脱いだ源一は、美千代の持ってきたバーボンを口に含むと、勢いよく霧状に吹いた。一瞬、炎が煌めき、ローソクは消え、白い煙が糸のように昇った。
「食べるよ!」
 美千代の彩られた胸に口を付けると、甘酸っぱい香りとクリームの甘さが鼻と口から入り、突起物を舌で転がした。すると、のけぞった瞬間、美千代の手が源一の頭を掴み、腹部へ押し付けた。むせ返るほど、大量の生クリームが口に入り、理性が吹き飛んだ。後は本能の赴くまま、二匹の獣は戯れ絡みあい、何度も重なっては果てた。二人の宴はいつしか終わり、幻想と現実の狭間で、朦朧とした意識だけが漂流していた。
 源一は、ベッドの下から起き上がると、シャワーを浴びた。クリームを流し、ボディソープで洗い流すと、いくぶん意識が戻ってきた。今度は、ぐったりした美千代を抱きかかえて浴室へ行くと、シャワーで丁寧に洗い流した。
「ゲンさん、ありがとう…。腰が立たない」
 美千代は、タオルにくるまると、放心状態で源一を見つめた。
「ゲンさん、凄すぎ…」
「満足した?」
 頷いた美千代は、震えながら服を着ると、散らかった部屋を片付け始めた。
「これで、出てったら、出入り禁止ね…」
 源一も服を着ると、重い体を持ち上げ、部屋を一緒に片付けた。二人は、夢遊病者のようにホテルを出ると、ススキノまで歩き、別々にタクシーを拾った。源一の右手には、バーボンが握られており、行き先を告げると、そのまま横になった。
 地下鉄琴似駅に着くと、源一は体を揺さぶられて目が覚めた。
「お客さん、着きましたよ。起きて下さい!」
 呆れた運転手の顔が、目に入ってきた。
「もう、着いたの?」
「着きましたよ!」
 耳元で叫ぶ声が、頭に鳴り響いた。
 源一は、一万円札を渡すと、「お釣りは、いいから」と言って、タクシーから降りた。そして、崩れ落ちそうな体を引きずりながら、部屋にたどり着くとコートを脱ぎ、ソファに倒れ込んだ。そのままイビキをかいて寝ていると、いつしか夢を見ていた。そこには、美千代との宴を見ている薫の姿があった。
「薫…、許してくれ! 愛してるのは、お前だけなんだ!」
「信じてくれよ!」
 源一は、泣き叫びながら飛び起きた。大量の汗がワイシャツを濡らしている。暗く淀んだ空気の気配が重苦しく、源一は、握っていたバーボンをいきなり飲み干した。
 すると、急に息が苦しくなり大きくむせ返ると、胃が激しく痙攣した。源一は、這ってトイレに着くと、便器に嘔吐をぶちまけた。未消化の生クリームとフルーツが吐き出され、何度も嘔吐を繰り返し、最後は胃液だけが虚しく飛び散った。
 源一は、混濁した意識の中、衣服を脱ぎ捨て裸になると、浴槽の中に滑り込んだ。そして、反射的に蛇口に手をかけた。お湯は、静かに浴槽を満たし、ほどなくしてバスタブから溢れ出てきた。お湯を満たしたバスタブの中、墜ちていく意識の中で源一は呟いた。
「オレは、愛の奴隷なんだ…」

アイム・ノット・イン・ラブ

 十一月にもなると、札幌市内の街路樹もすっかり葉を落とし、冬の足音が足早に近づいていた。そして建築現場も、年末を前にして作業工程の調整や人員確保や資材管理などの追い込みに入っていた。現場監督の稲葉浩二は、足場のシートの結び目を一段一段確認しながら、最上段から下に向かって黙々と確認作業をしていた。近年、建築業界も様変わりして安全に対する意識の向上と、確認作業は徹底していた。ほんの少しのミスが命取りになる。現場管理の重要性を上から徹底的に指導をされていた。北海道のゼネコンも、倒産や合併が相次ぎ、下請業者の倒産は日常茶飯事になっていた。こうして、建築現場で働けるのも、後何年だろうか?六十代を目先に迫った稲葉に、冷たい風と現実が容赦なく襲っていた。ここ何年も給料は上がらず、現場管理費が削られる中、サービス残業は増え続け、人材育成もままならず、慢性的な人材不足にも悩まされていた。
 最後に作業員の休憩所を見回り、タバコの後始末を確認すると、テーブルに放置されていた空き缶をゴミ入れに捨て、手垢のついたエロ雑誌を小脇に挟んで事務所に戻った。
「稲葉さん、お疲れ様です!」
 本社から出向している、年の若い上司の秋元課長が、労いの言葉をかけてきた。
「何か、本社から指示はありましたか?」
「特にないですので、適当なところで切り上げて下さい」
 そう言うと、上司の秋元は、コートを着込んで、襟を立てカバンを小脇に抱えて出て行った。時計を見ると、午後七時を回っている。残業代はつく訳もなく、しかし、急いで帰るでもなく、デスクに腰を下ろすと、雑誌のページをめくり始めた。どのページを見ても、代り映えしない漫画とヌード・グラビアの写真が、欲望をそそるポーズでこちらを見つめている。変わったことといえば、出会い系の広告がやたらと目に付いた。
「出会い系か…、オレには関係ないね」
 稲葉は、携帯電話を取り出し、試しにQRコードをカメラで読み取り、アドレスをクリックしてみた。フラッシュ画面が現れると、画面を下にスクロールしながら、自分のプロフィールを何気なく入れていった。登録を完了すると、サービスポイントが表示され、登録女性の一覧が出てきた。若い女性の写真と簡単なメッセージが書き込まれている。
「こんな真面目そうな娘が、登録してるんだ…」
 稲葉は、サイトをログアウトすると、雑誌をゴミ入れに捨て、事務所を後にした。家に着くと、妻はパジャマ姿でテレビの前で寝転んでいる。
「あらっ、帰ったの。ご飯はテーブルの上よ、自分でチンしてね」
 そう言うと、妻は大きなあくびをして、寝室へ入っていった。もう、夫婦らしい会話もなく、お互いが空気のような存在になっていた。
「いい気なもんだ…」
 中年太りの妻を抱く気にもなれず、ここ十年以上は妻とのセックスは御無沙汰になっていた。そして、稲葉には子供がいなかった。正確には、二十年前に急性骨髄性白血病で中学一年生だった娘を亡くしていた。生きていたら、今頃は孫に囲まれていたに違いなかった。考えてみれば、娘が亡くなってから、夫婦の仲もギクシャクしてきた。共通の話題もなくなり、妻は寂しさを紛らわすために、サークル活動に熱中していたが、その熱も冷めたらしく、家に篭りがちになっていた。
「幸恵と何を話せばいいんだ?仕事の話しはつまらないし、オレには趣味もない…」
 そんな自分が、ちっぽけな存在であることを改めて自覚させられた。
「働き蜂の人生…、ささやかな家を持つことはできた。住宅ローンも去年で終わった。でも、何かが足りない。気が付けば、生活に潤いも喜びもない。ただ、惰性で生きているに過ぎない…」
 稲葉は、ご飯を半分ほど食べると、携帯電話のメールの着信音で、我に帰った。
「はじめまして!里奈といいます。まだ、二十才の大学生です。ワタシ、年上の人に憧れているの。会ってくれない?人生は楽しまないとね!」
 稲葉は、メールを読み終えると、すぐにメールを削除した。
「こんな小娘に、『人生を楽しまないとね…』って、どういうことよ!」
 稲葉は、バカにされたような気分になり、味噌汁を飲んだ後、携帯電話を充電器に差し込んだ。寝室に入ると、すでに妻はいびきをかいて眠っている。いつ頃だろうか?ダブルベッドから、シングルベッドが二つになったのは…。冷えた布団の中に滑り込み、目覚まし時計をセットして眠りについた。
 翌朝、六時に目覚まし時計が鳴ると、寝ている妻をそのままにして出勤の身支度を始めた。もう、何年もこんな状態が続いている。これから先も、こんな生活が続くと思うと、息が詰まりそうになってしまう。稲葉は充電器から、携帯電話を外し何気なく画面を見ると、メールの着信マークが点滅していた。
「こんばんは!里奈です。どうしても、あなたに会いたいの…、これから会えませんか?」
