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【禅語 回向返照】 真実を生きる 自分に嘘はつけない

最近浮かんできたメッセージをお伝えします。

坐禅って坐りたいか坐りたくないではないんだ。

何かを得ようとすると、得られないとやめてしまう。
幸せに生きようとすると、幸せでないものを排除する。

坐らざるを得ない。
坐るしかない。
だからただ坐るんだ。

どう坐るかの前にもっと大事なことがあった。

「坐る」という心が少しだけ整ってきたかもしれない。




最近、禅僧である内山興正老師のお言葉をよく思い出します。

頭の中にある「命」と「いのち」の中にある「あたま」

何が違うのでしょうか。違いをわかるのは、なかなか難しいかもしれません。


まずは、頭の中にある「命」について少し解説します。

私たちが考える世界は、頭の中にあります。そして、頭が作り出した世界には、自分が考えた「幸せ」があり「苦しみ」があります。

頭の中で作り出した世界を生きているとき、人は目標を立てようとします。世の中の価値で自分の価値を計ろうとするのです。

これが良い悪いではありません。頭で世界を作り出す機能を私たちは持っているのです。その代表が言葉です。言葉でなんとかすべてのことを説明しようとするのです。


一方で、内山老師が言われる「いのち」の中にある「あたま」とは。「あたま」もいのちの働きの中の一つです。


「いのち」から生まれるご縁の世界には、自分が求めていた「幸せ」はありません。

いのちから生まれる表現は、言葉になっていないものがほとんどです。その一つが「願い」と「祈り」です。

もう祈るしかないとき、無事を願うしかないときがあります。このとき、幸せなど考えられません。でも、そのときあなたは「いのち」の中で生かされています。

今日一日なんとか無事に終えられたことをありがたいと思えているとき、他には何もいらないでしょう。

これが「ただ今を懸命に生きる」ということではないでしょうか。



恥ずかしながら、最近まで坐禅が苦手でした。坐ろうすると、なかなか坐れないのです。それが、今は毎日坐っています。

今は、食堂をやる中で、圧倒的に自由になる時間は少ないです。しかし、坐りたいのです。というよりも、坐らざるを得ないという感覚でしょうか。

どうしても坐らざるを得ないと感じているとき、どんなに時間がなくても坐ります。トイレ、移動中、少しの時間を見つけて坐るのです。どこにいても坐禅をしています。

今までで一番、坐禅とひとつになっているように感じます。

坐禅も祈りや願いと同じなのかもしれません。

「○○しかない」「○○しなくてはいられない」「○○せざるを得ない」くらいの状況になってこそ、坐る準備が整ったということかもしれません。



坐禅は、「もっとよい自分になる」ということではなく、「本当の自分に還らざるを得ない」という、切なる願いではないでしょうか。



人には誰しも「するしかない」「せざるを得ない」ときがあります。

今あなたはいかがでしょうか?

頭では苦しいと感じるかもしれません。もう止めたい、投げ出してしまいたいと思っているかもしれません。でも、そのときあなたは生かされている「いのち」を生きている瞬間なのです。

内山興正老師は、生涯を通して「自己とは何か」に向き合われました。

著書の中で、『わたしが「真実に生きる」というのは、けっして現実から離れた抽象的な真理探究ではありませんし、またいかなる意味においてでも、自分をエラクするということではありません。ただ「今の時代に生きている私という事実」を、「今という時代において、私はどうしてもこのように生きざるをえないという真実」にまで、煮詰めていきたいということなのです。』と述べられています。



行き詰まったとき、私がいつも戻る原点があります。

それは「聴く」ことです。人の話を聴くことです。

考えすぎたとき、聴くことに戻ります。
結果を出すことに焦ったとき、聴くことに戻ります。
答えが見つからないとき、聴くことに戻ります。


何かしようとするとき、人は考えます。人は考えているとき、能動的なあり方になっていると言えます。

一方で、聴くのは、相手から受け取ることです。自分が何かをするのではなく、ただ受け身でいることです。受け身でいると、考えることはできません。

私も日々の生活の中で、さまざまなエゴでいっぱいになっています。だから、聞き始めたときは、さまざまなジャッジをします。「ああすればよいのに」「こうしたらダメなんだ」さまざまなアドバイスも浮かんで来ます。

