結論

 神を求めて哲学をしていたけれど、実感として結論が出たので結論を書きたい。最近の記事は重複が多い気がするけど勘弁してください。

 不条理、ということから思索が始まったのだけれど、元々神っていうのは不条理に要請された観念だ。なぜか人が病気で死んだり、災害が起きたり、戦争が起きたり、不作で飢餓が起きたりする。なぜだか全然説明がつかない。「説明ができない」から観念をでっちあげる。それが神と呼ばれた。そして災害や病気といった不条理さ(の神)は「畏怖」される対象となった。

 ユダヤ教がヤハウェを戦争の神から〈在りてあるもの〉にした時から、真理が開示された。それまでの神観念は人間の祈祷によりコントロールされるようなあまりにも不合理で脆弱な存在であったが、ユダヤ人は「存在そのもの」を神とすることにより、「不条理な神」を誕生させる。アブラハムに息子を犠牲にさせようとしたり、男色の街を滅ぼしたり、義人のヨブの家族を皆殺しにする。「ヤハウェ」というのは「存在」であるから、世界に興味を持たない。だから善人にも悪人にも平等に不幸が訪れる。

 近代へ突入し「神が死んだ」ことにより、より本質的な真理が開示される。「存在」を模して観念されていた神観念が崩壊し、世界はニヒルに包み込まれる。ただ、もともと「存在の不条理さ」を神と呼んでいたのではなかったか。存在の不条理さに畏怖を覚えていたのではないか。

 「存在」という「あり得なさ」に神という名前がついていただけで、神という名前を取っ払ったところで、存在のあり得なさへの畏怖をなくさなくてもいい。存在のあり得なさ、神々しさ、不思議さ。容赦のない残酷な面も勿論存在するが、「今ある」という意味不明さは凄い。意味が分からない。
 原口統三の先輩である藤村操の遺書。当時は感銘を受けた。

岩の上で思う 天地は何者にもとらわれず、 なんと悠々としていることか。 今と昔のとは、はるかにへだたってしまった。五尺 (151cm)の小さな体でこの大きさを測ろうとしている。 ホレーショの哲学はなんら権威のあるものではない。 全ての真相はただ一言につきている。 「不可解」であると。 私はこの恨みを抱いて煩悶して、ついに死を決断した。 こうして岩の上に立つことになって、 胸の中に何も不安はない。 初めて知ったのだ、大きな悲観は、大きな楽観と同じということを

 不可解という悲観と楽観は、同じコインの両面なのだ。だから自殺する必要はなかった。不可解は悲劇でも喜劇でもなく、ただ神々しく存在している。
 やっと終わった。

 

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