 メールの着信時間を見ると、午前一時を過ぎていた。
「こんな遅くに、何を考えてるんだ?」
 他にも三件ほどメールが入っていたが、稲葉は見もしないでメールを削除した。事務所に着き、朝のミーティングが終わると、現場の段取りを下請の職長と図面を見ながら進めていた。すると、メールの着信音が、頻繁に聞こえるようになってきた。不思議に思いながら携帯電話の画面を見ると、かなりのメールが着信していた。
「何、これ?」
 やっと、出会い系サイトの実態を飲み込めてきた。登録をしていないサイトからもメールが送信されている。あまりの着信の多さに辟易しながら、携帯電話をマナーモードに切り替え、メールの着信音から開放された。昼休みになり、着信されたメールを見ていたら、殆んど二十才前後でとてもお付き合いできる年齢ではなかった。
 稲葉は、この国の行く末に不安を感じた。
「いったい、どうなってるんだ?この国の娘どもは…」
 夕方になり、下請の現場作業員が帰った後、休憩所でメールを見ていると、突然秋元が入ってきた。
「稲葉さん、今日はメールばかり見てますね。何かありました?」
「実は…、妻の具合が悪いらしく、今日に限って、参りましたよ!」
 稲葉は、とっさに困った表情を浮かべ、携帯電話を胸ポケットにしまい込んだ。出会い系サイトのメールを見ていますとは、口が裂けても言えなかった。しかも、三十才そこそこの若造に、家庭の悩みなんか理解できるわけがない?そんな思いが沸々と湧いていた。
「稲葉さん、奥さんの具合が悪いなら、早く帰ってあげてください。今日は早く上がってください。私が、現場の見回りをして帰りますから!」
「秋元課長すいません。お言葉に甘えて、上がらせてもらいます!」
 腕時計を見ると、午後五時を回ったところだった。しかし、早く帰ってもすることもなく、寝るまでの時間を妻と顔を合わせているのが苦痛でならなかった。久しぶりに、行き付けの店に顔を出すことにした。
 札幌駅前通りは、近年ビルの建替えが進んでいる。今は、札幌駅から大通りまでの地下通路の工事が進んでおり、日本生命ビルの建替えが終わり、今はその隣に建っていた、三井ビルの解体が始まっていた。大通り公園に面している、旧北海道拓殖銀行ビルも姿を消して新しいビルの骨組みが見えていた。
 稲葉は、狸小路一丁目の片隅にある、排気ガスで煤けた赤ちょうちんが目印の初老夫婦が営んでいる「親不孝」という字を逆さにして「おやこうこう」と読ませる、ふざけた店名の暖簾をくぐった。
「あれっ?浩ちゃん久しぶり、今日は早いね」
「早く終わったんだ」
「熱燗にする?」
「…まだ、ボトルは残ってる?」
「ちゃんと、有りますよ!」
 稲葉は、やっと笑みを浮かべてカウンターに座り、タバコに火を点けた。
「ハイ! 水割り」
 稲葉は、琥珀色の液体を少し口に含んでから、お通しに箸をつけた。
「女将さんの、お通しは絶品だね」
「あらっ、嬉しい事言ってくれるね。春先に取れたフキが、いい味になったのよ」
 稲葉は、色白でほっそりした女将の指先を見ていた。
「浩ちゃん、何見てるの?」
「いやだよ~、恥ずかしいわ」
 女将の静は、自分の手をさすりながら、おでんの具をひっくり返しては、火の通り具合が均等になるように気を配っていた。
「顔は…、化粧で誤魔化せても、手は誤魔化せないよね…」
 静は、ちょっと寂し気に稲葉の方を見た。
「でも、その手から美味しい料理が生まれてくる!」
 すると静は、ちょっと誇らしげに笑った。奥の方では、親方の銀次が焼き鳥の仕込みで忙しく動いていた。店は、稲葉一人だけで閑散としている。お客は午後七時を過ぎた頃から増え始めるのが常だった。
「浩ちゃん、現場は順調?」
「これから年末に向けて、調整作業が本格的になるから、忙しくなるかな?」
 稲葉は、胸ポケットから手帳を取り出して、眺めていた。
「これから、寒さが本格的になるから大変ね」
「年のせいか…、寒さが体に堪えるようになったよ」
 静は、出来立てのおでんを器に盛って、稲葉に差し出した。器からは、湯気が昇り、ほのかな醤油の匂いが鼻をくすぐり、箸を持つ手が一瞬止まり、何から食べようかと迷った。そして、大根を箸で半分にすると、からしを付けて頬張った。
「熱い!」
 静は、笑いながら銚子に酒を注ぎ、熱燗を用意した。
「今日の熱燗は?」
「喜久水…」
 稲葉は、聞きなれない酒に、目を細めた。
「秋田県能代の酒だ!」
 奥の方から、親方の声がした。焼き鳥の仕込みを終えた親方が、手を拭いながら出てきた。
「女房は、秋田の能代だから、新酒が出ると取り寄せてる」
「親方、どこで女将さんを?」
「若い頃、能代に出稼ぎに行ってて、小料理屋で働いてる器量の良い静に惚れてね…」
「この人、強引なんだから」
 静は、はにかんだ様子で、手際よく熱燗を湯煎から上げると、少し冷ましてから、ぐい呑みに注いだ。
「働いた給料の半分は、静の店に落としたな~」
「毎日、来てたよね~」
 静は、親方を横目で見ながら、笑っていた。
「親方、どうやって口説いたの?」
 稲葉は、興味津々と親方の言葉を待った。
「この人、無口でね…、『明後日、北海道に帰るから、一緒に来てくれ!』って、言うの」
 稲葉は、怪訝そうな顔で静を見た。
「それだけ?」
「顔、真っ赤にして直立不動なのよ」
「静! 余計な事、言うなって…」
 親方は、照れ笑いを隠すように奥へ引っ込んでいった。
「それで、親方と一緒になったの?」
「うちの人、真面目で働き者って評判だったから、間違いないと思ったの」
「反対は、なかったの?」
「その時、母がね『行き遅れなくて助かったよ! 銀ちゃん、静を頼んだよ』って言ったの」
 稲葉は、驚きを隠せず静の顔を見た。
「小料理屋の女将って、静さんのお母さん?」
「そうなの。その後、店の常連客が歓声をあげて、一升瓶を銀ちゃんの頭から掛けて祝福したのよ」
 静は、笑いながら親方の方を見やった。稲葉は、幸福そうな女将と親方の馴れ初めを聞きながら、理想の夫婦像を見た気がした。そして、口に含んだ燗酒は、ほんのりとした甘さだが、スッキリした味わいがあった。
「静さん、今日はこれで…」
 稲葉は、カウンターの席を立ち、会計を済ませて外へ出た。冷たい風が頬を掠めていく。稲葉は、ほろ酔い気分のまま狸小路を歩き、5丁目の『Barとんぼ』の古く小さい看板を軽く小突くと、二階へと続く狭い階段を手すりを頼りに上って行った。そして、軋むドアを開けて中へ入った。
「いらっしゃい」
 マスターの若木が微笑みながら会釈をした。ここではジャズが流れ、ゆっくりとした時間が流れている。
「稲葉さん、久しぶりですね」
「『おやこうこう』から、いつものパターン…」
「何に、します?」
「ウオッカ・マティーニ…」
 稲葉は、悪戯小僧のような顔で、カウンターに肘をつき、人差し指で小鼻を掻いた。そして、タバコに火を点けた。
「ボンドはカッコいいよね」
 そう言うとマスターの若木は、流れている曲を止め、CDを入れ替えた。
「この曲は?」
「『Another Way to Dies』007『慰めの報酬』のテーマ曲」
「そう…、タイトルの意味は?」
「直訳すると『別れ道』かな…」
 稲葉は、曲を聴きながらもの思いに耽り、若木の手元を見ていた。シェイカーにウオッカとドライベルモットが注がれ、最後に氷を入れてシェイクを始めた。それが終わると、カクテルグラスに注ぎオリーブを沈め、レモンピールを入れて完成。目の前に出されたカクテルを愛でると、タバコを消して、口元に運んだ。
「沁みるね~」
 少し苦みの効いたクセのある味わいが口の中に広がった。そして稲葉は、レモンピールを摘まんで口に入れた。
「この甘みが堪らない!」
 すると、カウンターの奥に座っていた男が、隣の席に移動してきた。