ただ、それらのアドバイスはまったくクライアントの役に立ちません。最初は心の表面がザワついている状態なので、それは表面に沸き立っている泡を言葉にしているようなものです。

それらを認識しながら、ジャッジはすべて手放していきます。ただ、流していくともいえます。

そしてジャッジを手放しながら聴いていると、頭の力みがとれていきます。ただ相手を見ている。言葉が聞こえている。息している。これだけ感じながら、相手の話を聴いていると、いつしか自分が考えることが減っていきます。そして、あるとき相手の心の声がきこえてきます。

そして、相手の心の声だけでなく、同時に私の中からの声もきこえてきます。

私自身が「聴く」になった瞬間です。この瞬間、聴き手としての私は消えています。



話し手もない。聴き手もいない対話。



恐らくですが、このときクライアントさんの目には赤野ではなく、自分の姿が映り出されています。まさに鏡です。



「回向返照」という禅語があります。

回向返照とは「道を外に求めることなく自己の本性を照見すること」とされています。

自分を照らすことで本性が現れてくるのが坐禅です。ただ、坐ってするだけが坐禅ではなく、人の話を聴くことがまさに坐禅だと、個人的な体験として気づきました。


あなた自身の中には、まだあなたも気づいていない純粋な魂があるのです。

自分で考えて分析できる自己には、限界があります。一方で、相手を通して、自分の内面に光を照らし返すことが、「聴く坐禅」ではないかと思っています。

どんなに不平や不満でいっぱいの状態でも、どこかに絶対大丈夫という本性があるのです。

「回向返照」は完全に独立していて、そしてつながっているという状態です。まさに無心の世界への入り口です。


話を聴くたびに、いつもクライアントさんに気づかされます。クライアントさんに育ててもらっています。そんな仕事をさせていただいているのが、本当にありがたいですね。

そして、私がそうやって話を聴いているときに、「優しさ」が溢れているそうです。

正直「優しさ」というのは実感がありません。ただ、私が聴く副産物として「優しさ」が生まれているとしたら、これほど嬉しいことはありません。




今回もここまで読んでくださり、ありがとうございました。

高い目標を掲げて目指せる人がおられます。目標を掲げて頑張れる人は素晴らしいです。そういう方はその道をまっしぐらに進まれたらよいでしょう。

では、私は食堂で何を目指すか。

高松で評判の食堂?売り上げや利益の目標?他の飲食店にはないオリジナリティを作り出す?

私にも高い頂を目指して頑張っていた時期がありました。しかし今の私は、目指すことには心惹かれません。もし何かをめざし、GETする人生を歩んでいたとすれば、きっと食堂をはじめてはいなかったでしょう。

食堂とは与えられた試練です。上手くいえないのですが、去年ある人と出会い、ご縁が生まれた時、それはしたいかどうかではなく、食堂をするしか選択肢がなかったのです。

するしかない。
いくしかない。
せざるを得ない。

自分に嘘はつけません。

人に嘘はつけても、自分はごまかせないのです。

これが試練が与えられたときの感覚でしょうか。

試練は誰にも与えられています。

「人に比べて自分は何も持っていない」と感じるときがあります。しかし、試練はあなたにだけ与えられています。

ただ、人は好き嫌いで選り好みするのです。頭でジャッジしてしまうのです。こんな試練はいらないと目を背けるのです。

与えられた「いのち」を生ききれるかどうかは、どんなに嫌でも、あなたにだけ与えれられた試練に気づき、受け取れるかです。

そこには答えはないのです。成功も失敗もないのです。すべては、生きるという体験です。

体験を体験として行うことができたとき、そこには思考で考える世界を超えた「真のわたし」が顕れてきます。

今私は、食堂という試練を与えられ、かけがえのない体験をしています。

先日、ある友人から、わたしには「希望」が宿っていると言われました。自分にはまったく分かりませんが、どうもそうらしいです。

「なんでこんなことやったのだろう」と苦しくて辛くなることも多いですが、優しさと希望が宿っているとすれば、本当に嬉しいです。




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