「おじさん、カクテルの飲み方、カッコいいですね!」
 稲葉は、四十過ぎの男を一瞥してから注文を告げた。
「マスター、同じモノを彼に…」
「いいんですか? ご馳走になって」
 稲葉はにこやかな顔で頷いた。
「褒められたら、嬉しいよね」
 岡田という男は、恐縮しながらも夏に体験した出会い系の話をしていた。見るからにモテそうも無い、覇気の感じられない風情に、稲葉は苛立ちを覚えた。
 そして、グラスに残っていたオリーブを口に含むと、席を立った。
「マスター、また来るね!」
稲葉は、会計を済ませると店を後にした。駅前通りをススキノへ向かって歩き、国道36号線でタクシーを拾って帰路についた。
「お客さん、どこまで?」
「清田六条三丁目」
 稲葉は、車に揺られながら、いつしか眠りについていた。タクシーはニ十分ほど走ると、清田中学校を過ぎた所で止まった。
「お客さん、どの辺ですか?」
 稲葉は、窓の外を眺めると、内ポケットから財布を取り出した。
「ここで降りる」
 稲葉は、タクシーから降りると上り坂をゆっくり歩いて行った。心の方隅にあった晴れない思いが燻ぶっている。玄関ドアのカギを開けて居間に入ると、女房の幸恵は、ソファに横になりポテトチップスを頬張りながら、テレビを見ていた。
「ご飯はチンして食べてね」
 稲葉は、テーブルを見てから、幸恵が横になっているソファに腰を下ろすと、幸恵を抱きしめた。
「いきなり何するの? 酒臭いし…」
 稲葉は、寂し気に幸恵を見つめると、ソファから立ち上がり、寝室へ入っていった。そして、上着を脱いでパジャマに着替えていると幸恵が入って来た。
「あんた、酒の力を借りないと、私を抱けないの?」
 幸恵は、情けないモノを見るような冷めた目で見つめている。稲葉は無言のままベッドに潜り込み、掛布団を頭から被った。そして、自然と涙が溢れていた。この涙を噛みしめながら、いつしか深い眠りについていた。
 翌朝、頭痛気味の冴えない顔で、鏡の中の自分に向かって頬を叩き、喝を入れた。
「浩二!いつまでも、しょぼくれるな!」
 身支度が終わり、寝室を覗くと幸恵は、まだ寝ていた。稲葉は、おにぎりを握ってラップに包み、カバンに入れると自宅を出た。冷えた空気と昇り始めた太陽を見ながら、バス停で白い息を吐きながらバスを待っていた。朝の六時半は乗る人も居なく、バスを独り占めした気分を味わえる。バスが来て人気のない車内に乗り込むと大通公園までウトウトしながら、時折り車窓から見える国道沿いの風景を見ていた。
 稲葉は、仮設事務所に着くと、灯油ストーブに火を点け、ヤカンに水を入れてストーブに置いた。
「こんな生活…、あと何年続くかな?」
答えは出る訳もなく、胸ポケットで震える携帯電話で我に返った。稲葉は携帯画面に目をやると、おびただしい数のメールが着信していた。
「誰から?」
 画面をスクロールすると、最初に見覚えのある里奈という名前が目に入った。
「里奈と言います。久しぶりにサイトを覗いたら、オジサマの名前が目についたので、メールしてみました。ちょこっとだけ、里奈の身の上を話しますね!里奈は、シングルマザーに育てられた、父親のいない一人っ子です。そこで、オジサマのような存在が気になるのです。一度でいいので、お会い出来ませんか?お返事待ってます!」
 稲葉は、里奈以外の着信メールを全て削除すると、しばらくメールや里奈のプロフィールを眺めていた。ごく普通の顔立ちで、真面目そうな雰囲気に戸惑いを覚えた。
「これ、どうするの?」
 稲葉は、途方に暮れた面持ちで、携帯電話を胸ポケットにしまうと、まもなくして課長の秋元が仮設事務所に入って来た。
「おはようございます!」
 秋元は、コートを脱ぐと作業用の防寒着に着替え、デスクのパソコンを立ち上げると、今日のスケジュールを確認していた。
「稲葉さん、浮かない顔してますね?」
「実は…、妻の風邪がうつったみたいで、微熱があるんです」
 秋元は、引き出しからマスクを取り出すと、稲葉に差し出した。
「稲葉さん! 周りにうつさないでくださいよ」
 稲葉は、神妙な顔つきでマスクを受け取ると、黙ってマスクをしてデスクに座り、パソコンを立ち上げた。間違っても、昨日飲み屋に行って、二日酔いで具合が悪いとは、言えなかった。そして、七時半になり、出社した職長達と朝のミーティングが始まり、八時からは全体朝礼で作業工程の確認を行い、一日が始まった。稲葉は、最後尾の方で作業員全体の様子を見ていた。
 朝礼も最後の方になり、現場代理人の号令で、「安全宣言」を全員で唱和して朝のルーティンが終わった。稲葉は、デスクに座って作業工程表を見ながら、ラフタークレーンの到着時間と、搬入される材料とトレーラーの到着時間を確認するために、ドライバーに到着時間を確認していた。それが終わると、稲葉は事務所を出て、現場の搬入ゲートへ行き、ガードマンに重機や材料の届く時間を伝え、安全確認を徹底するように指示をした。その後は、各階の作業進展を見て回った。寒くなってきたせいか、ジェットボイラーを焚く機会が増えてきた。
「おい!キミ。ボイラーの付近に燃えやすいモノやスプレー缶は危ないから、周りを片付けてくれ」
 若い作業員は、怪訝そうな顔をして、面倒くさそうな態度で、ボイラーの周りを片付けていた。今は些細な事でも、問題が起きたら書類にして提出しなければいけないので、気が付いた事は、その場で注意してやらせないといけなかった。「危険予知連絡表」は、毎朝書いて提出するので、前日にあった「ヒヤリハット」を記入して、危険予知の共有が図られていた。最近は、現場作業員にベトナム人が増えていたので、コミュニケーションが円滑に取れない事も増えていた。言葉が理解できていないので、丁寧に分かり易く手取り足取りで作業を教えていくので、根気がいるため、ストレスにもなっている。
 稲葉は、事務所に戻ると、携帯電話のバイブレーションが頻繁に動作するので、画面を開いてみた。すると、多くのメールが来ており、うんざりする思いが湧いていた。
「里奈…、かなりしつこいね~?」
「何度もゴメンね!里奈です。なぜか?会いたい…」
 稲葉は、里奈以外の着信を削除して、ため息をついた。
「なぜ、オレなんだ?」
 稲葉は、携帯電話を胸ポケットに入れると、亡くなった娘の事を思い出していた。年頃になった娘を見た事がない。そんな思いと共に、「会ってみるか?」という考えが頭をもたげていた。
「しかし、どんな感じで会えばいいんだ?」
「デートなんて、妻と見合いした時以来していない…」
 稲葉は、頭を掻きむしったまま、デスクに臥せった。
「稲葉さん、どうしたんですか?」
 秋元課長が、事務所に戻ってきた。
「………、見ての通りです」
「…?」
 稲葉は、デスクから立ち上がり、インスタントコーヒーを入れ始めた。
「課長も飲みますか?」
「自分で淹れますから」
 稲葉は、ちょっとした気まずさを感じながら、パソコンを立ち上げて工事の日程表を開くと、進捗状況と資材の搬入チェックを入念に行った。そして、時おり秋元の方を横目で見ながら、頭の中は里奈の事で一杯になっていた。
「なんて返事をしようか…」
 稲葉は、天井を見つめてはため息をついていた。
「稲葉さん、さっきからため息が多いですよ。どうかしました?」
「最近代わったばかりのガードマンがトロ臭くて、頭が痛いですワ」
「接触事故が起きないように、よく指導してくださいよ。私は、市役所に書類を提出してきますので、後は頼みます」
 秋元は、そう言うと事務所を出ていった。稲葉は、口で息を吐くと、肩を軽く回してから携帯電話を取り出し、里奈のメールを読み始めた。
「自己紹介 私には父がいません。母は、私が5歳の時に離婚して以来、シングルマザーとして15年間、私を育ててくれました。そんな母に心配を掛けたくないので、私の『パパ活』に協力してくれる人を探しています…」
 稲葉は、自己紹介を読みながら違和感を覚えた。
「普通は、母に心配を掛けないように、自立して働くとかになるのが一般的だと思うのだが…。どうして、『パパ活』になるの?」
 稲葉は、首を傾げて唸った。
「オレには理解できない」
 稲葉は、携帯電話を胸ポケットにしまうと、まんじりともしない気分で、娘との思い出を探していた。海水浴に行ったり動物園に行ったりと、色々あるはずだが、記憶が定かでなかった。
「あ~、思い出せない…、思い出すのは現場の事ばかりだ」
 稲葉は、自分が家族と向き合っていなかった事に愕然とした。今まで、家族の為に働いてきたという自負心はあるが、家族と過ごした記憶が欠落していた。
「この年まで、オレは家族と一緒に居なかった事に気付いていなかった」
「今さら気付いてもね~。女房に厭きられて終わり…」
 稲葉は、自分はおめでたい存在で、一家の大黒柱という威厳を保つ振る舞いだけで、今まで生きてきたが、その威厳も既に破綻しており、女房からも煙たい存在になっている事に、釈然としないながらも受け入れていた。
「全てが終わってる…」
 稲葉は、自分の人生が色あせ、何のために働いているのか?答えを求めては、空しい虚ろな気分が重くのしかかっていた。そして、胸ポケットから携帯電話を取り出すと、里奈に対して「どこで、会おうか?」と書き込んで送信をした。
 今は、この状況から逃げたい気分でいっぱいだった。とにかく、女房と向き合う気持ちはなかった。里奈に会えば、何かが変わるかも?という、微かな期待だけが、稲葉を突き動かした。メールを送信してから、どれぐらい時間が過ぎたであろうか?稲葉は、まんじりともしない気持ちで、現場を見回りながら、つま先をぶつけたり、資材に躓いたり、ジャンバーを鉄筋に引っ掻けたり、普段しないような事が、いっぺんに襲っていた。注意力散漫という奴である。事務所に戻ると、手足に擦り傷が数か所あった。稲葉は血が滲んでる箇所にカットバンを貼って、手当を済ませた。
「何だい、このざまは…」
 稲葉は、自分の情けない姿に呆れていた。そして、携帯電話を取り出して、里奈の返信を探してみたが、まだ返信はなかった。
「いつもは、頻繁にメールしてくるのに、返信したら来ないって事は、遊ばれてたって事?」
 稲葉は、天井を見つめながら、空気が漏れて萎んでいく風船のように、力なくイスに座った。
「いい年したオヤジが、小娘に遊ばれている…」
 稲葉は、携帯電話を胸ポケットにしまい、パソコンを開いて書類作成を始めた。本社に送る書類を作っており、工事の進捗状況や資材の見積もり、下請け企業とのスケジュール調整など作成する書類が多く、会社と下請け会社の間に挟まれて苦労をしていた。夕方になり、メールの着信音で稲葉は、パソコンから目を離して、携帯電話を開いた。里奈からのメールが届いていた。
「里奈、うれしい~。どこで会いましょうか?」
「里奈さんに任せます!」
 稲葉は、そっけない返信をしてしまい、もっと気の利いた事でも書けば良いのにと、悔やんで唇を噛んだ。しかし、とっさには気の利いた言葉が思い浮かばなかった。
「里奈は、美味しいコーヒーが飲みたいので、中央区南19西16丁目にある『THE CAFE』という宮腰屋珈琲店があるので、そこで会いましょう」
 稲葉は、里奈のメールを読みながら、目を何度も擦っては、読み返した。
「これ、信じていいんだよね?」
 稲葉は、頭の中が真っ白になり、思考回路が停止していた。いままで感じた事のない衝撃が走っていた。
「たかがメールで何をそんなに…」
 稲葉は、必死に自分を落ち着かせようと、敢えて否定的な態度を自分にとっていた。
「会う日は、いつにします?里奈さんの都合に合わせますよ」
「あっ…、やっちまった~」
 稲葉は、自分が主導権を握ろうと必死になっていたが、変に嫌われたくないという、気持ちが働いてしまい、相手に合わせる態度を選択していた。送ったメールを恨めしく見ながら、深いため息をついた。
「まっ、いいか?会うのが目的だから…」
 いつもの自分とは違う自分の行動に、違和感を覚えながら、若い娘と会う自分の姿を想像して、頬が勝手に緩んでいた。すると、秋元課長が事務所に戻ってきた。
「稲葉さん、何か好いことありました?」
「顔がにやけてますよ!」
「あっ…、いや何でもないですよ~」
 稲葉は、肩で息をしながら、手で顔を扇いで、その場を取り繕うとした。
「何か、事務所暑くないですか?ストーブ消しますか?そろそろ現場を一回りしてから、帰りますわ」
 秋元は、必死に何かを隠そうとしている稲葉の姿に、笑いが込み上げていた。
「稲葉さん、何かしてるな?」
 稲葉は事務所を出ると、ビルの各階を見回りながら、後片付けをしている作業員に声を掛けて廻った。
「お疲れさん!」
 この労いの言葉を掛けて廻っている時が、一日の仕事を終えた安堵感でいっぱいになっていた。何事も無く、一日を終える事の重要性を肌で感じている瞬間でもあった。稲葉は、30分くらい掛けて現場の見回りを終えて、事務所に戻った。そこには、稲葉の作った書類に目を通している秋元の姿があった。
「稲葉さんお帰り、書類は大丈夫ですね。明日は、この書類を持って本社に行ってきます」
 秋元は、書類をファイルに入れ、自分の鞄にしまった。
「じゃ~、事務所の戸締まり、お願いします」
 秋元は着ていたジャンバーを脱ぐとロッカーにしまい、コートを着て事務所を出ていった。
 稲葉は、胸ポケットから携帯電話を取り出すと、里奈のメールをチェックし始めた。一抹の不安を感じながら、里奈のメールに目を通した。
「里奈の都合の好い日と時間は、今週木曜日の午後2時頃かな~」
 稲葉は、てっきり土日辺りを考えていた。
「木曜日の午後2時って、平日だよ。何考えてんだ!」
 稲葉は天井を見上げて、頭を抱えた。
「失敗した…、自分の都合を先に伝えるべきだった。合わせるって書いたのは自分だし~」
 稲葉は、一気に奈落の底に落とされた気分になっていた。小娘一人に会う為に、自分は冷静さを失っている。何でも最初が肝心というが、既に自分のペースがかき乱されており、自制心が働いていない。
「やばいな~。その日は重要な会議が入っているし、断るしかない」
 稲葉は、重い気持ちを引き摺るように里奈にメールをした。
「その日は、重要な会議が入っているので、土日辺りに変更できませんか?」
 稲葉は、メールを送信した後、たばこに灯を点け、煙を口から吐き出しながら、むせて咳き込んだ。そして、たばこを吸い終えた後に、返信があった。
「土日はバイトです。平日の夜は居酒屋でバイトです。木曜日の午後2時は、授業が休講になったので…。次は、未定です」
 稲葉は、メールを読みながら、里奈の様子が分かり始めていた。
「夜は居酒屋でバイトなんだ。それで深夜に会いたいというメールか…」
 稲葉は、勝手に里奈の私生活を想像していた。
「平日の夜は居酒屋でバイト、土日はどんなバイトをしてるのかな?」
「パパ活だから、他のパパとのお付き合い?」
 よからぬ妄想が、稲葉の心を支配していた。
「あんな清純そうな顔をして、パパ活で奉仕…」
「もしかして、オレもその一人になれるのかな?」
 稲葉の妄想が更に膨らんでいたところで、更に里奈からメールが届いた。
「何か、稲葉さんと会うのは、難しいみたいですね!」
「ちょっと待ってくれ。結論早すぎない?」
 稲葉は焦って、即座にOKのメールを送った。
「どうしょう?会議…」
 稲葉は、半ばやけくそな気持ちで、事務所を後にした。足は、「BARとんぼ」に向かっていた。狸小路に着き、薄暗い階段を上って、バーの扉をくぐった。
「稲葉さん、いらっしゃい」
 マスターの柔らかい声が、稲葉の塞いだ心を温かく包み込んだ。
「何か、冴えない顔してますよ…」
「ちょっと、問題を抱えてしまったのかな~」
「抱えてしまった…」
 マスターの若木は、不思議そうな面持ちで、CDを交換した。すると、スピーカーから、切ないサックスが流れてきた。
「これは?」
「アーチー・シェップの『What Are You Doing The Rest Of Your Life』邦題は『これからの人生』」
 若木は、ニコっと笑って、グラスに水を注ぎ稲葉の座るカウンターの方へ静かに置いた。
「『これからの人生』なんて、考えてもみなかったよ」
 稲葉は一本とられたような感じで、こわばった顔から笑みがこぼれた。
「いつもの奴を」
 若木はシェイカーを素早く振ると、手際よくカクテルグラスに液体を注ぎ、オリーブを沈め、レモンピールを落として、マティーニを差し出した。稲葉は、この一連の無駄のない動作を見るのが、好きだった。店の中は、時間が早いせいか閑散としており、サックスの響きが心地よく壁に反響していた。
「マスター、『パパ活』って、知ってる?」
「言葉は知ってますが、どんな活動なんです?」
「オレも知ってるのは、言葉だけ…」
「稲葉さんの抱えた問題って、それですか?」
 いきなり確信を突いた言葉に、稲葉は持っていたグラスをカウンターに置いた。
「まだ、抱えるまでには…、なってないかな?」
 稲葉は、自嘲気味に笑って、場を取り繕った。
「女性にもてるって、大切ですよ」
 若木は、稲葉の心を癒すように言った。
「この店にも、若い娘を連れてくる常連がいますよ。楽しく会話して溜まったストレスを発散してますよ」
「ストレス発散ね~」
 稲葉は、たばこに火を点け、ゆっくり煙をくゆらせながら、虚ろな目で里奈との出会いを空想していた。
「何事も経験ですよ」
 稲葉は、若木の言葉に後押しされた気分になり、気持ちよく店を後にした。午後8時過ぎに自宅に帰ると、妻の幸恵は相変わらずソファに横になり、バラエティーを見ていた。
「また飲んできたのね?」
「飲んで何が悪い」
 険悪な空気が居間を漂う中、稲葉はウォターサーバーの水をコップに注いで、一気に飲み干すと、寝室へ入っていった。
「この凍てつく空気感は、堪えるな」
 稲葉はパジャマに着替えると、携帯電話を充電器にセットして読みかけの本を開いた。友人から勧められて買った『ありがとうの神様』を、長い間読みかけになっていた。
「最近、『ありがとう』って、幸恵に言った事が無かったな~」
「『ありがとう』という状況にならないから言わないのか?『ありがとう』と言うから、その状況になるのか、どっちだろう?」
 稲葉は、冷えた夫婦関係を何とかしたかったが、何をすればいいのか?皆目見当もつかず、そして答えは見つからず、思考が堂々巡りになっていた。すると、幸恵が寝室に近づく足音が聞こえたので、慌ててベッドのライトを消して、布団に潜り込んだ。
「オレは、いったい何をしてるんだ…」
 すぐ傍で、服を脱いでパジャマに着替えている姿を布団の隙間から覗くように見ている自分が哀れに見えた。
 翌朝、5時半に目が覚めると、稲葉はベッドを抜け出し居間に移動した。携帯電話の里奈のメールを読んでいた。さすがに十一月なると、朝は寒く居間は冷たい空気で充ちている。石油ストーブに火を点けると、ヤカンに水を入れてストーブの上に置いた。
「里奈と会う気あるのかな?」
 里奈の苛立ちのこもったメールに、稲葉は頭を抱えた。
「何とか、理由を付けて会議に出ないで会いにいくか…」
 稲葉は、浴室でシャワーを浴びてから歯を磨き、出勤の身支度をしながら、木曜日の2時に意識は持って行かれていた。6時半になり、朝食を食べずに外に出ると、辺りはまだ薄暗い、新聞配達のバイクが忙しなく、玄関ポストに新聞を入れて廻っている。本当に『ご苦労さん、ありがとう』という言葉を掛けてあげたい気持ちになっていた。バス停には、人影もなく澄んだ空気を独り占めにしている気分で、バスを待っていた。程なくしてバスに乗り込むと、後部座席に座り、携帯電話を取り出して、再び里奈のメールを読み返した。
「オレは、何のために里奈に会うのか?そこまでして、里奈に会いたい理由は何?」
 稲葉は冷静に、自分の心を探っていた。
「そもそも、妻の幸恵と上手く行ってないから、その代わりとして、たまたま里奈が現れたに過ぎない」
「浩二くん、スルーするのかい?」
 もう一人の自分が、せせら笑うかのように訊いてきた。
「会わないとは、言ってない!」
 稲葉は携帯電話を睨みつけた。そして、会議と里奈を天秤に掛け、どちらに傾くか、頭の中で測ってみた。どうも微妙な感じでバランスを保っている。どちらにも大きく傾いてはいなかった。
「どうしよう?会うとメールをしたが、まだ決心がついていない」
 稲葉はバスに揺られながら、自分が優柔不断であることに気付かされた。
「浩二、今さら悩んでどうする?会うの止めようか?」
 稲葉は、バスの外を眺めながら、押し問答を繰り返しては、ため息が漏れた。バスは36号線の創成川を過ぎ、西三丁目の一方通行で右折した。もう少しで大通りのバス停に着く為、稲葉は定期券を準備して、降りる支度をした。
「結論が出ない…。たかが小娘一人に会う為に、そんなに悩むんだ!」
「うるさいな~」と、思わず声が出てしまった。すると運転手が怪訝そうな顔で稲葉を少しみてから、定期券を視た。稲葉は気まずそうに、運転手に会釈してから、バスを降りた。
「なんだかな~、気が重い…」
 稲葉は、重い足取りで事務所に着いた。いつものように事務所を開けてから、ストーブに火を点け、ヤカンに水を入れたり、ゴミ袋にゴミを入れて廻ったり、朝のルーティンをしていると、秋元課長が出勤してきた。
「稲葉さん、おはよう!」
 秋元は、さわやかな声で挨拶をしてきた。
「おはようございます!」
 それと比べて、稲葉の挨拶には元気がなかった。
「稲葉さん、元気ないですね?」
「ちょっと、体調が思わしくなくて…」
「あまり無理をせず、頑張ってください」
 秋元はジャンバーに着替えてから、電気ポットに水を入れ、マイカップにインスタントコーヒーを入れて、お湯の沸くまで、ストーブの前で暖をとっていた。稲葉は、マスクをすると現場を見回る準備をした。
「課長、現場を見廻ってきます」
 稲葉は事務所を出ると、最初にゲートに向かい、ガードマンと機材搬入の時間を確認し、重機の出入りでの注意事項を確認してから、出勤してくる作業員と挨拶を交わしていた。そして、現場の見廻りが終わり、朝礼が始まる直前まで喫煙所の中で、たばこを吸いながら、携帯電話のメールを見ていた。
「里奈さん、木曜日に会えるのを楽しみにしています」
 稲葉は送信した後、スッキリした顔になっていた。
「深刻に悩む事でもない、会えばハッキリする」

 木曜日になり、稲葉は朝から具合が悪そうな表情で仕事をしていた。暗く沈んだ雰囲気を醸し出し、言葉数も少なく黙々とパソコンに向かって会議の資料を作っていた。この資料さえ作っておけば、自分が会議に出なくても大丈夫と踏んでいた。程なくして会議資料が出来上がり、会議に参加する人数分の資料をプリントアウトして、秋元課長に手渡した。
「課長、体調が優れないので、これから病院に寄ってから帰宅します」
 そう伝えると、稲葉はコートを着て事務所を後にした。秋元は、返す言葉もなく稲葉の行動を見守っていた。
「会議は心配しないでください」
 その声を背中で聞きながら、稲葉はホッとした思いから、冷や汗が滲んでいる背中に意識がいった。
「背中が寒いな…」
 稲葉は、大通公園にある公衆トイレの多目的トイレに入り、用意してきたスーツに着替えて、南一条西四丁目から出ている路面電車に乗って、里奈の指定した珈琲店へ向かった。
「何だろう?この不思議な感覚は…」
 稲葉は、ワクワクやドキドキを越えた、胸騒ぎにも似た感覚に疑問に持ちながら、揺れる電車に座って、札幌市内の風景を見ていた。この路面電車に乗ったのは何年ぶりだろうか?普段は車で移動する事が多いので、ちょっと高い目線から眺める風景も好いモノだった。今、札幌駅前通りは、ビルの建て替えが進んでおり、たぶん十年位で様変わりする事が予想できた。駅前から大通り、ススキノと商業ビルの建て替えや新しいホテルの建設が目白押しになっている。今より背の高いビルが増えていくので、ロケーションも必然的変わっていくだろう。
稲葉は、電車が南二十条西十四丁目の「ロープウェイ入口」で止まった時に降りた。そこから山に向かって数分歩いた所に目的の珈琲店があった。店は閑静な住宅街の中にあり、隠れ家的な雰囲気が漂っている。コンクリートの外観とは裏腹に、中に入ると木を使ったウッディな内装に、温もりと焙煎したコーヒーの香りが鼻をくすぐる。一階はカウンター席で、二階はテーブル席になっていた。店内を見回すと、音楽好きなオーナーが集めたエレキギターが展示されており、使われているオーディオにも拘りを感じた。
既に里奈は着ており、店内を見渡している様子を見て、笑顔で手を小さく振り、手招きをしてくれた。
「初めまして、稲葉です」
稲葉は、やや緊張した上ずった声で名前を言うと、軽く会釈をした。
「初めまして、里奈です。稲葉さん、座ってください」
 稲葉は里奈に促されて席に着いた。
「本当に会えて、嬉しいです」
 里奈の屈託のない笑顔に、稲葉は悩んでいた自分が恥ずかしくなった。里奈からメールが来て、まだ一週間も経っていない。そして、出会い系で会えるとも思っていなかった。見た目は普通なので、「パパ活」をしている事が信じられなかった。
「私で何人目ですか?」
 突然の不躾な質問に、里奈は一瞬顔を曇らせたが、すぐに笑顔に戻った。
「私のお勧めを注文していいですか?」
 里奈は、すぐに店員を呼んで、手際よく注文を伝えた。稲葉は、自分でも最初にした質問に驚いていた。
「いきなり、何てこと訊くんだ!」
「実は、稲葉さんが初めてなの…」
 稲葉は、その言葉に耳を疑った。
「本当に?」
「ほとんど、冷やかしばっかりなんです」
 里奈はきっぱりと言い切り、稲葉を見つめた。
「もう、サイトを辞めようと思って、これが最後と決めたのが、稲葉さんなんです」
 稲葉は、なんと言っていいか分からず、言葉に詰まった。
「それは、どうも…」
 里奈が注文したフレンチ・コーヒーとプリンがセットで運ばれてきた。
「ここのプリンとコーヒーが絶妙にマッチして、美味しいの」
 里奈は、笑顔でプリンをスプーンで掬うと、口に入れ稲葉を見つめた。
「何だ?この笑顔は…」
 稲葉は、里奈の目線が眩しくて、目の前のコーヒーに目線を落とし、微妙に震える手でカップを掴んだ。
「私は、里奈さんとはどんな関係で…」
 稲葉は里奈の目を見つめた。
「稲葉さんは、どんな関係を望んでますか?」
「どんな関係って?」
 稲葉は、再び言葉に詰まり、目線を外して外を眺めた。窓からは、葉の落ちた木が寒そうに立っている。紅葉は過ぎていたので、色のない枯れ葉が絨毯のように敷き詰められた山の斜面が広がっている。そして、木漏れ日が二人のテーブルに陰影を残していた。
「稲葉さんの望む関係で…」
 稲葉は、コーヒーを口に運んでから、唐突に亡くなった娘の話しをし始めた。いかに自分が娘を愛していたか、そして、喪失感の中で働いてきた事を語り終えた。
「里奈は、亡くなった娘さんの代りにはなれないけど、稲葉さんと会って話をすることは出来ますよ」
 稲葉は、それで良いと思った。しかし、妻の幸恵の事が脳裏を過ぎった。
「これは浮気じゃないから」
 稲葉は自己弁護を心の中で行っていた。
「どうかしました?」
 里奈は、稲葉の顔を覗き込むように見つめていた。
「いえ、里奈さんのような人に出会えて、良かったな~って」
 里奈は、天使の笑顔から悪戯っぽい眼差しを稲葉に送った。
「稲葉さんの事、パパって呼んでいいかしら?」
 稲葉は、心臓を撃ち抜かれたような衝撃を受けた。
「パパって、呼ぶんですか?」
 里奈は、父親が居なくて寂しかった事を告げた。
「なんか、照れるな~」
 稲葉は、亡くなった娘からパパと呼ばれていた事を二十年ぶりに思い出した。そして、その響きに満足感を覚えた。今までの無味乾燥な生活から抜け出るような期待感が膨らみ、里奈を本当の娘のように見つめている自分がいた。
「パパ、これから友人とコンサートへ行くの、これ里奈のメルアド、早くサイトは辞めて、変な人に引っ掛からないようにね!」
 里奈が伝票を掴んで席を立とうとしたところで、稲葉は伝票を受け取り背広の内ポケットから封筒を取り出し、里奈に渡した。
「これは?」
「お小遣い、無駄遣いしないようにね!」
 里奈は笑顔で封筒を受け取ると、背中を向けて舌を出していた。
「パパ活、成功!」
 稲葉は、テーブルにあったプリンを食べ終えると、満面の笑顔で席を立ち、会計を済ませて店を出た、外は日が暮れてすっかり暗くなっていた。
「まだ、五時を少し回ったばかりで、この暗さか…」
 稲葉は、曇天の曇り空を見上げて、満足げな笑顔を浮かべていた。
「帰るには、早いな…」
 稲葉は、路面電車で大通りまで戻ると、地下街のレストランで軽く食事をしてから「BARとんぼ」へと向かった。狸小路を歩き店の前まで来ると、ちょうどマスターの若木が通路に看板を出している所だった。
「目が合っちゃったな~」
 稲葉が機嫌好く、若木に声を掛けた。
「これから、どちらへ?」
「目が合っちゃったからね~」
 稲葉は、マスターの後から階段を上がっていった。扉を開けて店内へ入ると、いつものようにジャズが流れていた。若木は、CDを交換すると、ピアノ演奏が流れてきた。
「これは知ってるよ、キース・ジャレットの『ザ・ケルン・コンサート』即興演奏の歴史的名盤だ」
「時たま、無性に聴きたくなる一枚です」
 若木は、そう言いながら、グラスに水を注ぎ、稲葉の座るカウンターの前に差し出した。
「今日は、何か好い事がありました?」
 稲葉は、たばこに火を点けると、ゆっくりと頷き、煙を吐いた。
「パパ活されてきた」
 若木は、驚いた表情を見せながら、グラスを手に取ると、ウオッカを適量入れ、果汁100%のオレンジと氷を入れて、『スクリュウー・ドライバー』を作り、本物のドライバーと共に差し出した。
「私からのプレゼントです」
 稲葉はドライバーを手に取ると、ゆっくりグラスの中をかき混ぜた。
「これ飲むの何年ぶりかな~、たしかカクテルの意味は?」
「女殺し…、レディ・キラーです」
 二人は、顔を見合わせて笑った。
「この年で、女殺しとは、笑っちゃうね」
 稲葉は心から笑い、いつしか涙が溢れていた。
「どんな娘のパパに?」
「父親のいないシングルマザーで育てられた、二十歳の大学生…」
「そうなの…」
 稲葉は、ハンカチで目頭を拭うと、カクテルを味わいながら飲んだ。
「これ、何杯でもいけるね~」
「何杯も飲んだら、腰抜けて動けなくなりますよ」
 若木は、いつものようにシェイカーを振り、マティーニを作り始めた。
「たぶん、いい娘だと思う…」
 稲葉は、そう呟くと、頬杖をついたまま眠っていた。
「寝ちゃった~」
 若木は、稲葉を起こす事もなく、壁に掛けていたコートで背中を覆った。そして、二時間が過ぎた所で、稲葉が目を覚ました。
「お目覚めですか」
 稲葉が顔を上げると、若木ではなく、若い娘がカウンターの中から声を掛けていた。稲葉はきょとんとした顔つきで、その娘を見つめた。
「オレ、寝てたの?」
稲葉は、苦笑いをしながら、恥ずかしそうに立ち上がった。
「マスター、悪かったね…」
稲葉は、床に落ちたコートを拾い上げると、背広から財布を出して、会計を済まそうとした。
「今日は、お祝いですので」
 若木は、軽くウインクをして、稲葉を見送った。稲葉は、満面の笑顔で店を後にした。そして、通りでタクシーを捕まえると、清田に向かってタクシーは方向転換をした。
「オレは、パパ活されたんだ…」
 稲葉は、タクシーの中で呟いていた。ちょっと、エッチな関係を期待していた自分もいたが、娘を抱く父親は、ほぼいないと思うので、これで良かったと、自分を褒めたい気分になっていた。
「でもオレって、おめでたい奴だな~」
 稲葉は、里奈との関係を男女関係ではなく、親子関係という位置づけで付き合う事に決めた。
「これは浮気じゃないからな幸恵!」
 程なくしてタクシーは清田に着き、稲葉は白い息を吐きながら坂道を歩き、玄関のカギを開けて中に入った。
「あら、ご機嫌ね~、最近、飲み会が多いのね?」
 幸恵の皮肉にも耳を貸さず、居間から直ぐ寝室へ直行し、パジャマに着替えてから浴室へ向かった。
「いい湯だ。こんな気持ちで湯に浸かるのも久々かな~」
 稲葉は、自分の鬱屈した心が解放された感じで、気持ちが良かった。そんな解放された気分で湯から上がりと、居間に向かった。
「幸恵、たまに二人で温泉でも行くか?」
「どうしたの?いきなり、気味が悪い~」
 幸恵は、手で行かないという素振りを見せ、ソファに横になったままテレビに視線を戻した。
「そうか…」
 稲葉は、瞬間的に里奈と行こうと決めた。
「じゃ~、同僚と温泉に行ってくるよ」
「自由にやって~」
 幸恵は、テレビから目を離すことなく、面倒くさそうに言い放った。稲葉は寝室へ行くと、里奈にメールをした。
「里奈ちゃん、今度の土日は二人で温泉に行かない?部屋は別々に取るから、心配しないで」
 程なくして、里奈から返信のメールがあった。
「パパ、どこの温泉?タ・ノ・シ・ミ!」
 稲葉は、里奈のノリの好さに、すっかり機嫌が良くなった。
「定山渓温泉か、支笏湖の見える丸駒温泉のどっちがいい?」
「里奈は、支笏湖の見える丸駒温泉かな~。それから、部屋は一つにして、浮いた分で美味しいモノ食べましょう!」
 稲葉は、うきうき気分で、携帯電話を充電器に差し、深い眠りについた。

 土曜日の朝になり、稲葉はいつも通りの時間に目が覚めると、すぐに着替えてガレージを開けた。月に数回しか乗らない車なので、すっかり埃を被っている。
「この季節になると、支笏湖方面でも初雪が降っていてもおかしくないので、冬タイヤに交換するか」
稲葉は、万が一の事故に備えて、行きつけのガソリン・スタンドでタイヤ交換をすることにした。
「店長、稲葉です。ご無沙汰してます。急なんだけど、冬タイヤに交換できますか?ついでに洗車もお願いできたら~」
 稲葉は、昼過ぎに大通りで里奈を乗せて、支笏湖に向かう事になっていた。この季節は、紅葉も終わったため、比較的空いており、予約もすぐに取れてしまった。物事が怖いくらいに順調なので、稲葉も驚いていた。
「朝なら大丈夫ですか。店長ありがとうございます。これから、車持って行きますね」
 稲葉は、セダンのトランクを開けると、冬タイヤを積み込んで、スタンドへ行った。スタンドでは準備が出来ており、作業は手際よく夏タイヤを外して、冬タイヤを装着すると、タイヤのバランスを取って、ものの二十分も掛からずエントランスの方へ出てきた。それから、車内に掃除機を掛け、手拭きをしてから、外側の洗車が始まった。
「店長、丁寧な作業ですね」
「ありがとうございます。そう言っていただけると、スタッフも喜びます」
 稲葉は、見違えるように綺麗になった愛車を見ながら、心は里奈とのドライブに飛んでいた。スポーツ新聞を広げながら、鼻歌まじりになっていた。
「稲葉さん、タイヤ交換と洗車が終わりました。給油はどうします?」
「満タンで!」
 給油が終わり会計を済ませると、快適なエンジンを響かせるBMWに乗り込んで、稲葉は自宅へ戻った。家に戻ると、幸恵が起きており、朝ごはんを食べていた。
「朝ごはん、食べる?」
 稲葉は、何か言われるか構えていたが、拍子抜けしてしまった。
「今日は、どこの温泉に行くの?」
「支笏湖の丸駒温泉だよ。行きたい?」
「あなたと一緒に行ってもね~」
 幸恵は、興味ないといった様子で、相変わらずテレビを見ていた。稲葉は、自分でご飯とみそ汁を準備して、テーブルに出ているおかずを食べながら、一緒にテレビを見ていた。
「こんな風に、二人でテーブルに着いて食事をするのは、何年ぶりだろう?」
 稲葉は、共に行動することのない夫婦生活を長い間していた事に、愕然とした。
「お互いが空気のようだ…」
 稲葉は、食べ終えると食器を下げ、自分で洗い始めた。その後は、洗濯物を寝室から持ってきて、洗濯機の中に放り込んだ。いつしか洗濯も別々にされてしまい、自分で洗うようになっていた。
「夫婦というより、オレは居候だな!」
 稲葉は、乾燥機から洗濯物を取り出すと、きれいに畳んでから寝室へ持って行った。
「幸恵、行ってくるね!」
「ハイハイ、いちいち言わなくても大丈夫よ!」
 いつもなら、腹を立てて言い返すところだが、今日は不思議にも、気にならなかった。
 稲葉は車に乗り込むと、大通りへ向かった。36号線から駅前通りを走り、大通りの北海道銀行本店の前で、バーバリーのコートを着込んだ里奈が立っていた。
「里奈ちゃん、待った?」
 稲葉は、ウインドウを下げると、里奈を手招きした。
「さすがに、十一月も半ばになると寒いわね」
 里奈は、稲葉を見つめてから、冷えた手を稲葉の頬に当てた。
「里奈やめろ。冷たいって!」
「パパのほっぺた、温かい」
 稲葉は、車の中で、はしゃいでいる里奈を横に見ながら、娘が生きていた頃を徐々に思い出していた。娘と妻を後ろに乗せ、旭川の旭山動物園に行ったり、小樽水族館へ行ったり、積丹で海水浴をしたり、キャンプにも行った。
「パパ、どうしたの?涙が出てる…」
「昔の事、思い出したら…。急に~」
 里奈は、膝の上に置いていたバッグからCDを取り出すと、それをセットした。すると、スピーカーから洗練されたシティポップが流れてきた。
「この曲は?」
「showmoreの『circus』という曲」
 稲葉は、歌詞を聴きながら、ポツリと呟いた。
「何か、切ない曲だね…」
「今の季節にピッタリね。里奈、パパに会えて嬉しいの」
 里奈の頬に、一筋の糸が伝わった。
「いつも、仕事で疲れて帰ってくるママとは喧嘩ばかりなの」
「どうして?」
「寂しかったの…。パパが居たら、喧嘩しなくて済んだのに、って後悔ばかり」
 稲葉は里奈の話を聞きながら、曲がりくねった、国道453号線を走り、支笏湖畔にある丸駒温泉に着いた。二人はチェックインして部屋に荷物を置いた後、湖畔を散策した。二人は手をつなぎ、ゆっくりと湖畔を歩いていた。辺りは人影もなく、店舗も冬囲いをして閉鎖しており、岸にはスワンボートが引き上げられていた。
「何か、寂しいね」
 稲葉は話題が見つからず、寒々とした景色を見ながら、風邪で揺れる湖面を見つめていた。所々に、雪が残っており冬の匂いがした。
「パパ、戻りましょうか?寒いから、温泉に入って美味しいモノ食べましょう」
 稲葉は、里奈の手の温もりを感じながら、温泉宿へ戻った。そして、二人が部屋に入ると、既に二組の布団が敷かれてあった。
「もう、用意されている」
 里奈は、嬉しそうに服を脱ぐと、浴衣に着替えていた。
「パパ、どうしたの?」
「なんか、目のやり場に困って…」
 里奈は、大笑いした後、タオルと手ぬぐいを持って、部屋を出ていった。残された稲葉も浴衣に着替えると、大浴場へ向かった。大浴場からは、パノラマのように支笏湖が見える。
「なんて、素晴らしい風景なんだ。来て正解だね~」
 稲葉は、今までの疲れを癒すように、ゆっくりと温泉に浸かっていた。そして、湯船から出ると、里奈はフロントにあるお土産屋で待っていた。
「パパ、遅い!」
 里奈は、口を尖らせて駆け寄ってきた。
「食事はレストランに用意されてますよ」
 二人は、そのままレストランへ行き、温かい鍋に舌鼓を打ち、刺身や茶碗蒸しを堪能した。そして、食事が終わると、里奈は缶ビールとおつまみを買って部屋に戻ってきた。
「二人で乾杯しましょう!」
 里奈は、テンションが上がっていた。稲葉は、もし成人した娘と二人で温泉旅行に来たら、こんな感じになるのかな?と、勝手に想像していた。
「早く、ビールで乾杯しましょう」
 稲葉は缶ビールのプルタブを開け、里奈と乾杯をした。
「二人の出会いに乾杯!」
 里奈は、一気にビールを飲み干すと、口の周りに泡を付けたまま、ピーナッツをほおばった。
「里奈、冬眠前のリスだね!」
「里奈は、カワイイ子リスちゃんです」
 里奈の頬はほんのりと赤く染まり、妙に色っぽかった。稲葉は、里奈の姿を見ながら、よからぬ思いが湧いている自分を抑制していた。
「手を出すんじゃない!」
 稲葉は、少し酔いが回った所で、椅子にもたれて寝ている里奈を布団に寝かせてから、照明を消して、布団に入った。そして、しばらくすると、背中に柔らかい感触を感じて横を見ると、里奈が背中に胸を当てて寝ていた。
「オレは、抱き枕じゃないし~」
 しかも、太ももに足を絡めてきた。
「ちょっと、まってくれ~、息子がやばい事になってきた」
 稲葉は、金縛りにあったように体が硬直して、固まっていた。さらに里奈の右手が稲葉の股間をまさぐり、息子を握りしめた。
「里奈、そこでストップ!」
 里奈は、手を離すと背中を向けて、すすり泣いた。
「パパ、ごめんなさい…」
 稲葉は無言のまま、里奈の手を朝まで握っていた。

 朝になり、稲葉は何事もなかったように、里奈に接していた。二人は朝風呂に入ってから、レストランで朝食を取り、九時過ぎには温泉をチェックアウトした。
「パパ、里奈のこと嫌い?」
「嫌いじゃないよ…」
「パパにあんな事したから、嫌われちゃったかな?って」
「娘を抱く父親は、たぶんいないと思うよ」
 稲葉は、自分の娘のように接しようと決めたから、理性で抑えたに過ぎなかった。それがなかったら、流れに任せて里奈を抱いていたに違いない。

 その後、二人は親子のように頻繁に会うようになっていた。そんな十一月も月末を迎え、仕事を終えて帰宅した頃、幸恵が珍しくテレビを消して、テーブルの前に大きな茶封筒を置いて、座っていた。
「あなたに見せたいモノがあるの」
「見せたいモノって?」
 稲葉は、コートを脱ぎ、ジャンバーのボタンを外しながら、怪訝そうに幸恵を見た。
「ここに座って」
 幸恵は茶封筒から、大量の写真を取り出して、テーブルに広げた。
「何だ、この写真は!」
 稲葉の顔から血の気が失せ、口の中が乾いた。
「これ、どうしたんだよ?」
「あなたの様子がおかしいから、探偵を雇って調べたら、このざまよ!」
「こんな若い子と、頭おかしいんじゃない!」
 それから数時間、幸恵の積年の私への恨みと罵詈雑言が続き、最後に大きな声が居間中に響き渡った。
「離婚よ、離婚!」
「この家は私が貰うから、分かった!」
「あなたの年金だって、私が半分貰うから覚悟しなさい!」
「ハイハイ、幸恵の好きなようにしてください!」
 稲葉は、もうどうでもいい気持ちで、あえて反論はしなかった。それよりも、やっと女房から解放される喜びの方が大きかった。

 次の日、稲葉は会社を休み、離婚届けにサインをして印鑑を押した。そして、すぐに役所に書類を提出し、幸恵の雇った弁護士に会った。弁護士からは財産分与の説明を聞き、現在持ってる貯金も半分取られ、家の所有権を幸恵に切り替える事を承諾し、年金も半分渡す事に同意して終わった。幸恵は、弁護士と共に勝ち誇ったような顔が印象的だった。
稲葉は自由と引き換えに、何もかも、失ってしまった。それから一週間が経ち、自宅を追い出されたので、急遽引っ越しをして中央区の中島公園近くにアパートを借りた。8畳ワンルームでこじんまりしていた。大した荷物もなく、自宅から持ってきたのは衣類とパソコンに布団を車に詰め込んで持ってきたに過ぎなかった。後は、家電量販店でテレビと冷蔵庫を買い、ホームセンターでテーブルと灯油ストーブを買っただけだった。
「恐ろしいくらい、何もないな~」
 稲葉は、この8畳でいつまで暮らすことになるのか見当もつかなかったが、独りで質素に暮らすのも悪くないと思った。今まで重荷に感じていたモノがすっかり無くなってしまったので、ずいぶんと気が楽になっていた。
「老後は、何をしようか?」
 稲葉は里奈に対して、事の顛末を伝え「パパ活」や、資金援助が出来なくなった事をメールで伝えていた。それ以来、里奈からのメールは無く、心にぽっかりと大きな穴が空いたような感じで、冬の寒さ以上に心が寒かった。それでも、里奈が会いに来てくれる事を期待して、アパートの住所は知らせていた。
「辺りを散歩でもするか…」
 稲葉は、そう呟くと、コートを着てスニーカーを履いて外に出た。空はどんよりと暗く、今にも雪が降りそうな空模様であった。中島公園を歩いていると、時々子連れの親子とすれ違う、その様子を垣間見ながら、いつしか豊平川の河川敷を歩いていた。
「こんな寒い日でも、ランニングね~」
 稲葉はベンチに腰を下ろし、鉛色の空を見つめていた。すると、何やら白いモノが降ってきて、顔に当たって消えた。
「雪か…」
 その白いモノが稲葉の顔に当たっては消えていくうちに、目尻のシワから水になって流れた。すると、突然傘が頭の後ろから出てきた。
「里奈、どうしてここに?」
「アパートが留守だったので、地下鉄に乗ろうと中島公園を歩いていたら、パパを見つけたの。でも、声掛け辛くて、後ろの方から見てたの」
 稲葉は、嬉しさと気恥ずかしさで、頭の中が真っ白になっていた。
「すまんな~」
「里奈のせいで、パパが大変な事になってしまって、もうどうしていいか、分からなかったの」
「気にするなって!たとえ、里奈に出会ってなくても、こうなってたさ…」
 稲葉は、自分にも言い聞かせるように、務めて笑顔で話した。
「実は、パパにお願いがあるの」
「お願いって?」
「援助とかはいらないので、これからも里奈のパパでいてほしいの!」
 稲葉は、里奈の申し出に、言葉を失った。
「大学の友人にパパの事で相談したら、後腐れなく別れられて良かったね!って言うのよ。体の奉仕もなくて資金援助してもらえて超ラッキーな関係だったね。って、もう最悪だったわ」
 里奈は、傘を回しながら、稲葉の横に座り友人との会話を再現してみせた。
「里奈は、本当のパパが欲しかったの」
 里奈は持っていた傘を稲葉に預けると、持っていたバックから一枚の写真を取り出した。
「この写真見てくれる」
 稲葉は、四十前後の女性の写真を見せられた。
「どう思う?」
「どう思うって言われても?けっこうな美人さん…」
「ありがとう。実は里奈のママよ」
 稲葉は、里奈と写真を見比べながら、言葉を失った。
「今度、ママに合わせるね!」
 里奈は、満面の笑を浮かべて、稲葉の耳元で囁いた。
「里奈の本当のパパになるのよ!」


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